第438話 休息

 体力と気力というのは、ある程度比例していると考える直史である。

 体力が落ちれば気力を維持するのは難しい。

 また気力が充溢していれば、多少の無茶は利くものだ。

 もっともその理屈でやっていくと、欝から自殺のコンボになったりする。

 人間は肉体的な限界は、あっさりとそこで倒れることで休める。

 しかし精神の限界は、その安全弁がなかったりするのだ。


 直史は一時戦線を離脱する。

 ただ二軍で調整するということは、その間に二軍のピッチャーが強化されるということだ。

 基本的に直史は、明らかにまずいと分かる点以外は、指摘したりはしない。

 故障だけは避けるべき、と考えているからだ。

 それでも直史に対して、アドバイスを求めるような視線はある。

 直接言ってくるのならば、分かる限りはアドバイスをしてもいい。

 しかしこちらからはあえて言わない。


 技術の習得というのは、心から望まなければいけないのだ。

 メジャーにいた頃に、よく見た光景である。

 アメリカのコーチは選手が尋ねてこない限り、自分からは何も言わない。

 だが問いかけてみると、分厚いファイルを取り出して、熱心に説明をしていくのだ。

 自主性をとにかく重んじる、というアメリカの精神性なのだろう。


 日本でもプロに入ればそうだ。

 大学も基本的には、やる気のある人間だけが、それぞれ知識を持ち寄ってきた。

 教えてもらうのが当然と思っている人間は、伸びることなく消えていく。

 ただ過干渉のコーチなどもいるので、そこは気をつけるべきであろう。

 プロになれば結果は、全て自分の責任なのだ。

 それなのにエースの責任だのといって、ピッチャーを壊すのは、名将と言われた監督でさえあったことだ。


 レックスのピッチャー育成能力は、それなりに高いものである。

 この20年ほどは順調に、球界でも代表的なピッチャーを、次々に出していった。

 直史こそがまさに、その一人であろうが。

 そしてメジャーに移籍したり、FAで移籍したりと、そういった選手も多くいた。

 レックスはそもそも、さほど裕福な球団ではないのだから。


 基本的にスポーツなどというのは、資金力がその限界を決める。

 FAで選手を獲得するにしても、選手を育成するにしても、その育成の環境を整えるにしても、金は必要なのだ。

 だが金だけで解決するなら、それもつまらないものである。

 上杉がスターズを強くしたように、直史は一人でレックスを勝たせている。

 それでも一点差ともなれば、やはり緊張感が違う。

(三点ぐらい差があれば、点を取られることも覚悟して、楽に組み立てられるんだけどな)

