第420話 雨の日には

 雨は深夜には止んだ。

 直史は試合が中止と決まった夕方、ホテルを出て外に食事をしに行く。

 他にもホテルではなく、地元の店に行く選手はいるだろう。

 直史は完全に単独行動だ。

 合流場所となる料亭は密談にも最適の場所。

 もっともそんなに悪辣な話し合いなどをするわけではない。


 先に来ていた大介は、既に食事に手を付けていた。

「よう」

 軽く手を上げるだけで、直史もそれと対面する。

 シーズン中でもタイミングが合えば、お互いに話すことも出来る。

 チームはライバル関係であるが、それはあくまでも試合でのこと。

 そもそも義兄弟であるので、これぐらいの接触はおかしくもない。

 変な憶測を呼ぶのも嫌なので、入る時も出る時も別にはするが。


 酒は飲まずに食事だけをしながら、話すのは子供たちのことである。

 目の前の試合のことは、既に日常的なこと。

 それよりもずっと、青春を送っている子供たち、つまり真琴や昇馬のことを話す。

「昇馬のやつ、プロに来る気かな?」

「どうだろうな」

 昇馬に関しては実の父の大介よりも、直史の方が相談に乗ることが多い。

 親子関係が破綻しているわけではないが、同じ千葉にいることもあるし、進路については直史の方が選択肢を示せる。


 大介は珍しくも、真剣な表情をしている。

「もしあいつが、俺と真剣勝負したいなら、もう来年ぐらいが限界だと思う」

 その言葉の意味を、直史は正しく理解する。

「……目か?」

「ああ」

 野球選手でも野手は、まずバッティングが打てなくなる。

 分かりやすい筋肉ではなく、眼球周りの筋肉が衰えていくのだ。

 するとスピードボールには対応しにくくなる。


 現時点でも大介は、ほとんどの打撃タイトルでトップを走っている。

 それでもわずかに、自覚的な衰えがやってきているということだ。

「一応食事に気をつけたり、眼球周りのトレーニングもしているけど、再来年ぐらいにはどうにもならなくなると思う」

 もちろんドーピングでもすれば、この選手寿命は伸びたりする。

 他に違反していない薬の中にも、少しは効果を持つ物がある。


 必死で維持しようとする力で、今の成績を出しているのだ。

 直史としても自分の集中力が、昔よりはもたないようになったと感じている。

 回復力はピッチング内容で、どうにか消耗を防いではいるが。

 大介も故障をしないように、、盗塁を少なめにしている。

 お互いにもう、NPBの選手としては限界が近いのだ。


 目の話に関しては、以前にも少し話したことがある。

 だからこそ今は昇馬のスピードボールなら、大介を打ち取れるようになっているかもしれない。

「本当に乗り越える価値がある人間でいられるのは、来年がせいぜいかな」

 守備位置をコンバートして、バッティングに専念すれば、まだ少しは活躍出来るかもしれないが。

「ずっと現役でいたかったけど、衰えていくともう、そういう気分もなくなるんだよな」

 たとえNPBで通用しなくなっても、独立リーグでもいいからやっていたい。

 それが大介の目標であったはずだが、それが揺らいでいるというのか。




 息子の前の巨大な敵として、存在してやるのが最後の役割になるのだろうか。

 武史は司朗に対して、特にそんなことを言ってはいなかった。

 だが大介は対決する相手として、明確に昇馬を評価している。

 なんならバッターとしては、司朗とも競争している。

 打撃に関しては安打数以外、大介が圧倒的に上回るのだが。


 首位打者をどちらが取るのか、というのは世間でも注視されている。

 他のタイトルはさすがに、打順の関係もあって大介が取りそうだが。

 ボール球を打たない司朗は、長打が大介よりも低いため、勝負される場面が多い。

 それでも一点を争う時は、長打狙いをしている。

 直史の知っている球団との契約は、タイトルや表彰がポスティングの条件となっている。

 早くからメジャーに移籍し、そこで力を発揮すればいい。

 直史はなんだかんだ、日本のプロ野球には、あまり執着していないのだ。


 昇馬の将来については、直史としても色々と考える。

 その選択肢には、確かに輝かしい栄光が待っているようにも思える。

 だが野球選手などは、肩を壊したらそこで終わる。

 昇馬の場合は逆の手もあるが、ピッチャーが故障するのは肩肘だけではない。

 股関節や腰、あるいは背中など、あちこち壊れやすいのだ。

 もちろん昇馬の肉体は、人並外れて強靭であるのは分かっているが。


 なんならピッチャーで使えなくなっても、バッティングですら通用する。

