第190話 投手戦の終わり
五回の表もまた、レックスは三者凡退である。
ここに来て観客ならびに視聴者は、異常事態に気づき始める。
直史のパーフェクトというのは、むしろよくあることである。
だが相手の古川も、デッドボール一個のノーヒットノーランを続けているのだ。
確かに最速158km/hのストレートのキレは、相当に素晴らしいものだ。
また食っているイニング数などは、溝口よりも多かったりする。
足元の技術などは、溝口よりも優れているぐらい。
球数にしてもまだ、第一戦の時の溝口よりは、余裕があると言えるだろう。
フルイニングを投げて、0に抑えたならば、それで充分なのだ。
しかしノーヒットノーランとなると、また試合の展開が変わってくる。
直史はピッチングに専念しながらも、試合全体の空気を感じ取っている。
この試合は負けても仕方がない、といった試合前の雰囲気。
それがどんどんと薄れていっているのだ。
パーフェクトをしている直史と、ノーヒットノーランの古川。
実力と実績の評価であれば、圧倒的に直史となる。
しかし直史は古川の、プロ入り以前の実績も確認している。
チームを勝たせるピッチャー。
舞台が大きくなればなるほど、その実力を発揮するタイプであるのか。
制球に優れているのもあるが、それよりは決め球のキレがいいと思う。
もっと事前に、確認しておくべきであったか。
直史の仕事は投げることなので、ピッチャーの分析などはしていない。
古川が第二戦に投げると聞いて、するともう自分が打つ機会はないな、とも思ったのだ。
実際に研究したところで、直史の今の打力では打てるはずもない。
しかしチーム全体としては、この好投手を打つことが、日本一のための条件になってくる。
溝口も確かに、優れたピッチャーではあった。
だが古川は遅いボールがあまりないのに、チェンジアップを上手く使ってきている。
緩急を使うことにおいては、世界一といまだに言われるのが直史である。
古川が打てないのは、一番速いストレートの上に、さらに一段クオリティの上がったストレートがあるからだ。
ノーヒットノーランは、別に崩れても構わない。
途絶えてしまったとしても、0をスコアに刻み続けることが、レックスにはプレッシャーとなってくる。
マリンズ首脳陣はそうも考えているが、古川としては別である。
レックスは投げている直史も、そしてそれにおんぶに抱っこの打線も、この試合展開には慣れている。
おそらく先に崩れてしまうのは、マリンズの方だろう。
味方を信頼していないと言うよりも、相手の実績が巨大すぎるのだ。
だが古川は投げ続ける。
ベンチに戻っても集中力を途切れさせず、水分などを補給していく。
味方の打線が点を取れないのは、当たり前だと割り切っている。
だが佐藤直史と、日本シリーズで投げ合っているのだ。
その事実が古川には、いい意味での強烈なプレッシャーとなり、普段以上のピッチングを可能としている。
あの人はいったい、どういう存在なのか。
多くの人間が思う疑問を、古川も抱えている。
五回の裏の、マリンズの攻撃。
四番から始まる、基本的には長打を狙える打線である。
しかしまるで点が入る気がしない。
グラウンドボールピッチャーというデータが、今年のレギュラーシーズンのピッチングからは示されている。
だが実際のところは一度引退するまでは、相当の三振を奪えるピッチャーでもあったのだ。
ボール球を投げないのに、かなりの奪三振率を誇る。
重要なところでは三振を奪うか、あるいは内野フライを打たせるか。
ホップ成分の高いボールで、処理の簡単なボールにしてしまうのだ。
今はNPBも一応、フルスイングをする時代になっている。
フライをバレルで打って、スタンドに放り込むことが求められるのだ。
レギュラーシーズン中は、それをしっかりとゴロにさせていた。
去年に比べると奪三振は減ったが、打たれるホームランはもっと減った。
そもそも一桁しか打たれていないので、減ったも何もないとも言えるが。
先頭打者に外野フライを打たれたが、むしろそれは珍しいぐらいである。
ゴロを簡単に打たせることも出来るが、逆に簡単な内野フライも打たせることが出来る。
それが直史のピッチングであって、外野に運んだだけでも偉い。
もっともそれを評価などはしないし、評価されても嬉しくないだろう。
フェンス際ぎりぎりまで飛ばした、などというものならともかく。
続く二人も、一人は内野ゴロに打ち取られ、最後もスローカーブを空振り三振。
ほぼ遊び球を使わず、振らせるボールを投げてくる。
あるいはスローカーブなどによって、完全にタイミングを外してくるか。
完全にバッターのデータを入れて、おそらく読み合いで勝っている。
古川もバッターのことをある程度、読んで投げるということはある。
しかし直史はほとんど、超能力で読みを当てているような、そんな雰囲気さえある。
五回が終わったところで、いまだにパーフェクト。
それはまだしも、球数を投げさせることが出来ていない。
