第350話 平静?
ノーストライクでスリーボールなどという状況からでは、駆け引きなどもほとんど仕掛けられない。
ストライクを一つ取りたい。
その思考から直史は、どうにか脱する。
大介相手にそういう、運の良さに期待したピッチングをしてはいけない。
もちろん結果的に、運よく終わることはあるだろうが。
ここからは、もう歩かせても仕方がない、と考えるべきだ。
その上で大介が、ミスショットするようなボール。
(ボール球になるスルー)
これなら歩かせてしまっても、まあ仕方がないであろう。
実際に普段の大介であれば、ボール球でもホームランにしているのだ。
ゾーンから低めに外れていけば、打ってもおそらくゴロになる程度か。
バットを止めてフォアボールとなると、二打席連続になるのは印象が悪いが。
(でもまあ、ホームランを打たれるよりはいいかな)
点さえ取られなければいい。
直史の思考は、内角へのスルーを選択した。
これに対して大介の思考は、非常にシンプルである。
打てるボールを打つということだ。
しかしプロ入り後も、外角の球を打つことをメインに、バッターボックスに立っていた。
デッドボールになったことは、一応ないではない。
ただ厳しいコースに投げられれば、それだけ報復でのピッチャー返しが待っている。
日本だったらおおよそやらないが、アメリカでは舐められたらやられるのだ。
それが大介のライナー打ちに合っていたと言える。
投げられたのは内角のボール。
角度としては懐に入ってくる軌道。
ただのストレートではない、と気づいたのは打ってからのこと。
低めのボールには、体を落としてから一気に伸び上がる。
待ってから打ったボールは、直史の頭の上を通る。
手の中の感触が、その行く先を告げていた。
ライナー性の打球は、高さはそれほど出なかったものの、センターの頭の上も越えていった。
深く守ったセンターが、それを見上げる。
そしてバックスクリーンに着弾。
声援が小さくなっていた甲子園が、一気に爆発した。
勢い余ってグラウンドに跳ね返ってきたボール。
大介はガッツポーズをして、ダイヤモンドを一周する。
直史の無失点記録が、200イニングを超えてようやく破られた。
シーズン防御率0の記録は、NPBでは作られないものであるらしい。
試合が振り出しに戻った。
それは数字だけの話。
勢いは当然、追いついた側にある。
ライガースはここからクリーンナップ。
マウンドにやって来た迫水に言葉がない。
「早く戻れ」
甲子園がまだ歓声で揺らいでいる中、直史は平坦な声で言う。
「あっちが逸っている間に終わらせる」
直史は自分の心臓の鼓動を数える。
大丈夫、いつも通りだ。
あとは実際に投げてみて、ピッチングに問題ないかを確認する。
審判がプレイの声をかけても、ライガースの応援が上手く再開しない。
直史はアウトローの一点に、ぎりぎり厳しいボールを投げた。
バッターが手を出せない。
(問題なさそうだな)
そこから普段通りのピッチングを始める直史であった。
スルーを空振りさせて三振。
その次はチェンジアップを空振りさせて三振。
最後にはストレートを空振りさせて三振。
熱狂的な甲子園のスタンドに、冷や水をかけるようなピッチング。
追いつけ追い越せの掛け声が、追いついたから追い越せに変わる前に、三つのアウトを重ねてしまった。
スタンドばかりではなく、両チームのベンチもまた、押せ押せムードが消えていたり、混乱が沈静化していた。
ピッチャーは点を取られないことが重要である。
ただプロのローテのピッチャーであれば、ビッグイニングを作らないことが、最低限求められる。
レックスの投手陣は、完全にそれを基準に投げている。
ピンチがあってもそこで、最少失点で抑えることが重要なのだ。
直史は打たれたことによって、自分の中でスイッチが入ったのを感じる。
どこかにしまってしまって、場所も分からなかったスイッチ。
別に去年までも、点を取られたりホームランを打たれたりといったことはあった。
その時は思考によってどうにか抑えていったのだ。
だが今シーズンの終盤、ここに至ってようやく、失点という事態。
危機感が直史の、攻撃性に覚醒を促したと言える。
(メンタルっていうのは、こういうことでもあるんだな)
復帰一年目はブランクがあり、二年目は一年目のダメージが回復していなかった。
そして今年は復調して、思うとおりのピッチングを続けていた。
下手に抑えることが出来ていただけに、無意識下でもうそれ以上を必要としていないかった。
危機感を持ってやっと、そのスイッチが隠れていたのに気付いた。
たかが野球である。
命を賭けるなどというのは馬鹿らしいし、もう充分な年齢になっている。
されど野球である。
大介にホームランを打たれて、やっと実感したものがある。
自分はピッチャーという人間なのだという、ごく当たり前のことを、やっと思い出したとも言える。
三者連続三振で、追加点を完全に防いでしまった。
ライガースベンチはわずかだが、高揚感で満たされていた。
直史の無失点記録を阻止して、また勝利という目標が見えてきている。
直史に勝てるならば、クライマックスシリーズも優位な心理で戦える。