 低反発バットを使いながらも、甲子園で何本も放り込んでいるのだ。

 ワールドカップでの活躍など、完全に特別扱いとも言える。

 しかし本人が望まないのならば、強要することなどはすまい。

 どれだけ才能があったとしても、モチベーションがなければ無意味だ。

 昇馬は甲子園という、明確な目標のために戦っている。

 ワールドシリーズなどを知っていても、それでもプロを選ぶとは限らない。


 ニューヨークの英雄と、大介は言われる。

 だがその輝かしい成功の影に、陰惨な嫌がらせがあったのも確かだ。

 そもそもニューヨークは場所によっては、かなり治安が悪かったりする。

 イリヤが死んだのも、そのニューヨークであった。

 恵美理が事件に巻き込まれ、トラウマを抱えたのもそうである。


 アメリカは強烈な同調圧力が、その社会にあったりもする。

 そのくせ多様性などといって、多様性を一色の同調圧力にしたりもする。

 それでも昇馬としてみれば、アメリカの広大な大地には、それなりの魅力を感じている。

「鬼塚はそのへん、スカウトとも話してんのか?」

「それは大丈夫らしいけどな」

 昇馬の素質を考えれば、将来のメジャー挑戦は、語学の壁もないためスムーズであろう。

 だがそれはやりたいことであるのか。


 人間誰しもが、やりたいことをやって生きているわけではない。

 むしろ生きるために、やりたくもないことをやる方が自然なのである。

 だがごく少数の例外は存在する。

 昇馬などはその少数派であろう。

「そもそもあいつが何をやりたいのか、俺には分かんねえ」

 大介としてはそれが正直な感想なのである。

「……引退をしてから、自分が何をしたいか、それを当てはめてみればどうだ?」

 この直史の指摘には、大介としても思うところがあったらしい。


 とにかく野球をやっていれば、それで道が開けていた。

 だが現役でやっていられる時間は、もう限られている。

 生涯現役を貫こうと思っていたが、実際に衰えが見えてくると、そうとも言えなくなっている。

 全力ではもう、野球をやれなくなったら何をするのか。

「俺のしたいことか……」

 野球が好きだということは変わらない。

 しかし自分にコーチや監督が出来るかというと、全くそれは思わない。




 直史との会食を追えて、大介はマンションに戻ってくる。

 現在はここで、椿との二人暮らしをしている。

 明日の試合に向けて、集中するのが大介である。

 もっとも変なルーティンなども作らず、ぐっすりと眠る神経の太さが、大介という人間である。

「俺が引退したら、何をしたらいいんだろうな」

 そんな問いに対して、椿は少しだけ間を置いて、用意していた紙束を持ってくる。

「野球に関連する仕事か、関連しない仕事か、色々と調べてある」

 出来た嫁はもうNPBに復帰したあたりから、これについては考えていたのだ。


 純粋に現在の資産を使って、実業家ということも出来る。

 ただ大介の資産はそれなりに、直史のやっている事業に投資もしているのだ。

 それは無事に成功しているが、他には株や有価証券になっているものもある。

 他には貴金属にしてあったりする財産もあるのだ。


 何かをやるに関して、資金自体はいくらでもある。

 ただ自分自身で何かをするとなると、元メジャーリーガーの肩書きを活かして、何かをするのがいいであろう。

「プロから離れないにしても、実績から監督やコーチの話はすぐにくると思うよ」

 しかしそれは大介の、本来の資質とは違うだろう。

 コーチはまだしも監督は、完全に顔を出すだけとなる。

 まあプロの監督というのは、格が必要になることもあるのだが。

 ただMLBの場合は、完全に選手と監督では役割が違う。


 大介は自分がプレイしないのであれば、プロの世界には未練もない。

 実際にコーチなどの仕事を見ていると、考えることが色々と多すぎると思う。

 バッティングの指導などは、多少出来るとは思う。

 だが育成については、自分の適性にはないと思うのだ。

 かといって経営側に立つというのは、さらに向いていないと思える。

 あとはスカウトなどで、あちこちを巡ったりということもあるだろうか。


 野球から完全に離れようとは思わない。

 だがプロの世界にいつまでもいよう、とも思わないのだ。

 もっと自由に、のびのびとやっていたい。

「独立リーグでコーチ兼任プレイヤーとか」

「そういうのもあるのか」

 色々と提案はしているが、椿は今すぐにそんなことを決める必要はないと思っている。

 大介はプロとしても、四半世紀活躍してきた。