 余裕があった方がピッチングは、リードの選択も広がっていくのだ。




 直史はあくまでも調整をしている。

 この年齢になってくると、もう無理が利かなくなってくる。

 準備を周到に行っていれば別であろうが、今回はそうではなかった。

 パーフェクトをするのは、あくまでも結果。

 1-0のスコアで勝つために、無理をしていったのである。

 そのため用意していたより、多めにスタミナを使ってしまった。

 そのスタミナは体から、無理やりひねり出したものである。


 状態を元に戻すために、少し時間がかかる。

 休養の時間が必要であり、栄養を補給することも必要だ。

 その後にさらに時間を使って、コンディションを整えていくのだ。


 直史に見られているだけでも、二軍のピッチャーなどは奮起してピッチングをしたりする。

 レジェンドに見られているというのは、それだけでも力が入ってしまうものなのだ。

 直史はパワーではなく、技術で勝負するピッチャー。

 その技術を一部でも教えてもらえれば、飛躍するかもしれないと考える。

 実際のところはそこまで、甘いものではないのだが。


 ピッチャーを育てるメソッドはある。

 だがそれは分かりやすく、効率のいいメソッドである。

 効率が悪くても、時間がかかっても、圧倒的なピッチャーを作った方がいい。

 あとはピッチャーの種類も、色々と増やした方がいい。

 単なるパワーピッチャーでは、どんどんとそのスピードに、対応しようとしているのが、今のプロ野球だ。

 個性などというつもりではないが、プロで通用する特別な何か。

 それがないと一軍のローテはおろか、勝ちパターンのリリーフを任せることも出来ない。


 今はパワーをスピードにしてしまうのが、スピン量にしたりすることも重要だ。

 多くの選手をピッチャーに育成する型が存在する。

 しかしこの型からは、アンダースローは出てこない。

 木津のようなタイプも出てこないし、もちろん直史のようなものも出てこない。

 上杉や武史のような、パワーピッチャーは出てくるかもしれないが。

 ただそれは本当に、フィジカルだけの野球になってしまう。


 フィジカル重視というのは確かに、分かりやすく選手を強くする。

 だが今では思考力が、選手には求められるのだ。

 昔なら運動能力の高い人間は、ほとんど野球に集まっていたものだ。

 だが今はそれ以外にも、選択肢が色々とある。

 またプロ入りまでしても、そこで人生安泰といかないのが、分かりきっている。

 それだけにピッチャーはどんどんと、メジャーを目指しているのだが。


 NPBでもMLBでも、とことん無双をし続けた直史。

 それに見られているというだけで、練習の緊張感が違う。

 そして緊張感は集中力を生み、本来のピッチングを引き出す。

 緊張を集中力に変えられない選手は、プロのマウンドに立つのは難しい。

 もちろんプロに入ってくるような選手は、既に巨大な緊張感を、経験しているはずであるのだが。


 素材型の選手を下手に取ってきて、メンタルが全く向いていないというのは、スカウトの怠慢である。

 ただチームとしては三年から五年ほど、ある程度の戦力になってくれれば、それなりに良かったとも言えるのだ。

 長く主力となるような、そういう選手は珍しい。

 そういったスター選手だけでは、チームを作ることは出来ないのだ。




 二軍のブルペンでは、キャッチャーは選手だけではなく、ブルペンキャッチャーも存在する。

 キャッチャーというのはとにかく、育成の難しいポジションだ。

 バッティングが良ければコンバートされてしまうし、なんなら強肩を活かしてピッチャーにコンバートされる者もいる。

 また守備やブロッキングが大変なだけに、キャッチャーを嫌がる選手もいる。

 あえてキャッチャーをやってみたい、という選手も中にはいるのだが。


 プロの場合は特に、キャッチャーの仕上がりに時間がかかる、などとも言われる。

 高校時代ならば担当するピッチャーは、せいぜいが三人、多くても五人といったところか。

 しかしプロであると、ローテだけで六人が必要となる。

 また対戦するバッターのデータも、アマチュア時代よりも膨大になる。

 せめて大学を経由していればとも言われるが、高卒で獲得してじっくり育てる方がいい、と考える者もいる。

 かと思えば坂本のように、高校時代まではピッチャーで、キャッチャーに転向して成功するという者もいる。

 あるいは一番、大成するかを見抜くのが、難しいポジションかもしれない。


 二軍ではキャッチャーも当然育成している。

 ただ今のレックスは迫水が年間、130試合ほども先発のマスクをかぶる。

 それだけ経験を蓄積し、代えのきかないキャッチャーになっている。

 もちろんそれでは困るので、休ませる意味も含めて他のキャッチャーも使う。

 だが純粋に試合経験だけを積むなら、二軍にいたほうが試合も出られるし、様々なピッチャーの球を受けることにもなる。


 レックスは一軍のキャッチャーは、ベテランをベンチに置いている。

 実力的には微妙だが、一軍で使うには最低限の能力は持つ。

 キャッチャーは選手寿命が長いとも言われるので、長く活動すればそれなりの年俸にもなる。

 ただFAになって他のチームが獲得するほどかというと、それは微妙な話になってくる。

(育成は重要だよな)