そう思っていたところに、クリーンナップが三者三振で終わった。
「ま、そう簡単に崩れるはずもないか」
「そうなんだよなあ」
大原と大介は冷静であったが、首脳陣は苦虫をかみ殺したような顔をしていた。
大介の一撃で、城門を破壊した。
しかしそこから突撃しようとした後続は、城門を埋めるかのような土嚢に押し潰された。
流れが変わるきっかけであったが、結局またあちらに流れがいっている。
幸いなのは大原が、これぐらいは当然だろう、と考えていること。
ここからもまた、粘り強く投げていくしかない。
ライガースとしては大原は、四回で交代してもいいと思っていたのだ。
だが本人はやる気満々で、五回も投げようとしている。
毎回ランナーは出しているが、点になったのは一本のソロホームランだけ。
こういう試合はもう、単純な野球のパワーではなく、人間としての総合力が問われるのではないか。
大原の積み上げてきた、これまでの野球人生。
それをここで全て、捧げてしまっても構わないと、本人は思っている。
次はどうせ、下位打線からの攻撃ではある。
一番の左右田までは回るが、一発を出す力はさほどもない。
リリーフの準備はさせていくが、ここは大原に任せる。
ここはもう力量ではなく、大原の執念に任せる。
一度ぐらいは勝ちたいと思って、そして誰も勝てていない。
NPBでは完全無敗の投手に、因縁深いベテランが立ち向かう。
この構図を崩さない限りは、おそらく試合が壊れることはないだろう。
八番から始まった、レックスの五回の表。
あっさりとワンナウトを取って、直史に打順が回ってくる。
当然ながら代打などは出さず、そのままバッターボックスへ。
打つ気のない直史の目は、ちゃんと大原を見ている。
そしてそのコントロールが乱れた時のために、下半身はちゃんと動けるようになっている。
問題なく三振で終わって、そして左右田の打席。
粘られた末にフォアボールで出塁し、二番の緒方に打順が回る。
緒方としてはここが、また一つの勝負所ではと考えている。
(一点を取られて同点にされても、すぐにまたリードすれば)
とにかく自分は出塁して、左右田を得点圏に運ぶ。
あとはクリーンナップの仕事だ。
緒方もまた、大ベテランと言っていい年齢になっている。
40歳でセカンドというのは、それなりに難しいポジションだ。
身体能力は落ちても、経験でプレイの処理ミスなどをなくす。
そんな緒方は自分の行う最低限を、ちゃんと理解している人間だ。
今日の甲子園は圧倒的なアウェイ。
直史はホームランを打たれたこともあって、ライガースは応援団からして熱気が高まっている。
あんな状態からあっさり、普段は取らない三振を奪うのも、直史らしいというかなんというか。
このライガースに行きそうで行かなかった流れを、なんとか断ち切りたい。
そのために必要なことはいくつもあるが、とりあえず大原にはここで退場してもらおう。
ゾーンのボールは上手くカットし、ボール球はしっかりと見極める。
甘いところに来るか、フォアボールでの出塁を考える。
かなり球数が増えている大原だが、100球にはまだまだ到達しない。
それでも一球あたりに使う力が、普段とは違うのは間違いない。
ミスのないように投げる。
壊れかけた肘で、集中力を絶やさないようにする。
その気持ちは同じベテランなので、緒方も分からないではない。
だからこそ、何をされれば嫌なのか、それも分かっているのだ。
甘く入ってきた球を打ったが、それはショート大介の守備範囲。
ライナー性の打球を、飛びついてキャッチしてアウトとした。
本当に、自分よりも年上なのに、ショートをあそこまで守っているのはなんなのか。
普通ならファーストあたりにコンバートされて、バッティングに専念させるだろう。
ただプロの世界で、20年以上もショート一本。
オールスターなどでは他のポジションを守ったこともあるらしいが、あとは怪我をした時にDHで出たぐらいか。
42歳のロートルでありながら、守備力が低下していない。
こちらを削ることは出来ないが、大原にはかなりの球数を投げさせた。
ピッチャーが交代のタイミングで、レックスは攻撃を仕掛ければいいだろう。
ライガースはリリーフをどうにかしないと、打線の援護が無駄になる。
レックスのような超強力リリーフでなくても、七回と八回ぐらいはどうにかするセットアッパーを獲得するべきだ。
緒方はそう思うが、実際にそうしてもらうと、レックスは困ったことになる。
ただライガースのそのポジションが埋まらないのは、ちょっと不思議ではあるのだ。
それに関してはライガースが、そういうチームだからとしか言いようがないだろうか。
昔はしっかりと、勝ちパターンのリリーフを持っていた時期もあるのだが。
試合は五回の裏、ライガースの攻撃へ。
六番から始まるこの回は、あまり得点は期待できない。
だがライガースの首脳陣は、考えていたより悪い結果を見せ付けられた。
三者連続三振で、これで前の回から続き、六連続三振。
涼しい顔をして直史は、ベンチに戻っていく。
この試合が始まる時点で、直史の奪三振率は9.91であった。
先発投手としては充分に高いが、飛び抜けているというほどでもない。