 セカンドキャリアを考えるにしても、一年や二年は試す時間としてもいいだろう。


 それにこういうことは、三人で決めることだ。

 桜と椿は二人で、大介の未来を全力で考えている。

 生涯現役というのは無理だと、誰もが分かっている。

 だが大介に限っては、引退する前に何か事故にでも遭うのでは、というぐらいに野球とは密接に関連している。

 父親がプロ野球選手だった、という生まれる前からの因縁。

 野球をするために生まれてきた、という人間はいるのだ。


 直史はそうではない。

 プロの世界はもちろん、甲子園を狙うことさえ、全くなかった。

 ただ一勝だけでもしたいと考えて、そして伝説に至った。

 引退してそれからが、人生は本番になるのかもしれない。

 人間は肉体は若い頃が優れているが、世間的な地位を築く中年以降に社会を動かしていく。

 そういったことを最初から考えて、生きてきたのが直史なのである。




 椿は千葉の桜と、常に連絡を取っている。

 子供たちの世話と、大介のフォロー、二人で役割を分担しているのだ。

 その中でも椿は、いまだに完全に足が動くわけではない。

 なのでこちらの大介を、頭脳面からフォローしている。

 桜は子供たちに付き合っているが、既に精神的には独立している子供たちが多い。

 あちらは両親もいるので、さらに手を貸してもらうことは出来ている。


 結局は家族が多いほど、協力し合えるのだ。

 金を稼いだこともあるが、下手に核家族化などしない方が、様々な面で有利である。

 また結婚した場合、夫の側の家で同居するよりも、妻の家の側で同居した方が、上手くいっていたりする。

 これは武史の場合、完全に当てはまっている。

 大介も子供たちは、母の方の実家で育っているのだ。

 直史さえも今のマンションは、瑞希の実家の方に近い。


 大介が引退したら何をすればいいか。

 ツインズはそのあたり、一番合っているのはリトルなどの子供の指導ではないか、と思っている。

 単純に野球が好きという理由で、野球をすることが出来る。

 それがシニアよりもさらに低い年代の子供たちだ。

 昔に比べると今は、空き地で野球をやる子供たちはいなくなってしまったという。

 大介の子供の頃でさえ、都会部ではそういった場所はなくなっていた。

 ただ日本中には、大量の野球場グラウンドがあるのだ。


 大介は通常とは違う環境から、プロに入っていった。

 そしてメジャーにおいて、これ以上はないという世界を見てきた。

 そういった経験は子供たちに、憧れを見せてくれる。

 精神的に見ても子供たちと、一緒に遊ぶのには向いているのでは、と思えるのだ。

 直史でさえ若い世代に、教えてやることは楽しいと言っていたのだから。


 丁度、末っ子の慎平が、野球に興味を持ち出している。

 それこそ今は、桜が教えてやっているぐらいだ。

 もっとも白石家は完全にスポーツ一家なので、他にも親や祖父母に世話を焼いてもらっている子供たちが多い。

 長女は千葉の都市部に通うため、高校に入れば直史のマンションに世話になることを決めていたりする。

 ただ全員が全員、本当に一流になるほど、ポテンシャルを秘めているとも限らない。

 直史の子供たちも真琴はともかく、明史にスポーツの才能はない。

 だがこれは幼少期から、心臓の病気であまり動けなかった、という明確な理由があるが。


 武史の子供たちは司朗を除けば、娘たちは音楽の方の才能を発揮している。

 スポーツもしないわけではないのだが、長女などは少しでも手を怪我することを心配し、球技などはしていない。

 次世代の中で一番、怪物じみた能力を持っているのが昇馬。

 しかしハングリー精神というか、野心を持って競技の世界に入ろうとしているのは、百合花であろう。

 彼女の狙いに関しては、大介さえも知らされていない。

 ツインズの他には直史だけが、無茶とも思えるその狙いを聞かされている。




 翌日にはもう、天候は完全に回復していた。

 しかしグラウンドの状態を完全に戻すのは、甲子園の整備を担当している業者である。

 高校野球などでは、日に四試合も消化するグラウンド。

 そのコンディションを戻す技術は、おそらく日本最高峰である。


 前日には色々と話をしていても、集中力を戻してくるのが大介である。

 今日はさらに、レックスの先発は直史。

 油断してもしなくても、確実に勝てる相手などではない。

 確率だけの話をすれば、試合自体はまるで勝てないのだ。


 通算成績で見た場合、おそらく直史の方が大介よりも上、と言われるであろう。

 このピッチャーとバッターの対決というのは、なかなか判定が難しいものだ。

