第272話 バットで球を切る
ゴルフのクラブであの小さな球を打つ。
この経験は思ったよりもずっと、大介のバットコントロールを繊細にするものであった。
むしろ昔は、そういう感覚でいたものだと思い出す。
スイングの軌道で、ボールを切断する。
もっとも実際は、レベルスイングでボールを弾き返すのだ。
極端なアンダースローでない限り、ピッチャーのボールはどれだけホップ成分があっても、結局は落ちてくる。
わずかなアッパースイングが、その軌道を捉えやすいものだ。
しかしアッパースイングは、トップから一度バットを落としたゴルフスイングでもある。
もちろんレベルスイングも、正確に言えば微妙にアッパースイングが入っていたりするのだが。
レベルスイングで入って、アッパースイングで抜ける。
大介はこれでずっと、ホームランを打ってきた。
(ばっとは理屈の上では、一点でボールに当たる)
円形と円形の激突なのだから、理論上はそうである。
しかしバットは必ず真円ではないし、ボールもインパクトの瞬間は潰れる。
一瞬のコンタクトの瞬間、どういうスピンをボールに与えるか。
ボールの下を叩くなら、必ずバックスピンになる。
ホップ成分がかかり、飛距離も出やすい。
しかし少しでも下すぎると、高い外野フライになってしまう。
(ドライバーで打つように、か)
大介はバットの根元でも、ホームランが打てる。
それはスイングスピードもあるが、上手く腕を畳めるからでもある。
本当のバットの根元で打てば、さすがにホームランにはならない。
上手く腕を畳んで、バットのより先でボールを捉えるようにする。
もちろん先すぎてもいけないが、基本的に大介のバットは、外角に逃げる球を、無理にホームランにする設計をしている。
普通なら切れる打球が、ポールの内側に入ってくるのだ。
内角ならば別に、普通にヒットは打てる。
しかし大きく体を開いて打てば、内角を流し打ちのように左方向にも打てるのだ。
これが広角打法である。
自分のスイングについて、大介は色々と考える。
だが試合になれば、全く考えないようにする。
それまでに考えていたことは、既に体の中に入っていなければいけない。
頭で考えて打っていては、単純にスイングスピードが落ちる。
今年は少し、飛距離が出ていないかな、と感じる大介である。
NPB復帰の一年目と二年目、大介の打率は四割を切っていた。
それでも当たり前のように、ぶっちぎりで首位打者を取っている。
一年目と二年目では、ホームランの数が減って、ツーベースの数が増えた。
しかしホームランが減ったよりもずっと多く、ツーベースの数は増えている。
外野の頭を抜けてはいるのだ。
だがそれがあと一伸び足らず、フェンスに当たっているということだ。
フライアウトの数は、それほど増えているわけではない。
そして一年目から二年目にかけて、減ったのが三振の数である。
それでもヒットの数は、ほぼ変わっていない。
三振をしたくないために、スイングが縮こまっているのか。
それであと少しだけ、飛距離が足りなくなっている。
しかし今年は、打率が圧倒的に四割を超えている。
三振の数は、去年よりは少し多くなりそうだ。
だが一昨年に比べれば、まだ少なめに終わるペースではある。
そういったものを一番分かりやすく評価するのが、OPSという数字だ。
これもまた色々と、欠点というかフォローできていない部分はあるのだが。
NPB復帰後の過去二年と比べても、今年のOPSは高い。
だが四月は高いが、五月は落ちている。
いったい何が原因であるのか。
自分に原因があるのかもしれないし、他のチームが攻略しつつあるのかもしれない。
バッティングの道を極めるのは難しい。
そもそも極めることなど、出来ることがないのがバッティングだ。
もしも極めてしまったら、完全に全打席敬遠となる。
つまり今ぐらいが、打率に関しては最高値。
少なくともNPBでは、これ以上上げると勝負のチャンスが減るだけ。
MLBではもっと、勝負と敬遠がくっきりと分かれていたが。
まずはこの千葉との三連戦で、色々と試してみる。
打率は下げてもいいから、OPSを上げるのだ。
つまり長打率を上げることによって、相手の敬遠も増やしていく。
出塁率と長打率を合わせたものが、OPSになるからだ。
かといって三振を覚悟のフルスイングなどはしない。
三振をしないことによって、相手のピッチャーに与えるプレッシャー。
これはOPSでは評価できない、チームに対する貢献である。
