第191話 メンタルの世界
不思議な現象が起こりつつある。
直史の球速が、どんどんと落ちていっているのだ。
別に故障したというわけでもなく、また球速が落ちたからといって打てているわけでもない。
ただ力をあまり出さずに、マリンズ打線を抑えていってしまっている。
七回の裏にも、アウトローのコースで見逃し三振を一つ取った。
ホップ成分の高さと、迫水のフレーミングの掛け算によるものだ。
これはまさか、という期待が生まれてくる。
既に1-0でリードしているため、このまま完封すれば勝ちではある。
だがまだ一人のランナーも、本当に出していないのだ。
マリンズファンとしては複雑な気持ちであろう。
敵のチームにパーフェクトをされるなど、最終戦にも影響が残りそうだ。
ただその相手が、何度もパーフェクトを達成している直史。
千葉県出身であり、高校時代に参考記録ながら、初めてのパーフェクトを達成している。
マリンズが優勝するのは、まだ見られるかもしれない。
しかし生でパーフェクトを見られるチャンスは、もう二度とないかもしれない。
パーフェクトメイカーとか、パーフェクトピッチャーとか、そんな異名を付けられていた直史。
恥ずかしい呼び名であるが、自分でそう名乗るわけではない。
ただパーフェクトは大学の頃から、普通に何度も達成していた。
MLBでも年間に複数回を達成するのが当たり前で、それが直史の先発する日は、チケットを取るのが極端に難しくなったのである。
前の試合でも、延長に突入しながらも、見事にパーフェクトを達成している。
去年もレギュラーシーズン終盤に、パーフェクトを達成しているのだ。
つまり重要な試合であればあるほど、その力を発揮してくる。
それでもさすがに、パーフェクト連発というのは、無理があるであろう。
普通の人間には出来ないことだ。
だが佐藤直史は普通ではない。
まずは八回の表、レックスの攻撃。
マリンズはもう、勝ちパターンのリリーフを投入し、わずかな同点の可能性をつなぐ。
もっともこんな試合の場合、下手に点差が変わってしまうと、ピッチャーや守備の集中力が、逆に切れてしまうこともある。
レックスの場合は直史は、全く問題がない。
また去年大量に、ノーヒットノーランまでは経験しているので、守備にも問題はない。
ピッチャーがパーフェクトを達成しようとしているのに、もっとも緊張しないチームこそ、レックスであろう。
むしろここで直史にパーフェクトを達成してもらって、最終戦に勢いをつけたい。
結局はランナーこそ出たものの、得点には結びつかず。
そして八回の裏、マリンズは四番からの打順である。
なんとしてでもランナーに出て、どうにかパーフェクトを阻止したいのか。
あるいはフルスイングをしていって、奇跡の一発を期待するのか。
最終戦のことを考えれば、少しでも可能性の高そうな、パーフェクト阻止を考えた方がいい。
だがそれは99%無理なことを、98%無理なことに、選び直す程度のことでしかなかろう。
最終回は下位打線から始まるが、もう代打攻勢に出ることは間違いない。
直史としてはむしろ、データの少ない代打に出てこられることの方が、やや危険度は高い。
ただその少ないデータからでも、直史はある程度の対策は取れる。
とはいえまずは、目の前のバッターを封じていく必要がある。
DHの四番マヌエル。
マリンズの中では、一番長打力が高い選手ではある。
アッパースイングでボールをスタンドに運ぶパワーがある。
ただ直史としては、それほど難しい相手ではない。
まずは高めのストレートを、わずかに外して投げてみた。
それをいきなり空振りしてくれるのである。
確かに高めの球は、打ちたくなってしまうだろう。
だが直史は狙って、その高めに投げているのだ。
八回の裏で、まだ148km/hが出ている。
初回のいきなりの150km/hには及ばないが、全くスタミナを消耗していないことを感じさせる。
そして二球目には、右のマヌエルに対して、高速スライダーを使っていった。
一試合でそう何度も使わない球種に、またも空振りしてくれる。
遊び球もなく、あっさりとツーナッシングにしてしまう。
そして三球目、直史がこっそりと出したサインに、迫水は息を飲む。
三球勝負をしてくるのは、もう迫水も慣れたものだ。
それにマヌエルを打ち取っておくというのは、最終戦に良い影響が出るとも思う。
ミットを構えて、直史のボールを待つ。
力感のないフォームから、急加速してくるようなその腕の動き。
滑らかなフォームから投じられたストレートは、高めのボールだ。
マヌエルはしっかりと、そのボールを振っていった。
だがバットはボールの下を通り過ぎて、空振り三振。
高めいっぱい、今度はゾーン内に入ったストレート。
空振りしたマヌエルがバッターボックスで転がるぐらい、それはホップ成分の高いストレートであったのだ。
150km/hが一度出ただけの、今日の直史のピッチング。
この最後のストレートも、148km/hのボールであった。
