第349話 追い詰める
判定勝ちというのは微妙なものである。
一対一の個人戦ならば、それは間違いのない勝利である。
審判が買収でもされていたり、ホームの有利で判定がおかしいことはあるが。
こと野球において、判定勝ちなどというものはあるものか。
試合においてならば、勝ちと負けと引き分けしかない。
だが個人と個人の対決であれば、そんな言い方しか出来ないこともある。
大介をどうにもアウトに出来ず、出塁させてしまった。
最低限の役割を果たした、バッター側の勝利と言える。
なぜならそもそもバッターは、出塁率が五割を超えることは稀である。
もっとも今年の大介は、六割近い出塁率を誇る。
全盛期に比べれば、これでも落ちている方なのだ。
一塁に出た大介は、これみよがしに膝の体操をしたりする。
走るぞ、本当に走るぞ、というパフォーマンスである。
もっともパフォーマンスと油断していると、本当に走ってくるのだが。
現在の大介のホームランは61本で、盗塁は47個。
なおMLBで一番盗塁が多かった年には、ホームランも80本以上打っている。
盗塁するからこそ、勝負をせざるをえなくなる。
勝負をさせるためにも、盗塁を成功させる。
大介の場合は盗塁数もさることながら、その成功率の方が重要なのだ。
そんな大介でも抜けない、過去のシーズン盗塁記録というのは、いったいどうやったものなのか。
しかもそれは前世紀とはいえ、そこまで古い記録でもないのだ。
(二塁までは走られても構わない)
そう考える直史であるが、普段からクイックモーションで投げる練習はしている。
だがピッチングで盗塁を防ぐためには、動作の起こりをランナーに気付かせないことだ。
走力も重要であるが、盗塁はタイミングが命である。
ピッチャーは一度静止してからピッチングモーションに入る。
だが優れたランナーは、そこからわずかなモーションの起こりを見抜く。
直史の場合は気配が消えているので、まず走られることはない。
それでも盗塁を許した数は、0というわけではない。
なぜなら盗塁して一塁を空けてくれたら、敬遠する理由が発生するからだ。
大介は一塁ベース周辺から、直史を観察する。
バッターとして対決するのが一番の楽しみだが、ランナーとして盗塁を意図するのもスリリングだ。
だが直史は重要な場面では、牽制でランナーを殺す。
それを考えると安易には、盗塁を試すことなど出来ないし、ベースを遠く離れることも出来ない。
こちらの様子を窺っているはずだ。
しかしそんな気配も見せずに、バッターに向かって投げ込んでいく。
一回の裏、ライガースの攻撃はランナーに出た大介を、二塁に進ませるのが精一杯であった。
もっとも直史としては、二つ目のアウトを内野フライか三振で取ろうというつもりだったのだが。
ゴロを打たれてダブルプレイにも出来ないというのは、少しピッチングの精度がおかしかったのか、あるいはバッターの意図を読めていなかったのか。
逸っている、とは思いたくない。
だが己の心の中に、焦りや恐れ、あるいは無用の冒険心がないかは、しっかりと確認しなければいけない。
ともあれ最初の、大介の回りのイニングは片付いた。
しかし安心してしまうと、一発を出してくるのがライガースである。
レックスはとにかく、先制点を取ったら、かなり勝率が高くなるチームである。
これはもう純粋に事実であるので、とにかく先取点がほしい。
もっとも大原のピッチングは、球数が嵩むのも意に介さず、粘り強く一つ一つのアウトを取っていっている。
これはもう技巧派ですらないだろう。
もちろん軟投派でもなく、そんな言葉はないが粘着派とでも呼ぶべきか。
プロの世界でベテランが、こんなスタイルで粘っている。
こういう姿が好きな野球ファンは多い。
大原は現在のライガースで、最も在籍期間の長い選手。
ライガース一筋でここまでやってきた。
高卒からここまで、24年である。
生きてきた人生の半分以上を、ライガースに捧げている。
こんな幸運な野球人生は、そうそう送れるものではない。
怪我もあったし、スタイルを変える必要もあった。
使える変化球についても、ずっと試行錯誤をしてきた。
だからこそローテを守ってこれたし、一時的にローテを外れても、ならば大原を戻す、という選択をチームは取ってきたのだ。
