第348話 ラスボスと裏ボス

 佐藤直史と白石大介のどちらが上か、という議論は往々にして出てくるものだ。

 そして評価の基準をどこにするかから、壮絶な舌戦が繰り返される。

 おおよそ納得がいくのが、チーム全体のレギュラーシーズンにおいては、大介の方が上。

 だがポストシーズンの決戦力としては、直史が上というものだ。

 両者をそのまま戦わせれば、という話になるとまた困った話になる。

 大介は打率であれば、他の誰よりも直史から打っている。

 しかし試合の勝敗を言うならば、かなり直史が勝っているのだ。

 MLBでは一試合、劇的なホームランで大介が勝利した、ワールドシリーズの試合がある。

 それ以外となるとレギュラーシーズンを含めても、直史は引き分けるか勝ち投手の権利を得られなかった、というぐらいの結果が残っているのだ。


 おおよそ直接対決では直史が勝っている、という結果から直史が上とする。

 そうすると今度は、選手としてのキャリア通算などという、ゴールポストを動かす人間が出てくるのだ。

 本人たちとしては、大介は今日も勝てなかった、ということが多い。

 直史は結果的にチームは勝てた、ということが多い。

 実際にチームが勝てたかどうかを比べれば、直史の圧倒的な優勢となる。

 だがそれをもって直史は、自分の方が優れているとは言わない。

 誰かと比較することを、美意識に欠けると考えるのが直史だ。

 もちろん自分以外の誰かと誰かなら、視点を定めて比較して、どういう点でどちらが上かを、はっきりと述べることはある。

 また知見が間違っていれば、それはそれであっさりと撤回するし謝罪する。

 謝ったら負けな人間ではない。


 そういう点ではプロ野球よりも、日本代表の方が気楽にコメント出来る。

 どちらもがどちらも、最も手強いピッチャーやバッターとして、今ならコメント出来るからだ。

 上杉の全盛期であると、そこもまた困った大介であったが、幸いと言うべきか直史が上杉とかぶったのは、本当に短い間でしかない。

 直史はその場合、チーム力の差やバッテリーとしての総合的な見方を考えるので、迂闊なことは言えない。

 一番面倒なのは、上杉との比較を他人がした場合だ。

 上杉は下手に甲子園で優勝しなかったことで、かえって神格化されてしまった部分はある。

 カリスマ性の問題も含めて、本当に比較するのは勘弁してほしいのだ。

 人間力で比べたら、あちらの方が上なのは間違いないのだし。


 ともかくライガースに勝つには、まず大介のバッティングによる失点を防がなければいけない。

 前の対決で失点しなかったのは、大介のヒットには目をつむり、ホームランを防いだからだ。

 あとは敬遠をして、チャンスを潰したこともあった。

 だが甲子園においては、よほどの状況でない限り、敬遠は使いづらい。

 それでも勝つためなら直史は使うし、次の試合でバッシングを受けても構わない。

 第二戦の百目鬼には申し訳ないが、レギュラーシーズンはあと一試合しか残っていないのだ。


 復帰一年目、ポストシーズンで直史は、ライガース相手にほぼ孤軍奮闘のピッチングをした。

 中一日で三勝し、六戦目にも投げたのだ。

 もっとも他のピッチャーも、調子が悪かったわけではない。

 ライガースの強打を相当に抑え込んだが、味方が点を取れなかった。


 アドバンテージがあれば、三勝して日本シリーズに進める。

 今の直史としては、かなり苦しい状況だ。

 だが去年に比べれば、回復してきてはいるのだ。

 復帰一年目は本当に、限界を超えて投げていたと言える。

 そのため二年目は本調子ではなかったが、チームは日本一になった。




 どうしてもアドバンテージがほしい。

 それはライガースも一緒だろうが、あちらはむしろレックスに、アドバンテージを与えたくないと考えているだろう。

 短期決戦はいいピッチャーを抱えている方が有利。

 なのでいかに直史を使わせないか、が重要になってくる。


 大介は直史がもう、完全に全盛期の力はないと知っている。

 特にそれが顕著なのが、回復力である。

 ならばどうして去年より、成績が回復しているのか。

 これに関しても大介は、ちゃんと理解しているのだ。


 つまり復帰一年目に、無理をしすぎたわけである。

 なので本来はもっと回復するはずの、二年目にその分の疲れが引き継がれてしまった。

 三年目には加齢による衰えよりも、オフにしっかりと休んだことによる回復が、そのパフォーマンスを発揮していると言える。

 また経験の蓄積という点では、直史は今年がまだ、NPBとしては五年目。

 実質ブランクを考えれば、今年が三年目とも言える。

 新人のピッチャーなどで言うなら、脂が乗ってくる年代である。


 肉体は現状を維持する。

 そしてコンビネーションとバリエーション、駆け引きといった経験で勝負して行く。

 直史はプロの実働が、今年でまだ10年目。