球速などというものは、ピッチングとしてさほど重要ではない。
これを沢村賞投手が言ってしまうのだから、嫌味かと思われてしまうのだ。
もっとも直史はここまで、キャリアの全てにおいて、リーグナンバーワンピッチャーに選ばれている。
極めればここまで、圧倒的なピッチングも出来るのだ。
打てそうで打てない。
暖簾に腕押しとも言うが、しっかりミートしたつもりであっても、わずかにポイントがずれている。
そんなボールでカウントを稼がれたり、ミスショットを打たされたりする。
ただそれなりにミートをしたとしても、野手の正面に飛んでいったりする。
これは直史のピッチングが、外野に届くフライを打たせることを、一番禁じているからでもある。
だがそれでも、一試合に二つや三つは、外野フライが飛んでいくことがある。
絶対に禁じるという選択肢を作ってしまうのは、ピッチングの幅を狭めてしまうことなのだ。
あらゆる変化球を、あらゆるコースに、完璧にコントロール出来る。
そんな力があるのならば、選択肢を狭めるべきではない。
相手が捨てているコースに投げるのと、相手が狙っているボールをわずかにずらせること。
これを上手く使っていくことが、完封するコツである。
五番と六番には、比較的ゴロ狙いの組み立てを行う。
それがそのままアウトとなって、八回の裏も終わる。
あと1イニング。
一点差でリードしているのが、レックスである。
ここで追加点を入れられれば、さらに勝利への道が近づく。
だが下手に試合を動かすよりも、最後まで一点差をキープした方が、集中力がそのままになっていいのではないか。
ただわずか一点で、しかも直史がパーフェクトをしているという状況は、守備にも大きなプレッシャーを与えてくるだろう。
九回の表は四打席目の左右田から。
考えてみればレックス打線も、ここまで三人しかランナーを出していないのだ。
そのうちの一本がホームランというのが、なんとも皮肉ではある。
緒方を打ち取った時に、100球を超えていたので代えていれば、あるいはその一本もなかったのかもしれない。
だがノーヒットノーランを続けているピッチャーを、代えるという選択はそう簡単に出来るものではない。
ビハインド展開ではあるが当然ながら、マリンズは勝ちパターンのクローザーを持ってくる。
矢車のピッチングは、変化はスプリットだけで、あとはチェンジアップで緩急を取るというもの。
ただこのスプリットが、ある程度変化に幅があるので、そう簡単には打っていけない。
ストレートもMAXが159km/h出るので、簡単に打てる存在ではない。
おそらく専業クローザーとしては、今のリーグでナンバーワンなのではなかろうか。
ツーストライクに追い込んだら、今度はストレートを投げ込む。
内野フライに打ち取られて、まずワンナウト。
二番の緒方は今日、ホームランが出る状況を、見事に作り上げた殊勲者だ。
第一戦でもそうであったが、評価はしにくいが確実な仕事を、はっきりとしてくれている。
ただクローザーを相手にこの一打席だけでは、やれることにも限度がある。
最後のマリンズの攻撃を防ぐことに、意識はいってしまっている。
割とあっさりと三振してしまった。
そしてそれは三番のクラウンも同じことである。
もうここからは残り、三人をアウトにすることを考えなければいけない。
ホームランの一発が出れば、それで同点になってしまう。
するとサヨナラのチャンスが出てくる、後攻の方が心理的に有利になるのだ。
一点差はさすがに厳しいな、と直史は考える。
せめて二点差があれば、一発を打たれる可能性を考えても、かなりピッチングのバリエーションの幅が増える。
しかし一点でもやってはいけないならば、使えるバリエーションが減っていくのだ。
それでもこの一点差を守りきれば、試合には勝利する。
下手にパーフェクトを狙ってはいけない、という意識をまずは持っておくのだ。
最後の九回の裏、直史がマウンドに立つ。
多くのマリンズファンとしては、かなり複雑なところであろう。
パーフェクトが達成されるところは見たいが、この試合に勝てば日本一なのだ。
ただ日本一は少し前にも、マリンズは達成している。
ならばここは開き直って、直史のパーフェクトを期待してもいいのか。
いやいや、いかなる理由があろうと、応援するチームを変えていいわけはない。
だがそれでも見られるなら見てしまいたいな、とは思ってしまう。
仕方がないことだろう。パーフェクトなどとはそうそう見られない。
直史が引退したら、偶然ではなく必然でパーフェクトの出来るピッチャーは、もう二度と出てこないかもしれないのだ。
九回の裏なので、普通に下位打線に代打が出てくる。
初対決ではないにしろ、対決の回数が少ないのなら、ピッチャーの方が有利なのである。
だが直史に限って言えば、対決した回数が多ければ多いほど、相手は惑ってくる。
投げてくる球種やコースが、とにかく豊富すぎるのだ。
何かに絞って狙うということが、ほぼ出来ない。
完全にヤマを張るか、あるいはどんな球でも打っていくか。