しかしさすがに、42歳のベテランを、ローテの一枚に入れておくのは、もう新しい世代に譲るべきだろう。
もっともそれは譲るのではなく、競争して勝ち取るべきポジションだ。
致命的な故障によって、もうプロでは投げられない。
(なんならこの試合で燃え尽きてもいい)
だが、一度ぐらいは。
高校時代から何度も対戦して、一度ぐらいはこのピッチャーに、投げ合って勝ちたいではないか。
粘着派でもない。
これはもう、魂を燃焼させながら投げているのだ。
その気迫によって、レックス打線が押されている。
もちろんそこからでも、しっかりとヒットは打っていくのだが。
今日の大原は、直史の考えていることを実行している。
即ち、ピッチャーというのは極論、点を取られなければそれでいいのである。
二回の表も、大原は肉体と精神のスタミナを使いながら、なんとか無失点で終わらせた。
この様子を見ていて、直史はまずいかなと考える。
ライガースファンの甲子園を揺るがす大声援により、レックスの選手にプレッシャーがかかるのではないか。
直史は平気だが、他の選手はまだまだ若い。
いくら過激なライガースファンでも、選手を襲撃したりはしない。
ただ過去に遡ればライガースではないが、ファンらしき加害者によって、選手生命を絶たれた選手も存在する。
二回の裏、直史は三人で終わらせた。
三振、セカンドゴロ、ショートフライという内訳である。
あっさりと10球もかけずに、時間を短縮したのだ。
レックスの攻撃している時間が、ずっと長くなるように。
そして少しでも、大原を回復させないように。
他のピッチャーが、とてつもない努力の果てにたどり着く境地、なのであろうか。
大原は三回のマウンドに登っているが、直史のピッチングがそういうものとは思わない。
あれは選ばれた者だけのものだ。
努力とか才能とか、そういうレベルで達成可能なものではない。
極端に言ってしまえば、運命によって誕生したものだ。
どのように直史というピッチャーが構成されているのか。
本人は幼少期にピアノをやっていて、それが指先の感覚に影響を与えているという。
そして体の動かし方は、妹たちの習っていたバレエから応用したもの。
このあたりは明らかになっていて、真似をしようという人間もいるのだ。
なんでも本気でバレエに携わった人間からは、おおよそのスポーツにおける体の使い方は、無駄が多いのだという。
体軸の意識や体幹などという概念は、ほとんどのスポーツよりも歴史が古い、バレエでは昔から意識されていたものだ。
フィギュアスケートなどでも、バレエをレッスンに取り入れたりしている。
直史は動きの再現性を、そこから学んだのだ。
ここまでは普通に真似をすることも出来るだろう。
実際に続くかどうかは別として。
ただ中学時代の、あえてスピードも変化も抑えたピッチング。
こんなことをするなら、普通はレベルの高いシニアに行く。
逆境があったからこそ、身についた基礎の部分。
これは普通なら経験するはずがないのだ。
肉体の精密な動かし方というのは、基本的に幼少期から13歳ぐらいまでに最も発達する。
直史がブランクがあっても通用する理由は、ここが衰えることがないからだ。
一度乗れるようになれば、自転車の運転など10年ぶりでも、だいたいは問題がない。
直史にとってのピッチングというのは、そういうものなのである。
つまり残酷なことだが、直史がこういったことを言った時点で、直史と同年代の人間はもう、直史の技術を身に着けることが出来ない。
そもそも野球とバレエを習わせるような保護者が、いるとも思えないが。
別に直史になる必要はないのだ。
ピッチャーには色々なタイプがいる。
ただ上杉のようになれるピッチャーは少ないし、途中からサウスポーに代えるピッチャーも少ない。
子供の頃からピッチングだけは、左利きに矯正されたピッチャーはプロでもいるが。
この点では奇跡といえるのは、昇馬の存在であろう。
甲子園レベルで両方の手から投げるボールが通用する。
もっともサウスポーの方が安定していて有利なため、あまり右で投げるということはないが。
野球というのは試行錯誤の歴史である。
またトレンドというものもあるのだ。
アンダースローのピッチャーが、少なくなったという。
球速だけを求めると、本来の目的が忘れられてしまう。