 それほどのベテランと言うほどではない。

 だが単に投げた試合やイニングを数えるのではなく、どういう状況を経験してきたかを考えると、直史ほどのピッチャーはいないのだろう。

 高校時代は甲子園とワールドカップ、大学時代はリーグ戦や全国大会にWBC、クラブチームで社会人野球に、プロはNPBとMLB。

 普通に高卒でプロ入りするよりも、色々な場面を見てきたというのは確かなのだ。


 一般的なものとは違う思考に、超絶的な技術。

 そして何より精神性。

 負けず嫌いではあるが、負けることを恐れてはいない。

 力んでしまうことも昔はあったが、今はほどよく力を抜いている。

 今日もまた、そんなピッチングで行こう。

 そのためにはまず、初回に先制点を取ってほしいのだが。


 大原は直史の倍以上、このNPBを経験している。

 もっともイニング数で比べた場合、その差は小さくなるのだが。

 平気で完投する直史と違い、大原は30歳前後から、シーズンの完投が一つか二つとなってきた。

 以前はシーズンに、五試合以上も完投をしていたのにだ。

 とにかく馬力で、試合に投げ続けていた若い頃。

 パワーピッチャーであった過去があるからこそ、そこに技術や駆け引きの蓄積を上乗せすることが出来る。


 この大原から、とりあえず先制点を取ってほしい。

 出来れば一回の表に取ってくれれば、直史としては負けないピッチングが出来る。

 立ち上がりというのはピッチャーにとって、難しいものなのだ。

 特にプレッシャーがかかっていると、ベテランであってもボールが行かないことがある。

 甲子園の大応援団が、逆にプレッシャーになることもあるだろう。

 だが大原はこの試合、違う意識で投げている。




 この試合は捨て試合だ。

 少なくともライガースの首脳陣と、大原はそう考えている。

 現実的に考えて、ここまで無失点のピッチャーから、いくらホームゲームでも点が取れるとは思えない。

 直史はプレッシャーに、圧倒的に強い人間だ。

 大原に限らず大介もそれが分かっている。

 重要なのは勝つことではなく、楽に投げさせないこと。

 ポストシーズンのことを考えれば、ここから少しずつでも直史を削っていくのだ。


 日程的には充分に、休むことが出来るかもしれない。

 だがペナントレースで逆転優勝すれば、クライマックスシリーズのファーストステージで、カップスが削ってくれるだろう。

 ファイナルステージでもライガースは、全力で削っていくのだ。

 そして削りに削れば、MLBの二年目のように、叩くことが出来る。

 NPBはMLBよりも、ポストシーズンは短い。

 だがレックスが確実に優勝するには、直史を上手くたくさん使っていくことが必要なのだ。


 もちろんそうやって削って、日本シリーズのピッチングに影響が出るかもしれない。

 漁夫の利をパから日本シリーズに進出してきたチームに、奪われてしまうかもしれない。

 実際に一昨年は、そんな感じであったのだ。

 直史が抜けてしまえば、レックスは確実に勝てる二勝がなくなってしまう。

 あるいは三試合に投げることすら、直史なら可能なのに。


 そういうことを考えても、ライガースは全力で、日本シリーズを目指すだけである。

 先のことを考えすぎても、意味のないことである。

 大原としては大量失点を防ぎ、直史に少しでも多くのイニング、球数を投げさせることを重視する。

 それが自分に出来ることだ、と考えている大原は、初回から球数を使ってきた。

 肘の状態は、回復しているわけではない。

 次に痛めたらもう完全に、トミージョンしかないであろう。

 だが今年でもう、燃え尽きることを覚悟しているのだ。


 ベテランが先発し、粘り強くピッチングをする。

 これはなかなか点が取れない展開だ。

 しかし大原の現在の力では、必ずリリーフが必要となる。

 そしてライガースのリリーフは、クローザー以外の安定感が微妙である。


 勝算はない、と考える方が常識的であろう。

 もっとも直史などを見ていると、常識とは、と遠い目をしてしまうものなのだが。

 ライガースがどう考えているかなど、直史には分からない。

 自分を過小評価するとで、ここまで実績を残してきた直史は、ライガースがこの試合を捨てているなどとは思わないのだ。

 下手にエース級ではなく、今年で引退の大原を先発に持ってきたこと。

 それはベテランの持っている全てでもって、直史に対抗しようと考えている。

 これはこれで勝ちにきている、と直史は判断するのだ。


 そしてライガースは一回の裏から、いきなり得点のチャンスとなる。

 ランナーがいなくても大介ならば、打った場合およそ15%ほどの確率でホームラン。

 ただそれは逃げ気味のボールも打っているからで、明らかに勝負したゾーンの球なら、もっと高い確率でホームランにしている。

(絶対に点を取られないピッチングか)