一試合目、マリンズの先発は溝口。
ほぼ完全にマリンズのエースになってきている。
何気にマリンズは、投手王国になりつつあるのだ。
もっとも首脳陣が、それを完全に活用できているか、それはまた別の話である。
この溝口に対して、ライガースの先発はルーキーの桜木。
ここまでは長い登板間隔で使ってきたが、大原が離脱してしまった。
戻ってくるまでに、二ヶ月ほど見たほうがいい。
すると今度は若手にとっては、ローテを奪うチャンスになるのである。
ライガースは今年、しっかりと補強が出来た。
友永をFAで活躍し、新人の躑躅が八試合で5勝0敗。
完全に運の要素もあるが、クオリティスタート率がしっかりと高い。
大卒は即戦力として考えられるが、躑躅はまさに新人王レベルのピッチングをしている。
だがここまで勝ち星が伸びているのは、さすがに運の要素が強いであろうが。
ピッチャーがクオリティスタートをしてくれれば、統計的に勝ってくれるのがライガースの打線陣。
もっともその統計には、必ず偏りというものがある。
打線は水物。
守備と走塁は、集中力が切れない限り、それほどパフォーマンスが悪化することはない。
そして守備は大介が、相変わらずショートをずっと守っている。
今年もまた、盗塁王まで取る勢いであるのだ。
(色々と試すには、いい感じの実力のピッチャーだな)
160km/hオーバーのストレートに、高速スライダー。
もっともスライダーは大介の懐に飛び込んでくるので、そちらよりはカーブとチェンジアップを注意すべきかもしれないが。
日頃は当たらないだけに、大介が相手でも勝負に来る可能性は高い。
実際にマリンズとしては、勝負を前提に考えている。
溝口はパ・リーグの方においては、投手タイトルを二つほど取りそうな勢いであるのだ。
ストレートとスライダーは、空振りを取るためのもの。
左の大介に対しては、チェンジアップやカーブと組み合わせてくるのだろうが。
(まあストレートのタイミングで待っていればいいか)
一回の表、ライガースの攻撃は、初回から大介の打席が回ってくる。
一番の和田は四つの球種を投げさせて、それから粘ろうとして三振。
最後のボールは163km/hが出ていた。
単純に球速だけならば、大介にとっては問題がない。
(ストレート見て、それから打つか)
そう思っていたのだが、溝口はストレートも、ギアを二つ持っているらしい。
和田が観察してそう言うのなら、それは間違いないのだろう。
ギアを上げる、ということ。
これは同じストレートでも、八分の力で投げるストレートと、全力のストレートで違いがあるというものだ。
この力の差というのは、実際の球速差であったりするわけではない。
もちろん球速に差がある場合もあるが、スピン量の差であったりもする。
あとはリリースの位置でも、ストレートの疲労度は変わるのだ。
球速はあるが、それ以外は普通に近いストレート。
球速がある上に、スピン量までもかけ離れたストレート。
当然ながら後者の方が、打ちにくいのは間違いない。
こういう使い分けを、ギアのチェンジと呼ぶのである。
大介はあえて、ギアの上がったストレートを打つつもりである。
もちろんバッティングの基本というのは、打ちやすいボールを打つということ。
相手の失投などを打つのが、基本的な対応となっている。
しかしそういうボールは、打たれてもピッチャーへのダメージは少ないのだ。
どんなピッチャーでも普通は、平均で2点台の防御率というのが、NPBの野球だ。
武史のほぼ1という防御率は、怪物という言葉でもまだ足りない。
そして今季、いまだ無失点の直史はどうであるのか。
溝口は大介に慣れていない。
もちろん今までに対戦したこともあるし、ホームランを打たれたこともある。
だが木っ端微塵に粉砕されて、しばらく立ち直れないというほどの、致命的なダメージではない。
この第一打席で、溝口のベストなボールをホームランにする。
まだ若い溝口が、この試合の間に果たして、立ち直れるものかどうか。
それはなかなかの疑問であろう。
初球は何を投げてくるか。
インハイの外れた高めに、いきなりストレートである。
球速は161km/hと出ていて、スタジアムの観衆は盛り上がる。
やはり球速というのは、一つの正義であるのだろう。
見ただけで分かる、素晴らしいパフォーマンスだ。
ここで先頭打者の和田が、三振しているのもポイントである。
大介までも連続して三振すれば、序盤の勢いはマリンズに行きかねない。