165km/hをホームランにされることを考えると、点を取られない130km/hピッチャーの方が重要だ。
もっとも今のプロのスカウトは、140km/hが出ないピッチャーというのは、その時点でリストから外すという。
アンダースローなども軟投派の一種で、対策されれば打たれてしまう、と考える人間は多いし事実だ。
ただ高校野球の一発トーナメントであると、充分に通用するのだが。
三回の終わりまで、双方のピッチャーは無失点。
この大原の健闘に、ライガースファンは大喜びである。
だが現実というのは残酷である。
わずかに抜けた大原のストレートを、レックスの四番近本がスタンドに運ぶ。
野球とはこういうものだ。
いくら大原の集中力が高くても、それでも失投が出てしまう。
この場合は力んでしまったために、球威自体はあったのだ、それでも近本は打っていった。
拮抗した試合というのは、こういう一発やエラーから、試合が動くものだ。
ベンチからこれを見ていた直史は、追加点が重要だ、と考える。
この裏は大介からの攻撃となる。
最悪の結果としては、ホームランで追いつかれること。
だがその最悪でも、致命傷にはならないようになった。
もう一点あれば、一本のホームランは許容出来る。
ここで大原は交代して、リリーフを使ってくるか。
ランナーはいなくなったのだし、球数にはまだ余裕があるといっても、元気なリリーフを使ってもおかしくはない。
大原がここまで、相当の集中力をもって投げてきたのは、明らかであるのだ。
しかしまだ、大原は切れてしまっていない。
続投のベンチの判断に、スタンドはまた大きく盛り上がる。
セオリーとしては、代わっても代わらなくてもおかしくない。
ピッチャーの状態を見て、ベンチが判断することだ。
そしてライガースは判断する。
元々この試合は、落としても仕方がないという試合なのだ。
ちょっと大原がいいといっても、どのみち六回までは投げてもらうつもりであった。
捨てる予定だった試合が、ちょっと状況がいいからといって、簡単に変えてしまうべきではない。
正解かどうかは、結果から判定される。
そして大原はこの回、後続をしっかりと断ち切った。
レックスは待望の一点を手に入れる。
だが一点では足りないと考えているのは、他でもない直史である。
いくら直史がピッチングを組み立てても、何も考えないスラッガーや、布石の利かない代打に打たれる可能性はある。
大介の場合はそれらと違って、本当に打たれてしまう可能性がある。
ベンチからマウンドに向かう直史。
全身に球場からの視線が突き刺さる。
期待されているのは、不敗神話の崩壊の瞬間であろう。
直史としても先頭で大介がいるわけで、安易に歩かせることも出来ない。
(基本的にはアウトにしていくべきなんだろうが……)
その確実にアウトにする手段が、どうしても見つからない直史であった。
直史が考えている以上に、大介は悩んでいる。
この日の第一打席は、フォアボールで塁に出ることは成功した。
しかし結局は点になってないのである。
WHIPが1.5ほどあっても、防御率が0でさえあれば、ピッチャーとしては偉大であろう。
点を取られないピッチャーというのが、究極的には最強なのだ。
そして大介がいくらヒットを打っても、点に結びついていない。
直史はリスクやコストに対する、リターンを明確に定めている。
基本的にある程度の点差があれば、大介とも勝負してくるのだ。
だがいくら感覚派の大介であっても、ここまでプロの経験が長いと、シーズン全体の流れが分かるようになってくる。
今日の試合、直史は絶対に、勝たなくてはいけない。
ペナントレースの勝利を、日本一に結びつけるため。
ライガースとの差を、広げるか縮めるか、ものすごく重要な試合である。
第二戦の百目鬼は、かなり修羅場も経験してきているが、それでもまだ甲子園のプレッシャーには耐えられないと思う。
予告先発ではライガースも友永なので、ここは明確に勝ちに来ている。
一勝一敗で差を維持することが、直史にとっては最大の仕事。
両チームレギュラーシーズン終盤で、本当に一試合ごとに首脳陣の考えることが変わる。
しかしその悩みを選手たちに見せるわけにはいかないのが、特に監督としては辛いところだ。