NPBで一番高かったのは、二年目の13.00だ。
それでも奪三振数が圧倒的に多くなるのは、投げているイニングが多いからだ。
今年にしても規定投球回には達しないが、奪三振率では武史の方が高い。
また先発ピッチャーの中では、他にも直史より優れた奪三振率の持ち主はいる。
全盛期でくらべるなら、さすがにほとんどいないのだが。
その直史が一点を取られてから、怒涛の奪三振である。
追い込んで投げた球が、振っても当たらない。
基本的には速球であるが、スローカーブで空振りを奪った三振もあった。
試合の流れが完全に、レックス側に戻ってきている。
これがピッチャーにしか出来ない、圧倒的な防御による攻撃だ。
ベンチに戻ってきた直史に、声をかけることが出来ない。
ただ直史自身は、今日は大介とあと二回も勝負しないといけないんだな、と厄介さを感じてもいたが。
六回の表から、ライガースはピッチャーを代えてきた。
好投していた大原であるが、球数もそこそこ嵩んできたし、それ以上に集中力が限界だろうと判断されたのだ。
だがここはピッチャーを交代すべきではなかったかもしれない。
確かに直史のピッチングによって、球場の空気はまたレックス側に戻ってきていた。
しかしそういった空気も含んだ上で、ピッチングを出来るのがベテランの味であろう。
そして直史の期待通りに、ここでレックスは追加点を取ってきた。
クリーンナップから始まる打順で、六番の迫水によるタイムリー。
わずか一点ではあるが、またもレックスがリード。
この一点差のまま、六回の裏を迎えることになる。
九番から始まる打順だ。
ライガースはここで、代えたばかりのピッチャーに、代打を送ることになる。
これも考えてみれば、点を取られてしまっているのだから、大原をそのまま使っていれば良かったのではないか。
もちろん結果論であるが、ここまで一失点であったのだ。
だがライガースとしては、毎回ランナーを出す大原に、クリーンナップの処理を任せるのは、もう限界かと思われたのだ。
直史はここでも、代打のバッターをボール球を振らせて打ち取る。
ここまで球筋を見ていなかった代打では、直史を打つのは難しい。
七連続三振で、そして一番の和田に回ってくる。
直史とは相性が悪いというか、そもそも直史と相性のいいバッターなど、いないと思われるのが野球の世界。
もちろんバッティングピッチャーをする時は、逆にどんどん打たせてくれるピッチャーになるのだが。
ここでの和田は、消極的なバッティングであった。
内野ゴロで連続奪三振の記録は途切れたが、あっさりとアウトになってしまう。
そしてツーアウトから、バッターボックスには大介を迎える。
ここまで二打席出塁している大介を、直史は抑えなければいけない。
もっともそう考えているのは、他の多くの人間だけである。
ボール球だけで勝負する。
大介の打ってくるゾーンが、広いことを理解した上で、しっかりと投げていくのだ。
初球に投げたのは、高速スライダー。
大介の懐に入ってくるこの球を、バットは迎えうつ。
ボールは一塁ラインを越えて、まずはファールでストライクカウントを一つ。
素直に避けていれば、ボール球であったのだ。
マウンドの上の直史が、凍てつく波動を発しているのが分かる。
和田のみっともないスイングを見ていれば、どれだけプレッシャーがかかっているのか、大介にも理解出来るのだ。
(あの本気のゾーンに入ってくるのか?)
疲れるからもうやらない、と大介は直史から直接聞いていた。
だが今の直史は、怒りに我を忘れるでもなく、冷徹に本気を出してきている。
こういう直史と対決したかった。
自分をはるかに上回る存在としての、真っ向勝負で叩き潰してくる存在。
二球目に投げてきたのは、スピードもあるカーブである。
これを大介はスイングしたが、ボールは後ろに飛んでいく。
(高かったか)
速いくせに落差のあるカーブに、大介は対応し切れなかったのだ。
そして三球目、高めのストレートをまた真後ろに飛ばしてしまう。
力で押してくる、という印象があった。
今年はこれまでずっと、涼しい顔で点を取らせないようにしてきた。
だがここに来てようやく、本来の姿を現してくる。
直史はなんだかんだ言って、負けず嫌いであるのだ。
いくらもう楽しむだけの野球などと言っても、本気でやるからこそ野球は楽しいのだし、本気でやって勝つからこそ、野球は楽しいのだ。
ボールカウントがついていないので、外れた球を投げてくることが出来る。
しかし直史が投げたボールは、ストレートであった。
(これは!?)
反射でスイングしていたが、バットはボールの軌道の下を通った。
空振り三振で、スリーアウトである。
直史は小さくガッツポーズをして、それを味方ベンチに見せている。
ボール球でカウントを稼ぎながら、結局最後までボールカウントを増やさなかった。
この打席だけを見てみれば、完全に直史の勝利。
(ホップ成分、あそこまで高めること出来たのか)
そして敗北しながらも、大介の戦意は全く衰えていなかったのである。
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