当然ながらリスクを取ってでも、三振を奪いたい。
大介が単純にソロホームランを打っても、それだけで試合が決まるわけではない。
なにしろ今日のライガースは、先発が桜木であるのだ。
普通に投げて六回まで、三点以上は覚悟しなければいけないだろう。
このあたりに心理的な駆け引きがある。
マリンズは本来、ここで大介を敬遠気味に避けてもいいのだ。
普通に先発ピッチャーの力の違いで、マリンズが有利な数字になっている。
確かにライガースは強力な打線を持つが、両者の先発ピッチャーの力の差を、完全に埋めるものではない。
統計的に見るだけであるなら、この試合はマリンズが勝つ可能性の方が高い。
だがマリンズは間違えている。
先頭の和田が三振に倒れたことで、試合の想定を変化させてしまっている。
大介を打ち取って、勝利の可能性を高めようと考えた。
しかしそれは大介と勝負する、というリスクに見合ったリターンと言えるのであろうか。
当初の予定であれば、ピッチャーの差でおそらくここは勝てる試合だ。
ならばその前提の上で、大介をどう攻略するかを考えればいけなかった。
大介は二球目から、変化球にも手を出していった。
その気になれば上手いこと、内野の頭を越えるぐらいに出来る、ヒットは打てるのだ。
単純に点を取るなら、少しだけ投げてくる、カーブやチェンジアップを全力で叩けばいい。
だが大介が与えるダメージは、点数ではない。
ピッチャーのメンタルを削っていく。
カーブとチェンジアップに手を出して、ファールを打った。
アウトローに外れるボールを見送り、これでカウントはツーツー。
まだボール球が投げられるという点で、ピッチャーがやや有利。
しかしそれは、カウントだけを見た上での判断である。
深く考えるなら、ここまでどう溝口が投げてきたか、それを考慮に入れる必要がある。
ゾーンに入った変化球は打ってきた。
あとは投げていないのはスライダーのみである。
インハイとアウトロー、ボールになったストレートは振ってきていない。
(まだ一球、スライダーを外すことも出来るが)
マリンズのキャッチャーはそう考えるが、右腕のスライダーは左バッターにとって、胸元に飛び込んでくる球。
それはヒットにするかはともかく、バットに当てる程度ならやってくるだろう。
ボール球をもう一つ投げるか。
ただストレートのボール球を、自信をもって見送られている。
(あと一球、ボール球を投げることは出来る)
つまりそれは、コントロールよりもわずかに球威を優先した、ギアの上げたストレートを投げてもいいということだ。
(全力で投げて、三振を奪う。そして主導権を握る!)
そのサインに頷いてしまうあたり、まだまだ経験が足りていない。
大介はここまで、完全に誘導していた。
変化球は無駄だと、ストレートのタイミングで待って打っている。
ここから投げてきても、カットすることが出来るのだ。
(スライダーも難しいだろうし、あとはまだ今日投げていない、ギアの上げたストレートだろ)
それも浮いた高めではなく、ボールになってもいいから最初から、力の入った高めのストレート。
もしも高すぎてボール球になったら、大介を歩かせることも考えるだろう。
(高めいっぱいか、あるいはボール半分外れるぐらいは、普通に考えて投げてくる)
ここで大介を打ち取る正解は、ボール一個外した高めである。
おそらくそのコースなら、ボールの下を叩いてぎりぎり、フェンス近くでフライアウトになる。
パ・リーグのバッテリーは、あまり大介を知らない。
もちろん対戦はしているし、記録は偉大であるし、データも豊富に持ってはいる。
だがどういう状況で、どういうカウントで、どういう意図をもって打っているのか、それは分からないだろう。
直接対峙した経験が、あまりにも少ないのだ。
そして実戦での経験がなければ、160km/hオーバーがゴロゴロいたMLBで戦っていた、大介を打ち取ることは難しい。
リスクとリターンの考えが分かっているのか。
一回の表から、目の前の果実を取ろうとしている。
しかしそれはまだ熟しておらず、取っても食べられないものだ。
確かに大介から空振り三振を奪えば、それは大きな自信にもなるだろう。
(あるいはアウトローいっぱいのストレートを決められるなら、それはそれで凄いな)
しかし溝口の全力ストレートは、真ん中から上に集まっている。
フライボール革命がバッティングの現在、高めにストレートを投げるというのは、重要なバッテリーの攻略法である。