打てそうで打てない、というボールが多いとは言えるだろう。
普通はそこには投げない、というボールを平気で投げてくる。
だがそこを待つようになれば、今度は逆に投げてこなくなるのだ。
キャッチャーのリードはほぼないと、普通に分析するまでもなく、分かっている。
自分で組み立てて、自分の責任で投げている。
日本ではピッチングの組み立ては、基本的にキャッチャーが行う。
だが今ではMLBなどは、完全にベンチからサインが出るようになっている。
直史はそのMLBでも、自分のやり方で結果を残した。
それについてはインタビューで答えていてこともあって、印象に残ったものだ。
データはあくまでもデータである。
苦手なところにばかり投げていて、打ち取れるわけがない。
意外性のあるピッチングをすれば、それで必ず打ち取れる打球にはなる。
それで直史はMLB時代も、一試合10以上の奪三振数を誇っていたのだ。
球速はMLBの中では、平均よりも下であったろう。
だがコマンド能力は、間違いなく史上最高。
変幻自在なのは変化球だけではなく、他の部分にも言えたことだ。
リズムを変えてみたり、タイミングを変えてみたり、リリースポイントを変えてみたり。
普通なら変えたらコントロールが悪くなるのに、全くそんなことはない。
確かに高校野球レベルなら、オーバースローからサイドスローまで、フォームを使い分ける変り種はいたりするのだが。
プロのクオリティでそれをやるのは、完全に異常である。
味方が打てなくても、仕方がないとさえ思ってしまう。
だがせめてもう少し、粘ってはいけないものだろうか。
古川の球数は、それほど多くなっているわけではない。
だが直史の球数は、またも100球以内で完投のペースなのだ。
粘っていくという、あまりプロらしくないバッティングでもすべきだ。
そもそも今のところ、パーフェクトに抑えられているのだから。
だが打とうと思えば打てそうな、微妙なボールが投げられたりする。
あるいは失投のようなボールが来て、それに力んだスイングで対応したりする。
ほんのわずかなタイミングのズレで、凡打になってしまうのがバッティングだ。
パワーだけで持っていくということも出来るが、それにも限度がある。
ベンチに戻っても、表情を変えることがない。
完全に無表情で、喜怒哀楽を表に出さない。
味方の攻撃を見てはいるが、そこでも感情を露にしない。
チャンスが出来ても潰れても、淡々とした表情を貫いていくのだ。
純粋なスピードではそれほどでもない。
テクニックという点では、確かに到達点だ。
しかし一番恐ろしいのは、そのメンタルであろう。
コントロールの乱れというのは、再現性がなくなることをいう。
そして再現性を貫くためには、まずメンタルの揺らぎをなくすことが重要になる。
駆け引きが重要なバッターとの勝負では、弱気になっては勝てない。
だが無謀な勝気を出して、力勝負などをしてもいけない。
直史は力勝負に見えるストレートを投げても、それで打ち取れるという布石を打っている。
しかし他のピッチャーには、それがほとんど分からない。
六回の表、レックスは下位打線から始まる。
あっさりとツーアウトは取られてしまったが、一番の左右田に三打席目が回ってくる。
ここで打った打球は普通に、内野の頭を越えた。
ようやくノーヒットノーランが終わる、そのはずの展開であった。
ライトが前進してきていて、キャッチしたボールを即座にファーストへ。
一歩目が遅かったのだが、俊足の左右田がなんと、ライトゴロでアウトになる。
今季ライトゴロなど、一度も経験していない左右田であった。
それがよりにもよって、この大事な試合で出てしまう。
ただの力のぶつかり合いではなく、何か奇妙な縁が存在しているような。
不気味な力が働いているという、そんなオカルトを考えてしまう。
首を傾げながら、ベンチに戻ってくる左右田。
確かに不充分な体勢から打ったので、一塁へのスタートは遅れてしまった。
だが完全なヒット性の当たりで、それがライトゴロになるという。
当たりが良かったからこそ、スムーズに送球までされた、という面はもちろんあるのだが。
六回の裏はもちろんマリンズはそのまま下位打線。
ここでもヒットが出るという気配がない。
ただ、スコアを確認している人間は、気づいたりもした。
直史は初回以来、150km/hを出していない。
もちろんそれでも、ストレートでの三振を奪ってはいるが。
確認してみるとやはり、150km/hは最初に出しただけ。
ストレートは三振よりも、フライを打たせる方に向いている。
七番を三振、八番も三振、そして九番はサードフライ。
球数が一桁になってしまったイニングである。
古川と直史のピッチングは、奪三振数がぴたりと同じになっている。
打たせて取るという打球も、それなりに似たような数字になっていた。
だが圧倒的に違うのは、球数である。
六回が終わった時点で、古川はもう87球。
