第198話 衰え

 政治家の仕事というのは、国会に出ることではない。

 それもあるが基本的には、人と会うことである。

 自分の地盤となっている選挙区で、地元の人間と会うこともある。

 また東京に出てきて、そういった地元とのつながりを作っていくこともある。


 上杉正也は埼玉と神奈川に、そういったつながりが多い。

 そしてその秘書である樋口は、東京につながりが多いのだ。

 また樋口の場合は、大学時代のつながりというものもある。

 都内の話であれば、彼の方が事前に準備をしておくこともある。

 基本的にはやはり、新潟にいることが多いだろうか。

 しかし強いつながりが必要な場合は、彼が東京に来て下交渉をする。

 神奈川なら兄の勝也がいるので、そもそもそちらに話せばいい。


 そして東京まで来れば、そこから千葉にやってくるのも、日程を調整すればどうにかなる。

 SBC千葉において、樋口は久しぶりに、プロテクターを装着していた。

 完全に貸切の状態で、直史のボールを受ける。

 その姿は昔を知る者からすれば、感動の一言であろう。

 だが樋口はどうにも、足首や腰などが、硬くなっているのを感じた。


 直史のボールならば、そもそもコントロールが間違いないので、確実にキャッチ出来る。

「150km/hが出てるな」

「意識して152~3km/hは出るようにしたいんだけどな」

 この年齢でそれだけ出ていれば、充分であろうが。

 ただ野球も科学的なトレーニングやサプリなどの使用により、選手寿命が延びる傾向がある。


 一部の超一流選手は、選手寿命が延びる。

 だが全体的にはやはり、それほどの選手寿命が長くなっているわけではない。

 つまり数年しか通用しない選手が多く、選手の新陳代謝が激しい。

 その代わりにそれを超えたレベルの選手は、長く現役を続けられるというわけだ。

「来年は42歳だろうに、よくもまあやる気になったもんだ」

「広告塔みたいな感じだな。顔を売ることは大事だし」

 直史の鋭く曲がる変化球を、樋口はしっかりとキャッチしている。

 だがさすがに、現役を退いてからの年数を考えると、ぎりぎりでしかないボールもある。


「いいのかなあ」

 樋口は指導者資格の回復をしている。

 だが一緒に直史までいるとなると、これはアウトだろう。

「レジェンドキャッチャーがいるんだから、指導を受けるのは当然だろ」

 昇馬はそう淡々と言って、30球を投げた直史に代わって、マウンドの上に立つ。




 樋口も当然、昇馬のことはチェックしている。

 野球からは完全に足を洗ったとは言っても、地元のシニアの臨時コーチなどを、時々頼まれたりするからだ。

 またシニアの監督などから、選手の進路相談を受けたりする。

 樋口自身は地元の公立、春日山の出身である。

 だが大学野球は東京六大学で、直史と共に黄金の実績を残した。

 そしてそこから指導者になった人間や、プロともつながりがあったりする。

 早大付属ではなく帝都一を紹介した、新潟の選手もいたりするのだ。

 もしくは上杉の伝手を使って、神奈川の強豪に送り込んだり。

 実際に今の桜印は将典と同じ年に、新潟から送り込まれた選手がいたりする。


 選手の限界を見極めるという点では、樋口は直史や大介よりも、さらに鋭い目を持っているだろう。

 特にピッチャーの実力の見極めは、未だに世界一かもしれない。

 フィジカルやテクニックでも打っていたが、さらにそれより読みで打つ。

 表面的な成績を見れば、それは司朗と似たようなものに見えるだろう。


 立った状態から、昇馬のボールを受ける。

(160km/hとか言ってたけど、どんだけ出てるんだ)