アッパースイングはトップから一度下げたバットを、上に振りぬくスイングである。
なのでむしろ、低めの球は打ちやすい。
しかし高めのボールであると、トップからダウンに入る位置エネルギーが少ないし、その少ないエネルギーをアッパースイングにするのも厳しい。
バットの先にある重心を、加速させるのに距離が足りない。
つまり高めは、特に外した高めは、三振も取れるしフライアウトにもなりやすい。
大介はそういうことを承知の上で、レベルスイングをしている。
低めを打つには、自然とアッパースイングの要素が入ってくる。
しかし重要なのは、レベルスイングであれば、高めを空振りすることが少なくなること。
(まあ彼我の実力を把握してるなら、そのあたりもしっかり分かるんだろうけど)
溝口は己のストレートに自信を持っている。
まだ若い彼であるのだから、それ自体は悪いことではない。
だが大介を相手にして勝つには、経験が不足している。
投げられたボールはストレート。
高めのそのボールを、大介は振り切った。
ジャストミートしたボールは、バックスクリーンへ一直線。
そして失速の感じは見せず、直撃してグラウンドに戻ってきたのであった。
(高めいっぱいか。半分ほど外す余裕があれば、フェンス直撃までで済んだかもしれないな)
そう思う大介であるが、千葉には当然いる大介のファンが、そのホームランを称えていたのであった。
先制点を取ったことで、ライガースはやや有利になっている。
しかしライガース先発の桜木は、これが初めての交流戦。
アウェイでも投げる経験は積んできている。
だが今日はそれに加えて、パ・リーグの打線との戦いでもあるのだ。
DHがいるため、打線に休めるところがない。
そんなわけで序盤こそ踏ん張ったが、中盤に入る頃には失点している。
もっともそこで一点だけというのは、充分なピッチングなのだ。
あとは六回まで、無理でも五回まで投げられれば、充分なピッチングと言えるだろう。
さらに一点を取られて逆転。
しかしここで、大介の第三打席が回ってきた。
第二打席はライナー性の当たりを、レフトのほぼ真正面に打ってしまった。
だが確実にミートはしているのだ。
ツーアウトながらランナーは一塁に一人。
これがセ・リーグのチームであれば、敬遠が充分に選択肢に入ってくる。
しかしパのチームは、ライガースとは交流戦の三連戦のみ。
また溝口に強打者との対戦経験を積ませる、という意図も持っている。
さらにはもし日本シリーズで対戦することになれば、その時こそ敬遠を選択する。
ここでは大介の力を、正確に把握しておけばいいのだ。
大介としてはここで、確実にまた点がほしい。
長打を打てばツーアウトからだから、確実に一点が入るだろう。
ホームランを打てば逆転であるが、同点にしておいてリリーフ対決にすれば、それでも充分にライガースの勝算はある。
(でもまあ、ちょっとこのバッテリー、考えが甘いよな)
あるいはマリンズの首脳陣が、考えが甘いのかもしれないが。
次に打つ球は、狙い打ちの高めストレートでなくてもいい。
アウトローに入った160km/hのストレートを、さほど逆らわずに打っていった。
高さが充分に出ているので、あとは高すぎるということがないかどうか。
ボールを追っていた大介であったが、すぐに目を切ってバットを置いた。
ポールの内側、最上段近くに、フライ性のボールが着弾。
本日二本目のホームランである。
これでライガースは逆転し、試合の展開は有利になっていく。
なおここで気が抜けてしまったのか、溝口は次もホームランを打たれて、今日は四失点でマウンドを降りた。
やはりストレートを打つのは簡単だ。
落ちてくるストレートを、真横に切ってしまうように打つ。
すると自然と、その弾道はスタンドに届くものとなる。
問題はバットのスイングスピードだ。
こんな化物に対して、もう今日のマリンズは勝負をしかけない。
四打席目は敬遠されたが、そこから今度は足を使う。
それによってライガースはさらに点を伸ばす。
結局は7-2という、かなり一方的なスコアになって、第一戦を勝利した。
そしてこの大介のホームランは、もちろんマリンズベンチにも伝わっているだろうが、それよりもキャッチャーにダメージが入っているだろう。
ある程度歩かされることは、もう覚悟の上。
しかし勝負所の場面では、より遠くにボールを飛ばすのが、大介の仕事であるのだった。
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