第377話 ピッチングの高み

 二年前の福岡は、直史に8イニングを無失点に抑えられたが、それなりの球数を投げさせていた。

 もちろんヒットを一本も打っていないので、勝ったなどとはとても思っていなかったが。

 復帰してからこちら、直史はオールスターにも出ていない。

 なので福岡で直史の脅威を、正しく理解しているバッターは、いなかったと言ってもいいだろう。


 画面越しにはいくらでも、データは集まっている。

 またFAなどでセから移籍してきた選手もいる。

 それでも直史の本質は、データではないところにある。

 そのくせデータ上はしっかりと、その脅威が分かってしまうのが、むしろ厄介なところであろう。


 球速のMAXは、今年は150km/hを何度か記録している。

 しかし今のNPBには、右でその球速であるならば、いくらでもいるのである。

 コントロールの良さと、圧倒的な種類の変化球は認めるが、奪三振率は以前よりも下がっている。

 ただどの数値も、復帰二年目よりは上がっている。

 先頭打者の三船は、しっかりと考えている。

(初球からストライクを取りに来るピッチャー)

 だから初球から打っていく。


 その狙いは間違っていない。

 球種を引き出そうにも、いくらでも球種があるし、プレートの使う位置も変えているので、それこそ同じ球は来ない。

 初球からちゃんと、ゾーンには入ってきたのだ。

 しかし打ち損じた球は、カットボールであった。

 変化量が少ないため、ストレートと見間違いをするような。

 140km/hは出ていたので、ストレートと勘違いしても仕方がないか。

(これは一巡目だと見極められないぞ)

 それを確認しただけでも、一番打者としての役割は果たしただろうか。


 一人を一球で打ち取れたので、直史としてはありがたい。

 それも一番打順が回ってくる、一番バッターだ。

(一番打者が初球から振ってきたか)

 つまり直史が初球から、ストライクを取りに行くピッチャーだ、と分かっているからだろう。

(まあ二番も確認するけど)

 スローカーブを見送って、二番打者もまずストライク。

 ボール球を投げていないのが、普段の直史らしさと言えるだろう。


 ストレートの軌道も、シンカーの軌道も見てきた。

 しかし振ることはなく、ツーアウトである。

(一巡目は見てくるつもりか?)

