第160話 機会の喪失

 野球には実際のところ、勝負所というものが存在する。

 九回のツーアウトからでも分からないなどと言うが、実際にそういう試合に出会えることは、まず滅多にない。

 大介の第三打席に絡めて、一点も取れなかったところで、この試合のターニングポイントは終わっていたのであろう。

 今日の直史は、大介以外のバッターにもヒットを打たれている。

 だが散発の単打であれば、失点につなげないのがレックスの守備である。


 運動量の多いショートの左右田に、経験の豊富なセカンドの緒方。

 またキャッチャーの迫水も打撃力に優れていて、下位打線には回らない。

 大量点はなかなか取れないが、無得点というのも少ないのがレックスだ。

 守備を重視はしているが、確実に点も取っていく。

 なので安定したピッチャーというのが、特に先発が必要となる。


 直史はそういったレックスの守備に、かなり特化したピッチングが出来る。

 去年と比べて今年は、明らかに三振の数は減っているのだ。 

 奪三振率は、去年が12.75で今年が9.95と、去年が先発としては高すぎた、とも言えるだろう。

 だが三振を奪わなくても、しっかりと勝利につなげている。

 今日も二桁にはいかないだろうが、確実に奪三振はあるのだ。


 七回の表にも、一人のランナーを出してしまった。

 だがこれは打順調整の意味もあったりする。

 一人ランナーを出して、大介を八回のツーアウトから迎えられるようにする。

 もっともそれは直史の、一方的な都合に過ぎない。

 もう一人ランナーが出てしまうか、あるいは大介の前にランナーが出れば、それは失点のピンチとなる。

 試合の終盤は、九番バッターのピッチャーに代打が出される。

 打撃特化の選手が、果たして直史の球を打てるのか。

 むしろ直史を打つためだけに、イメージトレーニングをしている選手もいるかもしれない。


 直史は基本的に、代打との対決は嫌いである。

 そもそも代打はスタメンで使われない、バッティングはやや劣る選手と言ってもいい。

 本当に打てるならば、守備がかなり悪くても、積極的に使われていくからだ。

 ならば下位打線はともかく、中軸ほどの打撃力はない、と考えるべきだろう。

 しかし直史は、相手のデータをかなり集めて、適応したピッチングをしていく。

 打席のデータが少なくなる代打は、あまり攻略が得意ではない。

 そんなことを言っておいて、実際に代打に打たれることなど、ほとんどなかったりもする。

 言行不一致であろう。




 七回の裏、まだ大原は投げる。

 先頭が直史の打席であるので、ここからリリーフに代えていっても良かったであろうに。

 直史はとにかくデッドボールだけは避けるため、バッターボックスの端に寄っておく。

 完全に打撃を放棄しているが、これに文句を言う人間はいない。

 ただ散々、ネットなどではネタになったりしているが。


 ピッチャーの最大の役目は、投げることであるのだ。

 もうプロは全てDHでいいではないか、などという議論は昔からされている。

 MLBも比較的最近であるが、どちらのリーグもDHの制度を使うようになってしまった。

 ただそういうことをすると、打撃もいけるピッチャーというのがいれば、どちらで使うのか迷うことになるだろう。


 上杉などはピッチャーとして使われたが、長打力は明らかに上位であった。

 プロ一年目が一番打撃成績はよく、三割を打って七本を叩き込んだ。

 これは野手と同じだけ試合に出ていれば、30本ぐらいは放り込んだ計算になる。

 直史の知る限りであれば、昇馬などはどちらもが超一流だ。

 もちろん甲子園でパーフェクトとノーヒットノーランをしているので、今はピッチャーとしての評価が高いのだろうが。


 直史も高校までは、打率がそこそこいいピッチャーではあった。

 しかし長打力に関しては、同じピッチャーでも岩崎や武史にはかなり劣った。

 基本的にフィジカルが、長打を打てるようにはなっていない。

 筋肉をつけると関節のしなりなどが、不充分なものになってしまう。

 直史はあの細さで、よく150km/hを出せるものだと言われた。

 それだけ力に無駄がなく、球速を出していたということである。


 あっさりと直史はアウトになり、そしてまた左右田の打席となる。

 もうリリーフ陣は準備を始めているだろうが、出来るだけ引き伸ばした方がいいに決まっている。

 少しでも他のピッチャーの負担を減らす。

 大原のようなベテランは、なんだかんだとかわしていくピッチングが出来るのだ。

 ここもさらに得点を狙う左右田を、上手くファールフライでアウトにすることが出来た。