直史はまだ60球に達していない。
単に球数だけではなく、1イニングあたりの球数が、ちょっとずつ多いだけ。
それでも六回まで終われば、こういう結果になってくるのだ。
蓄積してくる疲労。
おおよそ七回に、100球に達することが多い。
これを超えればまた、少しハイになって投げることが出来る。
しかし一度疲労を感じる、この七回に乱れることが、ピッチャーには多い。
上手くスタミナを配分し、完投するのが昔の野球であった。
ただそうなると、意外に下位打線に打たれる、ということがあったりしたものなのである。
現在は完全に、継投が主流になっているのは、プロもアマも同じことである。
そんな中で圧倒的に完投が多くなるのは、エネルギーを消耗することなく、組み立てでアウトを取っていくからだ。
直史だけがそれをした上で、さらにフォアボールも出さない。
ボール球を振らせるというのは、それなりにあるのだが。
七回の表は、レックスにとっては重要な攻撃になるのは間違いなかった。
先頭打者が二番の、曲者緒方であるからだ。
もっとも緒方としては、自分は出来ることをやっているだけで、曲者などという意識はない。
実際に緒方は謙遜もするし、変に自己主張が激しいわけでもない。
大阪光陰でキャプテンをやってたからか、チームを上手くまとめる役割をする。
元々彼も、体格に恵まれたプレイヤーではなかった。
だが体の使い方が上手く、そして体格の割には長打も打てた。
大学に行くかプロに行くかは、少し迷ったところらしい。
しかしプロ入りしてみれば、しっかりとそのレベルにまで上達してくる。
今ではまさに、ミスターレックスという存在に近いのだ。
そんな緒方はこの場面でも、しっかりと粘っていっていた。
一人で15球も投げさせて、ようやく内野ゴロでしとめられる。
ただこれで古川は、この回で100球に到達した。
たった一人にこれだけ投げさせられ、そして迎えるクリーンナップ。
マリンズはもちろん、既にブルペンの準備をさせている。
だが緒方を打ち取った古川は、まだいけるような勢いを持っていた。
錯覚である。
球数が100球を超え、そして面倒なバッターをようやく打ち取った後。
そこでクリーンナップに投げた球が、ストレートで浮いてしまう。
これはほとんどのピッチャーにとっては、よくあることであるのだ。
そしてレックスは、そこを見逃さないタイプのバッターが、クリーンナップに揃っている。
初球を狙っていた。
ここまでノーヒットノーランに抑えていた、古川の初球。
アウトローのストレートが、ほんのわずかに浮いただけで、充分に球速は出ていた。
しかし三番クラウンのスイングは、それをしっかりと捉えていた。
ライト方向への打球は、そのままスタンド入り。
ノーヒットノーランが途切れると共に、ようやく均衡が崩れたのである。
マリンズはリリーフが出てくる。
一歩遅かったな、とは客観的に試合を見ている、直史だからこそ言えることだ。
確かに100球は超えていたが、まだノーヒットノーランは続いていたのだ。
しつこいバッターを片付けた後は、初球が甘くなるというのも、分かっていたはずである。
しかし今日の古川なら、大丈夫だと思ってしまっても無理はない。
精神が肉体を凌駕する、というのは確かにある話だ。
実際にあそこさえ抑えていれば、完投の可能性もあったかもしれない。
結局は結果論からしか、正解と不正解は分からないのである。
1-0と試合の均衡は破れたが、そこから一気にレックスが爆発するということもない。
四番と五番のクリーンナップを、しっかりと抑えて一点で終わらせる。
こういう時にこそ、セットアッパーの価値が見えてくる。
ビハインド展開であっても、マリンズは勝ちパターンのピッチャーを使ってきていた。
明日も連投になっても、問題はないという判断だ。
一応直史は、一点ぐらいは取られる試合はあるのだ。
また去年はその一点が、ホームランで取られるパターンだけであった。
たまたま読みが当たっての一発。
そんなものは確率的に、ほぼありえないとは分かっている。
だがもしもその一発があった時に、一点差であれば同点にまでは持っていける。
そのためにもこれ以上、点を取られてはいけないのだ。
そして七回の裏、マリンズの攻撃が始まる。
一番からの好打順であるが、まだ一本のヒットも出ていない。
果たして直史のピッチングが、どのような展開をもたらすのか。
試合が動くと言われる七回。
しかし直史としては、動かすつもりなど全くない。
一点を取ってもらったといっても、それで油断出来る体質ではない。
もう完全に精神の状態が、普通のピッチャーとは違うのだ。
あるいはもう、人間の精神とは違う、と言ってしまってもいいかもしれない。
残りの3イニング、果たしてどう戦うのか。
マリンズ打線の意地と、直史の精神の、メンタル同士の対決となるであろう。
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