 そういった作戦を取ってくるのは、充分に予想していた直史である。

 なので三番打者にも、カーブから入っていった。


 向こうはこちらを観察しているのだろうが、こちらも向こうを観察している。

 バッターだけではなく、ベンチとのサインのやり取りまで。

 攻撃の意志を、そのサインのやり取りから考えていく。

 バッターのわずかな挙動から、その狙いも考えるのだ。

 そして初回は結局、三者凡退でチェンジ。

 先頭打者が初球でセカンドゴロを打った以外は、見逃し三振であった。




 先頭打者の三船はともかく、他の二人は球筋を確認し、打てなくはないと判断した。

 もちろん注意は必要だが、そろそろ手を出してもいいだろう。

 だがその前に、まずはレックスの攻撃を封じる必要がある。

「さあこいつから点を取らないとな」

 福岡コンコルズのエース波多野。

 ストレートは勝負所で160km/hを出し、緩急には落差の大きなカーブを使い、スライダーとスプリットが高速でキレる。

 他にも変化球はあるが、この四種類が厄介なのである。


 福岡が直史をあまり知らないのに比べて、レックスは波多野をほとんど知らない。

 高卒四年目であるが、比較的下位指名であった。

 ただ一年目の終盤から一軍の試合には出始めて、二年目には完全にローテに固定。

 直史がライガースに呪いをかけたと言っても、完全に打線が調子を崩したのは、こいつに封じられたからである。

 一応は大介から、波多野の情報はもらっている。

 だが対戦経験がそうも多くはないので、決定的な攻略法などはない。


 こいつも三年後には、メジャーに行くのだろうな、と直史は当然のように思う。

 スライダーとスプリット、この二つが決め球になっている。

 右打者にはスライダー、左打者にはスプリット、というのが基本的な使い方だ。

 そしてたまにカーブを投げて、タイミングをずらしてくる。

 まあいいピッチャーではあるのだろう。


 ただ今のプロを見ていると、逆に昇馬の規格外さが目立つのだ。

 高校生の時点で、既にプロのローテが余裕で務まる力はあると思う。

 一年間を投げぬくのも、昇馬ならば可能だ。

 本人に強烈な執着などがないのも、逆に利点となるかもしれない。

 執念深い野球への気持ちは、時には逆に呪いにもなる。

 昇馬にはそういったものがないのが、いい方に働くと思うのだ。


 もっとも、昇馬が本当に、追い詰められたところというのも見てみたい。

 今までにずっと、楽勝とまでは言わないが、本当に自分の責任で、敗北するという試合を経験していない。

 そんな挫折の経験がない選手は、一度折れたら脆いかもしれない。

 直史のような、挫折ばかりのところから始まったピッチャーは、逆に珍しいであろう。


 ともあれ波多野は、レックスの打線を抑えてきている。

 左右田はともかく緒方が、三球三振というのは珍しい。

 三番のクラウンは当てていったが、その打球は完全に詰まったファールフライ。

 三者凡退はレックスと同じスタートで、両エースの投手戦を予感させた。

(先制点が取れないと、やっぱり難しいんだな)

 のらりくらりと、軟投派のピッチングをしていこうか。

 そう考えながら、直史はベンチから出たのであった。




 四番の堂口は、パ・リーグ二冠王。

 とはいえ大介に比べれば、そのスペックはたいしたことがない。

 それでも直史は、対戦経験が少ないため、打ち取るのに神経を使う。

 直史のピッチャー経験の中で、戦って厄介だなと感じたバッターは、10人もいない。

 大介を筆頭に、織田や西郷、ブリアン、坂本と悟あたりだろうか。

 メジャーのバッターの方が、むしろ直史にはくみしやすかった、とさえ言える。


 ただそれでも、一発は警戒する。

 まずはインローを攻めてみるのだ。

 ゾーンから外して、当たるぐらいのコースへと。

 堂口は余裕をもって、腰を引いて避けた。

(やっぱりこいつ、このコース打てるな)

 バッターとして、誘っておいて打ってしまう。

 この頭脳派のやり口は、樋口に似ている。


 バッターは三割打てれば一流。

 ただし樋口の得点圏打率はそれどころではなかったし、重要な試合の決勝打を打つ確率は、もっと高いものである。

 バッターは打てれば確かに評価される。

 しかし打っても点が入らなければ、試合には勝てないのである。


 この場面では長打を狙ってくるだろう。

 単打を積み重ねて、直史から点を取れる可能性は低い。

 塁に出て進塁して、犠牲フライか内野ゴロか、なんでもいいから一点を取る。

 単打で出ては、それも難しい。

(ホームランだけは厳禁)

 直史が投げた球は、インローのボール。

 堂口はそれを振ってきたが、ボールはさらに内に変化してきた。

 かろうじて当てはしたものの、ファールグラウンドへの力ない打球。

 ストライクカウントを増やすことには成功した。


 普段からずっと、わざとインローを打っていない。

 それだけ布石を打っておきながら、容易く見破られてしまう。

 経験の差ではあるが、単純に思考力の差でもある。

 AIの統計よりも、優れたリードをしていく。

 それが直史のピッチング、投球術というものである。


 ここで内角を意識させられたところへ、アウトハイへの対角ピッチング。

 バットは届いて、さらに押し込むことも出来たが、右に切れていった。

(右の強打者は最近少ないからなあ)