 少なくともチーム同士の対決ならば、大介の側が勝ったこともある。

 そもそもトレードを駆使して、共に戦ったシーズンもあるのだ。


 大介は自分のバッティングの中で、何が衰えてきているのか、はっきり分かっている。

 ミートをしてボールを飛ばすのだから、動体視力が重要なのだ。

 それが衰えてきていると、はっきりと分かってしまっている。

 自覚してしまうと、それがより顕著に影響するのだ。

 だがそういった未来の恐怖があっても、大介はひるむことはない。

 それで心が折れてしまっているなら、既にもう直史相手に屈服しているだろう。


 スポーツの多くは、最終的にはメンタルが重要になる。

 ピッチャーなどもマウンドの上では、ブルペンで投げるよりも何倍もの気力を消耗する。

 バッティングなどもツーナッシングで追い込まれた場合、打率は一割ちょっとにまで低下する。

 プレッシャーとどう向かい合っていくかは、それぞれの人間次第。

 直史のように完全に、自分のメンタルをコントロールする人間もいる。

 大介の場合はプレッシャーを相手に、むしろパフォーマンスを上げる珍しい選手だ。


 プロの中にもレギュラーシーズンでは強くても、ポストシーズンでは弱いという選手がいる。

 だがそれはそれでレギュラーシーズンに、しっかりと活躍してくれればそれでいいのだ。

 もちろん興行的には、その結果で叩かれることは大いにあるだろう。

 どこかのチームのAさんのように、ワールドシリーズで全然打てなかったりすれば。

 シーズンMVPを確実にしていても、印象は悪くなってしまう。


 この場合、甲子園の決勝でパーフェクトをする直史や、ポストシーズンのOPSが2を超えている大介は、完全にプレッシャーに強い。

 お祭り騒ぎで調子に乗るタイプと言えようか。

 もっとも直史の場合、レギュラーシーズンでも普通にパーフェクトをしている。

 どんな場合でもパフォーマンスが変わらないということであろう。

 大介は明らかに、盛り上がれば盛り上がるほど強い。

 その意味ではライガースに入ったことも、一番いいチームであったのかもしれない。


 二人の対決は、今年がこれで三試合目。

 試合自体の勝敗は、一勝一敗となっている。

 もっとも負けた試合も、直史に黒星がついたわけではない。

 そして直史としても、今日は問題なくコンディションを整えてきている。


 ライガースもここで、先発はエース格の友永。

 だが各種数字を比べれば、直史に勝てるはずもない。

 それでも不確定要素があるのが野球である。

 直史のピッチングは、その不確定要素を潰してきたものであるが。

 レックスの攻撃から始まる、この首位争い。

 二人の英雄がグラウンドを去った後、果たしてこの世界はどうなっていくのか。

 新しいスターの誕生を、ファンはまた望んでいるのである。




 この同じ頃、タイタンズはカップスを相手に、二連戦を終えていた。

 日程の関係でこの第三戦を、リアルタイムで視聴可能になっている。

 司朗は打率で大介と争っていたが、少し差をつけられている。

 しかしヒットの数は多く、ホームランで打点の差も詰めていた。

 この試合で直史が、大介を封じてくれたら打率の差も縮まる。

 もっとも首位打者というのは、さほど重要なタイトルではないのでは、とも司朗は思っているが。


 重要なのは試合を決めるバッティングをすること。

 それにはまず先制点を取ることが重要で、出塁して盗塁を決めれば、初回はそれが一気に大きくなる。

 五月の試合がまだそれなりに残っている段階で、ホームランは二桁、盗塁は30個に到達。

 フレッシュなニュースターへの期待は、とてつもなく大きくなっている。


 司朗が考えているのは、やはりメジャーへの挑戦である。

 そのために直史にも力を借りて、無茶な契約を結んだものだ。

 タイトルか表彰によって、その条件を果たす。

 だがそれ以外に司朗は、もう一つチームの優勝も望んでいる。

(この二人のどちらか、あるいは両方を倒さないと、日本一はない)

 そして今年の段階ではまだ、タイタンズは戦力が足りていない。

(チーム全体の戦力なら、それなりに可能性はあるけど)

 コーチ陣の配置がアンバランスだと、司朗は考えている。


 状況を自分で理解している、一年目の高卒野手。

 その状況の理解力が、あるいはタイタンズの最大の武器になるか。

 一番ではなく上位のどこでも打てるバッターは、今はまだ飛躍の前の段階であるのだ。

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