 しかしベテランと言うならば、二番の緒方も負けてはいない。

 高校時代は対戦などなかったが、大阪光陰の中心選手として、全国制覇に貢献した。

 ピッチャーとしては一つ下の、蓮池の方がはるかに評価は高かった。

 だが控えピッチャーとして堅実なピッチングをしていたし、体格の割には長打も打てた。

 ここまで長生きした選手が、並の選手であるはずもない。

 童顔ではあるが、今年でもう39歳になるのだから。


 その緒方のヒットによって、ツーアウトながら中軸に回る。

 ここでリリーフを出されたとしても、おかしくはない場面である。

 しかしライガースはこの試合、大原に完全に任せている。

 球数も増えてきて、このイニングがさすがに最後ではあるだろう。

 大原はその期待に応えて、クリーンナップを抑える。

 七回を投げて三失点は、果たしてどう評価すべきであるのか。

 相対的に考えて、相手が直史であれば勝てるわけがない。

 負ける試合と分かっていて、モチベーションを落とさずに投げ切った。

 こういう仕事こそ、ベテランがやるべきものであるだろう。




 八回の表である。

 下位打線の八番からだが、ここでライガースは代打を出してくる。

 ここで代打は遅いと考えるべきかもしれないが、これはもう次の試合を見ているのかもしれない。

 代打にも直史のボールを経験させておく。

 もちろんシーズン中にも対戦したことがあるが、ポストシーズンならば印象が変わってくるだろう。


 三点差であるので、一人までならランナーを出してもいい。

 しかしここで一人のランナーを出して、次を打ち取れるという保証はない。

 なので直史は体には負担をかけないが、頭脳はフル回転させて相手を打ち取るピッチングを行う。

 上手くタイミングを外して、空振りさせることに成功した。


 次の大原の打席で、さすがにライガースは代打を送ってきた。

 これをランナーに出してしまって、次の大介がホームランを打っても、まだ一点差がある。

 しかし念入りに直史は、相手を封じることを考える。

 心が折れてくれれば、直史が投げる以外の試合も楽になる。

 そう考えれば手を抜くなど、考えられるはずもない。

 内野ゴロを打たせて、ツーアウトにすることに成功した。


 そしていよいよ、大介の第四打席が回ってきた。

 ここまでの直史は、かなり制限のあるピッチングを行ってきている。

 絶対にホームランだけはないようにと考えると、大胆なピッチングはなかなか出来ないものだ。

 それこそ初球に、半速球をど真ん中に投げるといった、リスクはなかなか冒せない。

 実際は平然と投げたりするのが、直史のピッチングであるのだが。


 ここからは自由に投げられる。

 いわば重りを外した状態であって、好き放題なバリエーションで戦うことが出来るのだ。

 絶対にホームランにならないように、という縛りをなくしてしまえば、むしろ打たせて取るのは簡単になる。

 直史が状況に応じて、何を重視しているか、それは変わってくるのだ。


 球数はやや多めに思えるが、実際にはスタミナの消耗を考えて、計算して投げてきた。

 ここから一回の表を投げるように、全力を出していくことが出来る。

 そういった直史は初球から、インハイのストレートを投げ込んだ。

 前の打席ではヒットを打たれたものと、ほぼ同じコースである。

 だが大介は見送った。少しだけ高いと分かっていたからだ。

 145km/hが出ているが、顔の近くなのでもう少し速くは感じた。


 ボールカウントから入るのが、珍しくなくなっている。

 それはもう、色々と考えていくのなら、使えるものは全て使うのだ。

 カーブを主体に使っていくが、逆にカーブを一度も使わないことも考える。

 マウンドの上に立っている直史は、極限まで自由である。

 そこから投げ込まれた二球目は、ど真ん中のストレートであった。


 明らかにスピードはあったが、スルーではないとも気づいていた。

 大介はスイングの始動に入っており、このままならジャストミート出来ると思った。

 しかし実際は、大きく空振りしてバッターボックスの中で回転する。

 思った以上にホップしたボールは、147km/hと表示されていた。




 大介の第四打席のために、体力を完全に温存しておいた。

 頭脳でピッチングをするはずの直史が、パワーで対抗してくる。

 それはちょっと意外であったが、そもそも直史のスピードだけなら、大介は充分に対応出来るのだ。

 本来ならばそうなのに、空振りしてしまった。

(ストレートが変わってるのか?)