 元は右打であるのに、意識を高く左に変えてしまう選手が多い。

 プロでは右投左打が、本当に増えたと思う。

 すると対応も確立してしまうのだが。


 右腕のピッチャーは、インコースにさえしっかり投げこめれば、右打者の方が扱いやすい。

 ただ内角を攻めるというなら、左打者の方が投げやすい、というピッチャーもいる。

 直史の場合は、逃げる球が使いやすい、右打者相手の方が投げやすい、

 左右の角度が付けやすい、というのはあるのだ。


 ツーストライクになってなんでも投げられる状況。

 直史がここで投げたのは、スローカーブである。

 落差があり、緩急差があり、そしてストレートなどとは違う軌道を描く。

 これはカットしないといけない、と判断はしている堂口である。

 だが下半身が粘りつけず、空振り三振となってしまった。




 出来るだけ球を見ていかないといけない。

 だが直史は見せた上でも、遊び球を使わない。

 もっと積極的に行くべきか、と追い込まれたバッターは思う。

 するとそこでカットボールやツーシームを使い、打ち取ってしまうのである。


 ゾーンで勝負するのか、と思えば逃げていくボール球で空振りを取られる。

 かといってボール球だと思っていたら、ゾーンのぎりぎりまで入ってくる。

 バックドアもフロントドアも、審判が判断を迷うぐらいの厳しいコース。

 だがわずかなフレーミングで、それがストライクになってしまう。

 波多野も一巡目は、フォアボールのランナーを出したのみ。

 完全に投手戦になりそうな様子になっている。


 両者共にノーヒットピッチング。

 それは四回の表を迎えても、変わらないようであった。

 二打席目の福岡打線に対して、直史はインコースに速球、アウトコースに変化球と、目が錯覚しやすい組み立てで投げる。

 だが途中からまた組み立てを変えて、インコースのボール球と、アウトローを使っていった。

 低いと思ったボールが、しっかりとストライクになるのである。

 スピードとホップ成分は、必ずしも比例しない。

 だが地を這うようなストレートというのは、昔から打ちにくいものであるらしい。


 ここまで12人に対し、奪三振は七個。

 ボールにコンタクトするのが上手いバッターさえも、ボール球を振らされたりしている。

 ただし見逃し三振も多く、回が進めばそれなりに、カットすることも増えてきた。

 しかしそれでも充分に、100球以内で終わらせるペースの球数であるが。


 だがレックスも波多野の前に、なかなかランナーを出せない。

 特に一番の左右田と二番の緒方が塁に出ないと、揺さぶることも難しいのだ。

 この二人が塁に出ると、チームの打点王である近本が、ケースバッティングで点を取ってくれる。

 その近本がいなくても、第一戦は勝つことが出来た。

 それでも投手戦となると、最後の一押しが欠けている。


 第一戦をあそこまで勝ったのだから、その勢いが打線に残っていてもおかしくないだろう。

 だがこうなってしまうところが、レックスの弱点である。

 四回の裏には、迫水がやっと初安打を記録したが、後ろが全く続かない。

 せっかくショートとキャッチャーに打てる選手がいるのに、他の打力重視のポジションが、決定力不足。

 もっともその決定力は、やはり一番二番が塁に出ないと、発揮されないのだが。


 こういう試合になると、エラーからピッチャーのリズムが乱れたり、下手に勢い込んで投げたボールが、ホームランになったりする。

 そのホームランを、直史は一番警戒しているわけだが。

 ただ福岡の作戦も、今日は上手くはまっていないような気がする。

 パ・リーグでは一番のホームラン数を誇っていたが、ちゃんと連打もする打線。

 しかし一人もランナーが出ないことで、焦っているのは確かだろう。


 堂口の二打席目は、強烈なショート正面のゴロであった。

 左右田が問題なくさばいて、まだノーヒットピッチングが続く。

 五回の裏もランナーは出ず、そして六回の表もツーアウト。

 福岡はここでそろそろ代打を出してくるかな、とレックス側は思う。

 波多野の打席であるが、まだ球数には余裕があるだろう。


 直史としてはむしろ、パのピッチャーの打席の方が、対応が難しいのだ。

 それでも変化球ばかりで攻めれば、致命的な一打にはならない。

 カーブを打たせてスリーアウトで、いまだにパーフェクトピッチング。

 そして六回の裏は、直史から始まる打順である。




 直史のここでのお仕事は、デッドボールにならないことである。

 バッターボックスに入ったものの、プロテクターでがっちりと全身をカバーしている。

 それでもしっかりと目で追って、さらにバッターボックスのインコースをちゃんと空けておく。

 これでも当ててくるならば、その時はもう戦争である。


 もちろん問題なく、直史は三振した。

 この直史の打率の低さと、完投率の高さが、援護点が少ないことにつながっているのは間違いない。

 レックスで本当に、足手まといのバッターは、他にセンターぐらいなのだが。

 レフトやサードといったあたりの、バッティングの出来る選手を置くポジションを、二割台前半のバッターにする。

 そのあたりレックスは、補強ポイントではあるのだが。


 ワンナウトから上位打線に回る。