 マウンドに登ると、甲子園の大歓声が聞こえてくる。

 ベンチからも想像はしていたが、実際はそれ以上だ。


 甲子園という球場自体が、うねってくるように感じる。

 この熱狂はMLBのワールドシリーズでも、感じたことがないものだ。

 もっとも直史にとっては、慣れた空気である。

 プロ入りする以前、地元の大阪光陰相手であると、甲子園はとんでもないアウェイになった。

 それも直史が投げて行くうちに、空気はどんどんと変化していったものだが。

(さて、と)

 先頭の和田を打ち取ってから、直史の本当のピッチングが始まる。




 大介を二番のままに置いていいのか、というのはライガースの中でも議論された。

 一番バッターに置いておけば、より打席が四回回ってくる可能性は高い。

 また和田は直史相手に、まともに出塁出来ていない。

 それを考えればいっそ一番に、という考えもありなのだ。


 もっともライガースの投手陣が、果たしてレックスをどれだけ抑えられるか。

 特に今日の先発の大原が、どれだけ抑えられるか。

 大介が一点を取っても、それでは足りないだろう。

 ならばここまでは出塁出来ていないが、それでもライガースではリードオフマンの、和田はそのまま起用すべきだ。

 これが友永であったりしたら、もしくはポストシーズンの決戦であったら、ライガースも点を取らせない投手運用をしただろう。


 そのあたりの評価が分かっていない直史は、とにかく慎重に和田を打ち取って、大介との対決を迎える。

 ここで甲子園の盛り上がりはさらに高まりを見せて、もう声援が轟音になってくる。

 発狂したかのような叫び声が、あちこちから届いてくる。

 だがこの爆音の中で、二人の周辺は静かであった。


 騒音が集中の妨げになる、とはよく言われる。

 だが本当に集中していれば、音など気にならないという場合もあるのだ。

 直史の場合は後者で、音はほぼ気にならない。

 音のない世界というのを、自分で作り出してしまうからだ。


 集中したら音がなくなり、また色がなくなる。

 そういった脳のコントロールは、ゾーンに入った状態と言えるだろう。

 ここまでならば直史は、特に問題なく入っていける。

 これがさらに集中の極みに入れば、投げるべきボールのラインが、空中に見えてくるものだ。

 そこにタイミングを合わせて投げれば、確実に打ち取れるというもの。

 だがあの領域に入るのは、確実に脳細胞がオーバーヒートする。

 下手をしなくても、脳の機能を食いつぶしていくものなのだ。


 直史はそういう領域には、もう入ることがない。

 そもそもどうやったらああなるのか、既に忘れてしまっている。

 おそらくスタミナなども、かなり消耗しているのだろう。

 今の直史に求められているのは、もうパーフェクトなピッチングなどではない。

 だからデータを駆使して、失点だけを防ぐようにしている。

 それが上手くいった試合は、パーフェクトなどになってしまうだけだ。


 なお普通のピッチャーは、どれだけ上手く配球を考えても、その通りには投げられない。

 また状況によってその配球を変えるタイミングを、理解しているわけでもない。

 直史の場合はそれを、完全に駆け引きの中で考えている。

 それでも一点も取られないというのは、誰から見ても異常なのである。

 そんな異常が常態になってしまうと、本人も周囲もそれに慣れてしまう。

 打たれなくて当たり前、打てなくて当たり前。

 この意識を変えるだけで、もっと打たれるのではないか、と直史は考えるのだが。




 大介は直史の脅威を、正しく理解している。

 おそらく本人よりも、その姿を正確に認識しているのだ。

 だからこそすごいピッチャーであっても、それなりにヒットは打てたりする。

 かつてのような、本当の意味で視覚から消える、魔球などはもう使ってこない。

 ほとんどの人間が否定するだろうが、直史は復帰後間違いなく、全盛期からは衰えている。


 大介の理解している直史のピッチングは、つまり安全策を適量に取っている、ということなのだ。

 リスクを取る場面は、そのリスクを犯しても、いい場面に限られる。

 そしてそんなリスクを取る余裕が、ちゃんと残っているように、試合を運んでいく。

 まさにそれこそが、支配的なピッチングと言えるだろう。

(ここでは絶対に、ホームランにはしないピッチングをしてくる)