 別に野球だけではなく、社会の全てがそうであるのだ。


 直史が事業を行う上で気づくのは、俗に氷河期世代と言われる人間が、どの分野でも抜けてしまっていることだ。

 ここで上手く事業が継承されない、ということが少なくないし、ノウハウも途切れてしまう。

 これはもう国家の失敗と言うしかないが、政治の失敗とも言える。

 よく無駄をなくす、という言葉が使われていたらしい。

 しかし実際には無駄をなくしていたのではなく、余裕を削っていたのだ。

 普段は余裕がある部分で、さらに仕事を大きくする。

 だがなんらかの問題が起こった時は、その全力で対応しなければいけない。


 この世代が貧しくなったことが、今では大問題になっている。

 少子化が一番分かりやすいことで、人口が減少するということは即ち、生産性の減少につながる。

 日本という国家はかなり特殊なため、他国に移民することはあまりなかった。

 逆に言語の壁によって、移民がやってくるのも防げていた。

 ただ人口減による生産力不足で、どうにか労働力を確保する必要が出る。

 それにとことん失敗しているのが、最近の政府であるという。


 上杉はそのあたり、政治家としてどうにかしようとしている。

 悪辣さでは球界一と言われた樋口は、上杉兄弟の参謀となっている。

 そちらの方がずっと、日本の実業のためには重要だ。

 直史はこれだけ野球をしていて、そして恵まれていながらも、これは虚業だと意識している。

 逆にそういった観点があるからこそ、ここまでの結果につながっているのかもしれない。




 直史はこの調整の間に、リーグのバッターについても見ていく。

 去年とは違うバッターが、どんどんと出てくるものなのだ。

 司朗が一番目立っているが、それはあくまでも新人王。

 数年前に入ってきて、数年を二軍で過ごし、そして主力になっていこうというバッター。

 直史としてはそういった選手は、まず叩き潰しておきたい。


 野球というものを興行として、大局的に見るならばもう、直史は次代にその座を譲るべきであろう。

 とにかく野球を愛している、大介のような執着はないのだから。

 それでもまだ、自分がやるべきことは分かっている。

 新しい世代によって、倒されることなのだ。

 体力の限界を感じて、そして敗北してから、新しい世代の糧となる。

 もちろん気を抜いて、打たれてしまうわけにはいかないが。


 ノウハウの継承というのは、別に事業の技術だけの問題ではない。

 確かに日本の工業技術は、小さな会社でも特筆すべきものがあったりする。

 それはもう工業商品ではなく、職人の技術の結晶であったりする。

 これだけ科学が発達しても、まだ人間の手の方が上回る分野がある。

 それこそ直史のピッチングは、機械のピッチングより正確である。


 結局直史のようなピッチャーは出てこなかった。

 当たり前と言われるかもしれないが、これを誰にも継承しないのは、野球界にとっての損失である。

 だが多くのピッチャーは、直史のほんの一部を継承し、自分の武器として活用している。

 バッティングにしても大介を、上回るような選手は出てこないかもしれない。

 ただしパワーだけで打つなら、まだ匹敵するかもしれない、とは思える。

 実際に二度とないと言われていた、四割を司朗は近い数字で打っている。

 あるいは直史のような選手も、どこかでは誕生しているのかもしれない。

 しかしこういったタイプのピッチャーは、かなりの人間との巡り合わせがないと、なかなか表には出てこない。

 この情報が拡散する時代でも、全てが発見されるわけではないのだ。


 司朗のバッティングには余裕があるな、と直史は見ていた。

 本当なら四番として、あるいは三番としてもいい打力。

 あえて一番として使われるのは、長打を打つバッターだけなら、タイタンズには他にもいるから。

 しかし最強の打線を意識するならば、一番にまたいい選手を置いて、司朗は二番にするべきだろう。

 出塁率が高すぎて、今はまだ一番に置くしかなくなっている。


 若い間は盗塁を稼ぎ、少し年齢を重ねれば長打を打てばいい。

 大介もそうだったし、悟もそうであった。

 野球を構成する要素のうち、バッティングは大きなものである。

 しかし走塁もまた、軽視してはいけないものだ。

 野球は総合的なスポーツと言える。

 勝利を目指す団体競技でありながら、個人の成績も重要視される。

 もちろん他のスポーツも、そうであるとは言えるのだが。


 司朗はそれなりに、既に敬遠されている。