 肩を暖めている状態であるのに、受ける左手の衝撃が凄まじい。

 これを女子の真琴が捕っていたというのが、同じキャッチャーとしては信じられない。

 さすがに甲子園の白富東の試合を、しっかりと見ていたわけではない。

 ただ普通に毎日、ニュースにはなっていたものだ。


 そろそろかな、と思って座る。

 それに対して昇馬は、指先までコントロールしたボールを、強く投げ込んだのだ。

 ストレートではあるが、わずかに手元で動く。

 動体視力だけでは、その小さな動きを捉えきれない。

 しかし長年の直感は、まだ錆付いていないらしい。

 わずかに感じるボールの動きから、しっかりとボールを内側に取り込むようにキャッチする。

「161km/h出たぞ」

 直史がそうやって確認しているのだが、重要なのは球速だけではない。


 ここの設備を使えば、ボールの持っている成分が、しっかりと分析出来る。

 以前にも昇馬は使ったことがあるが、あれからどれだけ成長しているのか。 

 身長は190cmを突破した。

 ただピッチャーとして重要なのは、リーチの面もある。

 その腕の長さも、昇馬はかなりのものがある。

 このあたりもバスケ向き、と言われる所以である。


 樋口は当然だが、一年秋の上杉のボールは知らない。

 だが一年の夏の時点で、レギュラーのキャッチャーが、全力のストレートを捕れないのは知っていた。

 あの時代に果たして、どれぐらいのスピードがMAXであったのか。

 尋ねてはみたが当時の先輩への配慮か、教えてはくれなかった。

 昇馬のボールは球種を事前に教えてもらえば、どうにか今でも捕れないことはない。

 それでもミットの中で暴れるボールに、指がえぐられる。


 これを女子がキャッチャーをやっていたのか、と思うとたいしたものである。

 もっとも樋口は、明日美という例外を大学時代に経験しているので、女子でも時折怪物が出てくることは知っている。

 それに真琴はU-18の日本代表である。

 実際のところは年齢無差別の、ワールドカップでも代表になるだろうと思われる。




 史上最強のピッチャーと、史上最強のバッターが存在する世代だが、直史としては史上最強のキャッチャーも樋口ではないかと思っている。

 シニアから高校、大学と進んでいって、NPBとMLBでもベストナインなどに選ばれている。

 少なくとも打てるキャッチャーとしては、この10年でも最高だったのではないか。

 もっとも樋口の場合は、アベレージよりも勝負強さに、その特徴が出ている。


 そんな樋口は最後に、真琴のボールも受けた。

 女子としては異例の、130km/hが出るピッチャーである。

 日本の女子選手としては、成人を含めても他に、125km/h以上が出るピッチャーはいない。

 しかもサウスポーのサイドスロー。

 父親よりは叔父に似ているのか。

 ただコントロールなどの部分を見ると、やはり父親の遺伝子を感じる。


 一通りの練習やトレーニングを見て、一行は食事などをする。

 今日は特別なことをしていないが、大介も一緒にトレーニング自体はしていた。

「俺からするとその年齢でバッターとして通用するのが、一番謎なんだがな」

「お前だってほぼ全盛期のまま引退しただろ」

「そうでもない。走るのが難しくなったからな」

 大介は樋口が、MLBで直史の引退後も、活動しているのは見ていた。

 だいたいどこのチームに移籍しても、手強いキャッチャーになって、そしてピッチャーのレベルを上げていた。


 日本人のキャッチャーが、そこまでの結果を出す。

 しかも日本の流儀をある程度、取り入れた上である。

 大介の知っている、樋口がよくMLBのピッチャーに言っていたこと。

 それはパーフェクトが継続している間は、サイン通りに投げてくれ、というものであった。

 無茶な要求にも思えるかもしれないが、それで五回ぐらいまではノーヒットピッチングというのが何度もあった。

 そういった結果を残していれば、自然と信頼が育っていくのだ。


 そもそも樋口は、直史と組んで何度となく、パーフェクトを達成している。

 樋口以外のキャッチャーと組んでも、確かに直史はパーフェクトを達成していた。

 だがその数字は樋口と組んだ時の方が、圧倒的に良かったのだ。

 実際に樋口は、球数が100球を超えてしまうあたりまでは、他のピッチャーもノーヒッターをさせたことが何度もある。

 リードとフレーミングに関しては、とんでもない技術があったのは間違いない。


 キャッチャーの評価というのは、どこで見るべきなのか。

 もちろんキャッチャーはキャッチャーであるが、同時に打席に立つバッターでもある。

 バッティングに関しても樋口は、三割ほどをキープしつつ、ホームランもずっと二桁、出塁率も高いところを維持していた。

 そして今のMLBではあまり重視されない、盗塁をかなり重要な場面でやってきたのだ。