 リードしていない状況なのだから、それは間違いない。


 そういった方向で考えると、ヒットぐらいは打てる配球にしてくるか。

 ただ打球を飛ばしてしまうと、野手の間に上手く落ちて、ツーベースなどになることはありうる。

 そこまで考えるならば、ここはもう歩かせてくるか、あるいは全力で抑えてくるかのどちらかだ。

(三振を狙うなら、ストレートを決め球にしてくるか)

 もっともこうやって合理的に考えていくと、非合理なピッチングもしてくるのが直史だ。

 合理的に考えるということは、即ち相手にも読まれやすいということであるからだ。

 そうなると一番いいのは、反射で打ってしまうということ。

 駆け引きを下手にするよりは、そちらの方がいいのである。


 反射で打つ。

 無心で打つというのと、ほぼ同じ意味である。

 あれこれ考えるのではなく、自分の打てる球を打つ。

 ただこれをやってしまうと、大介の場合はホームランが打てない。

 直史がヒットにする程度のボール球を、ものすごい遅さで投げてくるか、外して投げてくるからだ。

 コントロールがさほど精密でない、パワーピッチャーが相手であれば、これで簡単に対応出来る。

 言ってはなんだが上杉との対決でさえも、パワーとパワーの対決であったので、大介としては分かりやすかったのだ。

 とはいえ楽な勝負であったか、というとまた別の話である。


 初球、ゾーンのコースなら打つ。

 大介が考えていたのは、これだけである。

 ボール球には反応せず、見逃してしまっていい。

 こういう時に厄介なのが、審判の誤審と、あとは落差のあるボールである。

 ドロップカーブをストライクに取るかどうか、かなり審判によって匙加減が違うのは、ストライクゾーンの欠陥であると思う。

 初球から投げられたら見送って、追い込まれていたらカットして行く。 

 それが大介の考えなのだが。




 初球から高めのストレートを投げてきた。

 しっかり外れた球で、打てなくもないボールであったが、大介は見逃した。

 今のボールもヒットにするには簡単で、あるいは外野の頭も抜くことが出来たかもしれない。

 ただちゃんとスピンの利いたボールであったため、おそらくスタンドにまでは届かなかった。

 高めのボール球は、基本的に大介には有効なのだ。

 もっとも他のバッター相手なら、ストライクになる高さであっても、大介の身長ならボール球になる。

 そのあたりコントロールに難のあるピッチャーは、ぶつくさと呟くこととなる。

 そして大介をチビと言ったピッチャーは、必ず報復ホームランを受けるのだ。


 直史としては大介が、打とうと思えば打てる球を投げている。

 ただホームランにだけは、ならないように気をつけている。

 二球目に投げたのは外角のスルーで、これもボール球であった。

 しかし大介は振ってきて、左方向に打球は切れていく。

 スタンドに入る飛距離はあったが、方向が全く合っていない。

 球威に押された、という感じであったろうか。


 直史としてはこの打席、大介は歩かせてもいいのだ。

 単打で抑えれば充分、というのが直史の対処である。

 だが最初から申告敬遠を使えば、甲子園の大観衆を完全に敵に回す。

 直史は特に何も感じないが、他のチームメイトは無理だろう。

 またライガースに対して、強力なバフがかかる可能性もある。


 昔懐かしのゲームには、確か応援というコマンドがあった。

 なんのゲームであったかも、記憶にない直史である。

 だが野球の応援というのは、本当に馬鹿にならない効果がある。

 特に大介はお祭り男なので、重要な場面であればあるほど、その脅威度は高まっていく。

(百目鬼には厳しいだろうな) 

 なんだかんだエースの風格が出てきているが、まだ若手の百目鬼である。

 この甲子園の空気で、普段よりも上の力が出るかもしれない。

 そして全力を出させた上で、さらにそれを打ち砕くのが、大介というバッターなのだ。


 ストライクカウントが増えたが、ここからどうすべきか。

 速球系が二つ続いたので、直史は無難にスローカーブを投げた。

 ストライクは取りにいかず、ベースの上の高いところを通るボール。

 もっともキャッチするのは低めなので、分かっていない審判であると、これをストライクにしてしまうところがある。

 本日はしっかりと、ボール球と判定されたが。


 直史の投げるボールは、緩急もつけてコースもあちこち。

 際どいボールもあれば、しっかりと落ちるボールもある。

 大介はバットの届く範囲であるが、ゾーンではないボールに対して、バットを振らなかった。

 スリーワンからのボール球にも、外のボールなので振らない。

 かくしてフォアボールで、直史はランナーを出したのであった。

 普段なら振っていくコースでも、直史相手であれば振らない。

 ここは大介が、安全な出塁という点で、直史に判定勝ちした場面であった。

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