 ただ敬遠しても、走られてしまうことを考えると、素直に打たれた方がいい。

 打球は野手の守備範囲内に、飛んでいくこともあるのだから。

 バットコントロールで、野手のいないところに飛ばすことも出来る。

 だがそれが常に成功しないことも、当たり前のことである。




 大介も少しは衰えてきた。

 それでいていまだに、歴代最強レベルのシーズン成績を残しているが。

 ショートを守る守備負担が、果たしてどれぐらいかかっているのか。

 ただ肩の力も使うため、やはりショートを守らせている。

 確かに打撃への負担や、走塁への負担のために、コンバートも考えていく時期なのかもしれない。

 しかしショートでの守備力と、そして打撃力というものがある。

 サードには比較的、打てるバッターを置いておきたいというのが、チームの考えなのであろう。


 直史はもう、ずっとピッチングばかりしている。

 そろそろ打率が、0割になってもおかしくない。

 パにいた方がいいのでは、などと言われることもある。

 しかし個人的には、セの方が投げるのは楽なのだ。


 マンションからの距離を考えれば、千葉のマリスタが一番近い。

 それでもまずレギュラーシーズンでは、大介との対決を考える。

 直史が復帰しなければ、大介は日本に帰ってこなかった可能性が高い。

 すると昇馬もアメリカに残ったわけで、そうなると日本の高校野球の歴史は、大きく変わっていたであろう。

 大介がNPBに戻ってきたこと、そして昇馬が甲子園を経験したこと。

 おそらくこの二つが、日本の野球界にとっては大きなことになる。


 昇馬がいなければおそらく、帝都一は甲子園を五連覇していた。

 将典がいても、それでもジンは攻略してきたであろう。

 そして司朗が引退してからは、桜印が春夏連覇をしても不思議ではない。

 今のところそれはなく、帝都一が昇馬のいる白富東に勝ったのも、桜印が準決勝で昇馬の球数を増やしたからである。

 体力的には充分に、完投することが出来た昇馬である。


 昇馬の前に、巨大な壁となって立ちふさがってやるべきだろうか。

 少なくとも練習においては、直史のボールは昇馬にとって、打つのが難しいものではない。

 試合の中での配球と、練習でのピッチングは違う。

 そして配球は、状況に応じたリードに変わっていく。


 昇馬は特に考えなくても、ほとんどは球威で抑えられるだろう。

 それでも真琴のリードがなければ、どこかで打たれていてもおかしくはない。

 真琴にリードを教えたのは、基本的には直史である。

 あとは樋口と会った時に、少しアドバイスを聞いたぐらいか。

 プロに入ればどのチームになるにしろ、キャッチャーとのコミュニケーションは複雑なものになる。

 そして165km/hを出しても、それなりに打つバッターが、何人かはいる。

 それこそ司朗と悟の組み合わせなら、一点は取れるであろう。


 バッターとして対戦するなら、直史のボールを打てるのかどうか。

 ピッチャーとして対戦するなら、大介を抑えられるかどうか。

 オフでの練習に参加すると、直史のボールを打つことは出来ている。

 しかし投げたボールは、大介に打たれてしまっている。

(この二軍にいる選手にしても、アマチュア時代にはそれぞれのチームで、主力になっていた選手ばかり)

 そのはずであるのだが、昇馬を目にした後であると、誰もが物足りない。

(どうせポスティングをするのは間違いないし、セのチームは取りに来るかどうか)

 レックスならば間違いなく、ほしいと思うであろう。

 ただポスティングの条件もあって、獲得出来ないのではないか。

 スターズが司朗を指名しなかったのも、ポスティングの問題があったからだ。

 そこをタイタンズが容認したというのが、また不思議なところであるが。


 別に大スターとして、殿堂入りし長年にわたり君臨してほしい、というわけではない。

 すぐにメジャーにいって、そこで活躍してもいい。

 ただNPBを経験するのは、悪いことではないと直史は思う。

 そして数年してからMLBに行っても、そういう選択肢もあるだろう。

(司朗も昇馬も、いい選手ではあるんだが)

 それがすぐにメジャーに行ってしまうと、国内の人気が空洞化するのではないか。

 だがそこを心配するのは、プロ野球全体の話であって、直史とはまた別である。

(最後の夏まで、あと二ヶ月ってところか)

 上手くタイミングが合えば、その姿を見たいと思っている直史であった。

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