 俊足のキャッチャーとして働き、そのために体のあちこちに、疲労が蓄積したというのはあるだろう。

 それでもしっかりMLBで、キャッチャーの中では一番高い年俸にまで、年割りでなったことがその評価を証明している。


 実際のところ樋口が引退したのは、上杉正也の引退と重なっている。

 30代の後半まで、MLBのキャッチャーとして通用したのだから、それだけでNPBでもレジェンドと言っていいだろう。

 見えにくいところで、樋口は結果を出した。

 つまるところチームの勝率は、樋口がいる時といない時で、極端な差があったのだ。




 樋口は経歴などを見ても、球団がフロントや首脳陣に欲しがる人材であったろう。

 しかし樋口は直史以上に、野球を目的ではなく手段として考えている人間であった。

 議員秘書となっているが、あくまでも樋口の本質はそちらにある。

 策略を巡らせることを、当たり前のように考える頭脳と精神性。

 バッターを翻弄したそれで、日本の政界に侵入しているわけだ。


 本当なら兄の方に、協力しようと思っていたのだ。

 だが兄の方は兄の方で、完全に神奈川で地盤を築いている。

 だからカリスマとまではいかない、弟の方に力を貸している、というのが今の状況だ。

 また樋口は地元の有力者とのつながりのため、クラブチームなどに臨時のコーチとして顔を出すこともある。

 シニアとのつながりもあって、桜印に選手を送り込んだのは、彼の伝手によるものであったりする。


 新潟は春日山が優勝するまで、甲子園の優勝旗が届かなかった県であった。

 今でもさほど、強豪が存在する県ではない。

 素材としていい選手がいたならば、それこそ大学時代の伝手や、上杉の伝手を使って、東京や神奈川の高校に送り込むことが出来る。

 桜印もこの秋から、ベンチ入りした一年生がそういった戦力である。


 樋口も一年の春から、160km/hは捕れるようになっていた。

 だが男女差があるのに、真琴がここまで捕れているのは、本当に驚きなのだ。

 左利きのキャッチャーというのも、かなり珍しいものである。

 もっともMLBでは、かつて坂本がそんなことをしていたが。


 本日の樋口の感想であるが、とにかく一つである。

 直史があれだけブランクがあって、この年齢になっているのに衰えていない。

 そもそも昔から、直史の球速のMAXは、本当にこの程度なのか、とは思っていたのだ。

 体格や体重からして、腕の長さも考えると、もう少しだけ球速は出ると思われていた。

 だが球速を無理に求めれば、それだけ肉体にダメージが入る。

 限界まで力を出すのは、本当に限られた状況だけでいいのだ。


 直史は今年、去年に比べて完全に、球速が落ちた。

 しかしこのオフにトレーニングによって、それを取り戻そうとしている。

 40歳を過ぎた年齢で、また上限を上げていくというのは、かなり厳しいだろう。

 直史はただでさえ、他にやることがあるのだ。

 事業についてもだが、家庭内にもやるべきことがある。

 樋口にしても子供が四人いるので、そのあたりは他人事ではない。


 引退してからこちら、新潟の地元のチームに少し、臨時コーチのような形で呼ばれることはあった。

 野球関係者から広がる票田は、馬鹿にならないものがある。

 なので少しは顔を出していたが、基本的には引退後は知識のアップデートはしていない。

 現在はネットによって、多くの情報が鍛える方法として、世間には氾濫している。

 だが実際はどの手段がどの選手に合うのか、それはやってみないと分からない。

 もちろん試行錯誤というのも、一つの有効な手ではある。

 しかし本当に優れた指導者は、その選手の素質などから、完成形を見出してくるのだ。


 直史の場合は来年のシーズンまでに、三ヶ月で体を作っていく必要がある。

 普通なら力を維持するのが精一杯の年齢で、もう一度全盛期に近いところまで持っていくのだ。

 ただそうしたとしても、キャッチャーはもう樋口ではない。

 迫水がリードの点で樋口に追いつくのは、まだまだ遠い先であろう。

 そもそも高みにたどり着けるのか、とも思うが。




 忙しい樋口ではあるが、一日の時間を作るぐらいには、直史との関係性を重視している。

 また昇馬のボールに関しては、やはり上杉よりも武史に近いのでは、とも思った。

 ボールの持っているホップ成分などは、武史に似ている。

 だがスイッチピッチャーというのが、とにかく規格外の存在なのだ。


 右で投げたボールは、左ほどの精度はなかった。

 またホップ成分も、左ほどではなかったと思う。

 しかし重いと感じたのは、右の方であるのだ。

 スピンの成分が違ったのであろうが。


 この時期に160km/hを出すというのは、かなり注意して行わないといけない。

 寒い季節に無理に運動すれば、それは故障のリスクになる。