 事態がよく分かっていない。


 確かにスピードは今日一のものであった。

 だがその程度の差であれば、充分に大介は対応出来るはずなのだ。

 つまり単純に、スピードだけの違いではない。

(ホップ成分がかなり高くなってる?)

 タイミング自体は、むしろジャストミート出来るものだと思ったのに。


 球速というのも、単に表示されるものとは、質が違うものであるのだ。

 速く感じるのに表示ではそれほどではない。

 あるいは逆に速いことは速いが、ついていけないことはない。

 今の直史の場合は、完全に前者であった。

(んん? だけどならどうして、今のを決め球に使ってこなかった?)

 空振りが取れるボールを、決め球に使ってこなかった。

 今の一球だけなら、確実に空振りしていたであろうに。


 直史のことであるから、またややこしいことを考えているのだろうな、と大介は考える。

 だがその考えている中身が分からないと、自分の狙い球も決まらない。

 ただ次に投げてくるのは、おそらく大きな変化球であろう。

(ほらきた)

 スローカーブであり、しかもその遅さがいつも以上であった。

 88km/hという球速であると、大介は見逃してしまう。

 ただこれはゾーンを通過し、ストライク判定された。


 打ったとしてもおそらく、スタンドには放り込めなかった。

 前のストレートに、体の反応が適応してしまったからだ。

 なるほど想定外のボールを投げられると、体がそれに対応するよう、少し変化してしまうものなのだ。

 分かってはいるがこれは、肉体の反射的なものなので、どうしようもない。

 次に緩急のどちらをかけてくるか、大介としても迷いが生じている。

 これはどちらを投げてきても、対応出来ないものになっているだろう。


 本来ならばスピードボールのタイミングで待って、遅い球ならそこから粘っていく。

 カットに徹してカウントを変えていけば、こちらも上手く対応出来るようになる。

 直史はしっかりとピッチングを組み立てるが、ボールカウントを元に戻すことは出来ない。

 フルカウントにしてしまえば、投げられるボールは制限される。

 それだけにあのストレートは、最後に取っておくべきものだったはずなのだが。


(分からん)