コーチよりはずっと給料はいいが、とにかく最後にチームを勝たせるのは監督である。
結果だけを見れば前任の貞本は、間違いなく名将であった。
西片は勝負への嗅覚は、明らかに貞本よりも優れている。
動くべきところと、動くべきではないところの判断が、しっかりと区別されているのだ。
貞本などはチームの育成段階を任されていて、実際に戦力が若返っている。
もっともショートとキャッチャーを獲得したのは、明らかにスカウト陣の手柄であるが。
百目鬼や平良といったあたりが伸びてきたのは、二軍と貞本が意識調整をしっかりしていたからだ。
ただ基本的には動かない監督であったので、そこは色々と言われたが。
この場面で直史に期待しているのは、大介をアウトにすることである。
ここで大介が点を取れなければ、レックスの打線は活発化するかもしれない。
西片の目から見ても、大原はおそらく五回までだろうと見ている。
リリーフ陣の弱さこそが、ライガースの一番の弱点。
ただポストシーズンに入ってくれば、そこも上手く埋めてくるだろうが。
大介に対する初球、直史は低く外れるスルーを投げるつもりであった。
だが視界の中の大介の動きを見て、指を完全に離す。
キャッチャーの捕りようがない暴投が、バックネットに突き刺さる。
直史はランナーがいない時は、ごく稀だがこういう大暴投をするのだ。
それは理詰めで考える直史には珍しい、打たれるといった予感への対策。
外すならば完全に外すべし。
そしてキャッチャーの迫水も、この大暴投の意味は分かっていた。
大介を打ち取れるイメージが湧かない。
もちろん組み立てはしっかりと考えていて、その通りに投げようとしたのだ。
しかしピッチャーとしての本能が、直前で動作をキャンセルさせた。
(するとこれはどうだ?)
二球目に投げたのはスローカーブで、これはボール球である。
大介ならば打とうと思えば、ヒットにするぐらいは問題ない。
しかしスイングすることなく、ボールカウントが増えたのであった。
ツーノーというカウントになると、圧倒的にバッターが有利となる。
直史としてもこんなつもりではなく、もっと攻めていくはずであった。
(さすがに次はストライクを稼ぐしかないか)
だがゾーンはもちろん、そこからボール半個外れた程度でも、おそらく大介のバットは届く。
(ボール球だと見極められてるのがなあ)
ワンストライクを速球系で取れていれば、次にチェンジアップを使ったのだが。
ここで使うとしたら、スルーチェンジである。
だが先に一度も速球を投げていないので、これは見極められる可能性が高い。
ボールゾーンに落ちていく球でも、大介ならば掬い上げてしまうかもしれない。
ならばいったい、どうすればいいのか。
(ツーシーム)
回転のかけかたによって、普通のツーシームよりも沈まないツーシーム。
これをアウトローに投げ込んで、どうにかファールを打たせることが出来るか。
直史としては初球の暴投で、全ての組み立てが狂ったと言える。
だがあのまま投げていれば、低めのスルーを掬われたと思うのだ。
(歩かせるしかないか?)
ただ甲子園のこの舞台で、下手に歩かせるのは難しい。
直史としては気にしないが、他のチームメイトは萎縮する可能性が高い。
あの領域に至れば、なんとかなるのかもしれない。
だがもう直史は、あの領域への鍵をなくしてしまった。
ならばここは、どういうボールを投げるべきか。
(スローカーブを連発)
そうして投げたカーブは、かろうじてゾーンを通っていたはずだ。
しかし審判のコールは、やはりボールであった。
これでスリーボール。
他のバッター相手でも、こんなカウントにはしない直史である。
普通ならばここまでに、決めてしまうのが直史なのだ。
だがここはもう、一球ぐらいはストライクを取りにいくしかないか。
(まったく、考えることが多すぎる)
ただ試合に勝つだけならば、敬遠すればいい話だ。
しかし以降のチームメイトのメンタルまで計算すると、どうにか打ち取りたいと思ってしまう。
(贅沢な話ではあるんだよな)
まずはストライクカウントを一つ。
そのために投げる球を、直史は選択肢の中から選んだのであった。
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