 ここからでは点を取れる可能性が低い。

 これはちょっとまずいかな、と直史は思わないでもない。

 自分はフルイニング投げて、さらに延長まで投げるペース配分をしている。

 それに対して福岡も、波多野がフルイニング投げた場合、無失点に抑えてしまうのではないだろうか。

 延長に入れば向こうも、鉄壁のリリーフ陣を出してくる。

 今のレックスの得点力で、果たして一点を取れるのかどうか。


 左右田がヒットを打って出塁した。

 そしてバッターボックスには緒方である。

 緒方の打撃成績は、年々下降傾向にある。

 ただ併殺打の少なさは維持しているし、打率は下がっても出塁率はほぼ変わらない。

 それだけ得点の機会を、作り出す技術を持っている。

 これは技術ではなく、思考と言うべきなのかも知れないが。


 最低でも左右田を、二塁にまで進めたい。

 ツーアウトからクリーンナップとなれば、ワンヒットで帰ってこれるだろう。

 直史としても、そう考えていた。

 だが緒方もまた、勝ち方を分かっている選手だ。

 そしてここまでの展開から、流れというものを読んでいる。


 直史が一人のランナーも出していない。

 これはピッチングであるが、同時に攻撃でもある。

 特に三振が多いのが、強打のはずの福岡に、精神的な圧力をかけている。

 まだしもバットに当たっているなら、打球の飛んだ方向が悪いと、そう言い訳も出来るのだ。

 そしてこういう時、対決するチームのエースは何をするか。

(自分も三振で、自軍の士気を高めるんだろ)

 内角の厳しいところに投げられたストレートは、160km/hオーバー。

 だが緒方は、それを完全に絞って待っていた。


 打球はレフト方向、一番距離の短いところ。

 ぎりぎりのところでスタンドに入り、神宮が一気に沸いた。

 緒方のツーランホームランで、レックスが先制。

 そしてこの二点差というのは、一気に流れをレックスに引き寄せるものになったのだ。




 野球というのは分からないスポーツである。

 しかし一試合の中には必ず、ここだという勝負のポイントがある。

 プロとしての生活ならば、直史の倍も長い緒方には、それが分かっていた。

 いくらスピードがあっても、一点に狙って絞っていれば、打てるものは打てるのだ。

 これで今日のヒーローインタビュー、バッティング面での主役は決まったといっていいだろう。


 直史から二点を取るのは難しい。

 福岡は単純にデータから、それを認めている。

 波多野は後続に打たれる前に、この時点でリリーフにチェンジ。

 まだ二点差なら逆転のチャンスはある、とは思えない福岡の首脳陣。

 少しでも波多野を温存して、後の試合にまた使うつもりなのだ。


 試合には負けるかもしれないが、直史は打ってやる。

 福岡の打線は、まだ戦意が衰えていない。

(ここからだな)

 ボキボキに心を折っておきたい。

 だがタイミングが悪いな、とも直史は思っている。


 この第二戦が終われば、試合会場は福岡に移る。

 そして移動日として、一日の休養があるのだ。

 メンタルを切り替えるのに、それなりに必要な時間。

 これが明日も試合であれば、その切り替えも上手くいかなかったであろうに。


 二連勝というのは、かなり日本シリーズを制する上では重要なことだ。

 もし向こうのアウェイで三連敗したとしても、ホームゲームが残っているからだ。

 どのみち向こうの地元の試合では、応援の量が半端ではないだろう。

 そう考えるとこの試合は、もうこれで勝ったと思うだけでいい。

 次の試合につなげることなど、さすがに考えなくてもいい。


 直史はそう思っていた。

 だが想定通りにいかないのは、良くも悪くもあるものだ。

 福岡の打線は、二点差を取り戻すべく、強振してきた。

 そういう大振りのバッターこそを、直史はしとめるのが得意なのだ。

 高めのストレートを、ぶんぶんと振ってくれる。

 もちろんそこまでの組み立てがあってこそ、勝つことが出来るのだが。


 レックスは追加点が入らない。

 しかしそれ以上に、福岡はランナーが出ない。

 ピッチャーの打席には、普通に代打を使うつもりだ。

 だがそれ以前の問題として、本当にランナーが出ていない。

 たったの一人も出ていないのだ。


 首脳陣の中には、かつて直史に抑えられた、元選手もいたであろう。

 そして自分は経験していなくても、こうやって抑えられたことがあったであろう。

 九回の表、ランナーはなし。

 代打は出てきたが、既にもう試合は決まったようなものだ。

 流れとも勢いとも違う、絶対的な何か。

 それによってこの試合は、完全に支配されていた。


 九回98球16奪三振。

 無安打無四球無失策。

 パーフェクトゲーム達成である。

 ただ直史がポストシーズンにパーフェクトを達成するのは、別に珍しいことでもなかったのであった。

 慣れてしまったバックも、変に緊張したりして、エラーをすることもなかった。

 かくしてまた伝説を、日常的なもののように、生み出してしまった直史である。

 そして負けた福岡コンコルズは、さすがにそれなりの精神的なダメージを受けていたのであった。

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