どちらがいいのかと言えば、それは前者であろう。
しかし実際には後者しかないと、大介などは考えている。
ゾーンに入ってきたボールは、全て振っていく。
もっともそれは大介のような、どこにでも届くバットを持っていなければ、難しいことなのだ。
基本的にバッターは、失投を見逃さずに打って行くのがいいのだから。
先頭の代打に対しては、直史はそれなりにデータがあった。
なのでしっかりと、三振に打ち取ることが出来た。
アウトローいっぱいを、ほんのわずかにフレーミングさせる。
それによってボール球を、ストライクにしている。
もっともこれは、直史のコントロールが抜群だから、という審判の心理も読んだ上でのものである。
そして八番バッターにも代打が出てくる。
事件はここで起こった。
データが少ないバッターではあるが、今年は二軍で相当に打っていて、一軍に上がってきたのだ。
右打者であるため、代打としては需要が高い。
とにかく今の時代、右投げピッチャー以外は、左バッターがとにかく多くなるのだ。
左殺しの右バッターというのは確かにいる。
ただ直史は右で投げるため、あまり意味はないとも思える。
そんなことはどうでもよく、問題はやはりデータが少ないということ。
直史としては他のバッターでも打てないような、一般的な組み合わせで投げていくしかない。
しかしその初球、インハイストレートを、代打は打ってきた。
少し外れていて、普通なら仰け反るぐらいのボールであったのに。
バッターの成績というのは、確かに数字で残る。
だが性格までは、データでははっきりと分からない。
浮いたボールは、サードの頭を越えていった。
そして落ちたボールを、レフトは適切に処理する。
レフト前のポテンヒットを、どうにかアウトにする方法などはない。
ランナーが途中で転んでしまったりなどしたら、また話は別なのであろうが。
九回の裏、ワンナウトでようやく、パーフェクトが途切れた。
望ましいことであるはずなのに、スタンドからはため息が洩れる。
緊張の糸が切れた、という選手も多いであろう。
だが直史にそういうことはない。
相手を甘く見てしまったかな、という程度の反省はあったが。
初球のインハイは、その後の組み立てのためのボールであったのだ。
145km/hのストレートで、確かに打てなくはなかったろう。
だが初球からそんなコースを、普通は打ってくるのか。
ゾーンからは外れた高めで、だからこそフライ性の打球にもなった。
少し弱くても、少し強くても、サードかレフトのフライになっていたであろう。
直史に動揺はない。
レックスベンチとしても、一応はブルペンに肩を作らせていたが、それは直史が打球を受けて、交代する場合などに限られて想定していた。
マリンズはここで、当然ながら代走を出してくる。
ノーアウトからなら、まだしも得点のチャンスと言えたであろう。
しかし既にワンナウトなので、それは判断が難しい。
もちろん一点差の九回裏ということを考えれば、代走を出すところまでは当然である。
あとは盗塁をしてくるかどうかだ。
直史は球速はそれほどでもなく、また球種に変化球が多い。
しかしながら盗塁は、ほとんど許さないピッチャーである。
そもそもランナーを出すことが少ないため、盗塁される数もまずない。
ただ牽制でアウトにしているところは、多くの人間が憶えている。
ランナーを確認してから直史は、セットポジションに入る。
代走はそれを確認して、ややリードを広げる。
しかしその瞬間、気配のなかった状態から、一塁への牽制球。
慌てて戻って、ぎりぎりセーフであった。
刺すという気配はなかったのに、どうしてそんなことが可能であったのか。
代走はここでは、なんとしてでも得点圏の二塁まで、盗塁で進みたかった。
しかし今のような牽制をされては、大きなリードを取ることなど出来ない。
やや小さなリードとなって、そこからまだ盗塁を目指す。
それなのに気づけば、直史は足を上げてクイックで投げていた。
初球のストライクは、ストレートであった。
完全にピッチングの起こりが見えない、盗塁を許さないクイックモーション。
盗塁というのは単純に、足の速さだけで決まるものではない。
むしろそれよりは、スタートのタイミングが重要であるのだ。
直史のモーションは、そのスタートのタイミングを狂わせる。
そしてまた素早い牽制で、ランナーをベースに釘付けにする。
そこで試合は終わっていた。
残り二人のバッターを、三振と内野フライで打ち取った。
ランナーをぎりぎりで出したのに、そこから全く崩れることがない。
直史のメンタルの強さが、マリンズ打線を制圧した。
あの偶然性の高いポテンヒットがなければ、確実にパーフェクトであった。
そしてマダックスは達成している。
これで日本シリーズは、共に三勝三敗。
最終戦に、今年の日本一の決定は、もつれこんだのであった。
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