 しっかりと体を暖めてから、ピッチングなども行うのだ。

 故障しないための柔軟性。

 それは直史にあって、他のピッチャーではとても及ばないところである。


 今年のポストシーズンは、比較的無茶をしなくてよかった。

 それでパーフェクトなどをやっているのだが、出来ればランナーを一人も出さない方が、無理をしなくてもいいから楽なのだ。

 理屈はそうであっても、実際にそんなことが出来るのは、本当に直史ぐらいであろうが。

 去年は日本シリーズに出なくて済んだのに、かかった負荷は大きかった。

 やはり大介との勝負が多いほど、負担は大きくなっていく。

 昔と違って今は、外部外付け計算機はないのだから。


 ただ今年の大介のホームラン数は、去年よりも14本も少なくなった。

 打率などは好調であるし、二塁打が相当に増えているので、打球が飛ばなくなったわけではない。

 しかしそれでも、やはり衰えというものがあるのだろうか。

 実際に今日、キャッチングをしていた樋口は、もう昔のようには戻れないな、と思った。

 腰に違和感を感じるようになって、本格的な故障をする前に、引退したのが樋口である。

 もう少しだけ早くMLBに来ていれば、彼も殿堂入りはしていたであろう。

 ただ2000本安打は日米通算で記録している。

 名球会入りの資格は得ていたが、さほどの関心もなかったのが樋口だ。

 そもそも今はピッチャーの条件が、昔に比べれば厳しすぎるのだ。


 ただ大原も200勝には到達したし、真田なども到達している。

 MLBに行かなければ到達していたであろうな、というピッチャーは多い。

 そんな中でMLBに行って、軽く条件を達成した、佐藤兄弟などは異質である。

 特に武史は、上杉の持つ通算記録を、塗り替えるかもしれない。

 サイ・ヤング賞の受賞回数では、向こうで記録を作ったのであるし。




 ピッチャーがMLBでは活躍しやすい理由は、もちろん日本のピッチャーのレベルが高いということはある。

 だがそれ以上に、明白な理由もあるので。

 それは対戦する回数が、NPBよりも少ないということ。

 MLBは選手の入れ替えが、NPBよりも激しい。

 それにチーム数が多いので、同じバッターと対戦する回数が減るのだ。


 基本的にピッチャーは、対戦している回数が少ない方が有利。

 だが直史などは、ほんとうにかなりの例外である。

 日本のピッチャーにすると、リーグでは同じ地区のチームであっても、19試合までしか戦わない。

 日本の場合は25試合も戦うことになるのだ。


 ピッチャーにしろバッターにしろ、入れ替えが激しい。

 マイナーでの競争は、NPBの比ではない。

 五年もメジャーで活躍すれば、それで充分に成功と言われる。

 だが今は平均的な稼動年数は、五年に満たないものである。


 一部のスーパースターが、巨大な契約を手にする。

 しかしほとんどは最初のFAになる前に、メジャーを去ってしまうのだ。

 NPBの支配下指名と違って、MLBでは順位の低い指名なら、むしろやめておいた方がいいとまで言われる。

 高校の時点で低い順位で指名され、奨学金を得て大学に進学し、改めてそこでドラフト指名されるというルートが、MLBには確立している。

 また有望な選手については、学生の時点で既に、エージェントが付いたりしているのだ。


 これがまた戦力均衡を、難しくしている要因であったりする。

 そして弱いチームでも、オーナーはしっかりと稼げてしまうのだ。

 強いチームはサラリーキャップにも似た上限金額を突破して、ぜいたく税を払ってでも戦力を集める。

 そしてMLB全体で現在の状態を維持するため、金を不採算チームにも分配するのだ。


 MLBのレベルは、選手を世界中から集めているため、世界で一番だ、と言うのは間違ってはいない。

 だがNPBリーグ優勝をするようなチームと、MLBの下位チームが対戦すれば、おそらくNPBのチームが勝つ。

 それは直史や大介の、長年での実感である。

 樋口もまたそれには賛成だが、条件としてはベースボールではなく、野球を行った場合、という但し書きが付く。


 短期決戦では間違いなく、NPBの方が向いている。

 多くが高校野球を経験しているため、トーナメントの一発勝負に強いのだ。

 アメリカは高校でも大学でも、おおよそがリーグ戦を行うこととなる。

 そのトータルで成績を出すため、安定感というのは分かる。

 だが勝負強さという点では、高校野球を経験している方が、メンタル的に上ではなかろうか。

 樋口は大学時代は、最後の一年以外は流していたが、高校時代には地元の期待を背負って戦っていた。

 そのため彼でさえも、同じような感想を持っているのであった。

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