 お互いもう長い付き合いで、対決の機会も相当にあった。

 データを分析すれば、おおよその勝敗は分かるはずだ。

 しかし大介をデータ分析すれば、とんでもないバッターだとは結論が出る。

 それなのに直史をデータ分析しても、おおよそエラーと答えが出るのだ。

 正確に言うと、攻略の可能性にバグが出る。




 ピッチングの幅が広ければ広いほど、バッターは打つことが難しくなる。

 それとは別に球速によって、やはり攻略の難しくなることは確かだ。

 しかし100マイルオーバーのピッチャーであるのに、かなり粘られてしまうピッチャーというのもいる。

 逆にフォアボールは多いものの、奪三振も多いピッチャーというのも、確かにいるのだ。

 直史の場合は完全に、去年と今年で傾向が違う。

 奪三振率だけを考えても、まるで別人のようだと思えるだろう。


 球速を求めれば、故障の可能性は高くなる。

 変化球の種類についても、同じことが言える。

 フォークなどは抜いて投げるため、下手な投げ方だと肘を痛めると言われたものだ。

 なので現在はスプリットが主流になっているし、アメリカではフォークもスプリットも変わらない球種だ。

 正確にはわずかに、握り方が違うのだが。


 理屈は同じであるし、変化も下に落ちるというものだ。

 ただアメリカであると、シンカーとツーシームが一緒になってしまったりもする。

 高速シンカーとツーシームは、利き腕側に曲がるという点では、変化は同じである。

 だが握りだけで曲げるのと、抜くことによって曲がる変化をつけるのでは、理屈としては全く違う。

 そのあたりMLBの分類も、かなりいい加減なものと言えるのかもしれない。


 直史のカーブにしても、一番速いものだと130km/hは出る。

 だが90km/h以下のスローカーブまでの間に、何段階かの球速と、変化量の差があったりする。

 カーブとだけ待っていても、ジャストミートするのは難しい。

 大介であればカーブとさえ分かっていれば、確実にカットには出来るし、なんなら長打にまでしてしまえる。

 しかしそれを直史は、やはり分かっているのだ。


 スローカーブの後には、当然ながら速球を投げてくるとは予想される。

 しかし速球にしても、どういったものを投げてくるのか。

 直史の場合は、速球が主に三つある。

 フォーシームとムービング系とジャイロボールの三つである。

 普通のピッチャーは、せいぜいが二つまでであるが。


 MLBという舞台でさえ、投げる球が全てカッターで、その変化量を調整して生き残っているピッチャーはいた。

 高速のカットボールというのはそれだけで、充分に打ちにくいものなのである。

 大介の知り合いであると、アレクが高校時代は、ピッチャーとしてはスライダー系ばかりを投げていた。

 元々スライダーは、指先のわずかな感覚で投げるもので、変に曲げようとは思わない方がいい。

 下手をするとこれも、肘に負担がかかったりする。

 それでもスライダーは、比較的故障しにくいボールではあるのだ。




 ワンボールツーストライクで、カウントは圧倒的にピッチャー有利。

 だがここで一気に勝負に来るかどうか、大介としては判断しにくい。

 レギュラーシーズンであればあっさりと、ゾーンで勝負を挑んできたであろう。

 この状況は打たれても、試合の勝敗には影響しない。

 ただここまでの三打席、大介の打ったのはヒットとヒット性の打球ばかり。

 これが最大六連戦の勝負と考えれば、次の試合への影響も考えるべきだ。


 緩急の緩い方を、もう一つ投げてくるかもしれない。

 それこそゆっくりと大きく曲がる、遅いシンカーなども直史は持っているのだ。

 あるいは大きく変化する、カーブをボール球にしてくるだろうか。

 そういった予想はありすぎて、絞ることは実質的には不可能だ。

 狙い球を決め打ちするのは、ツーストライクになるまで。

 そこから後はもう、博打というには勝算の薄すぎる選択となる。


 第四球、直史が投げたのはストレート。

(いや)

 ここからスルーか、あるいはスルーチェンジか。

 どちらにしろ、わずかに低い。

 大介はそう判断したのだが、ミットに収まったボールに対して、審判はストライクのコール。

 見逃し三振で、第四打席は終了である。


「入った……いや、入れたのか?」

 呟きながら大介は、ベンチに戻る。

 ゾーンの中に入っているかどうかは、かなり微妙なコースであった。

 球速は147km/hと、確かにかなり出てはいた。

 だが大介の見極めが、間違っているとは思えない。


 ボール球でも平気で打っていく、大介のバッティングが仇になったのか。

 それとも迫水の、フレーミングの技術が上がっていたのか。

 単純に審判のクセだとしても、それは事前に計算してある。

 そのあたりを含めて考えても、わずかにボール球だとは思ったのだ。


 打てるボールだった。なにしろバットが届くコースだったのだから。

 低めではあるが真ん中に近く、際どいアウトローというものではない。

 それだからこそ審判は、打てるボールだと判断してしまったのか。

「う~ん」

 四打数二安打と、バッターとしては勝っているはずの数字。

 しかし試合の動向を見れば、3-0とレックスに圧倒されている。

 三点に抑えたのは、大原の充分な仕事であったかもしれないが。




 事実上、ここでファイナルシリーズの第一戦は終了した。

 八回の裏、レックスは一人ランナーを出したが、もう粘り強い攻撃はしてこない。

 ここからはもう消化試合と、割り切って攻撃を終わらせる。

 もちろん大味ではあるが、スイングはしっかりとしていくが。


 ライガースのリリーフも、おかげで点を取られずに済んだ。

 そしてついに、九回の表の攻撃である。

 ライガースとしては二番からと、まだまだ点が取れるはずの打順である。

 しかしながら神宮の観客は、直史がリリーフに交代しなかった時点で、既に勝利を確信していた。


 剛腕、技巧派、頭脳派などと、色々とピッチャーには呼び方がある。

 しかしながらチームの期待、全てを背負って投げるのがエースである。

 全てを背負って投げて、そして勝利することを義務付けられている。 

 そんな本物のエースというのは、一つのチームに一人、いるかどうかといったところか。

 以前のレックスは、それに相応しいピッチャーが二人もいて、それに近いピッチャーも二人と、まさに投手王国ではあった。


 二番からの打順を、直史は三振一つを含む、三者凡退で終わらせた。

 もはや芸術的とすら言える、蛇足のような試合展開であった。

 九回 31人 被安打4 117球 8奪三振

 球数はやや多かったが、打たれたヒットが全てシングルと、このあたりはまさに直史らしい。

 だが厳しいはずのライガース打線を、ヒット四本に抑えてしまったのだ。

 ランナーは三塁まで進んだが、結局は無失点に終わらせてしまった。


 直史としては勝利を確信できたのは、三点目が入ってからである。

 その後の球数の多さは、むしろゆっくりと投げたことによる。

 球数が多いからといって、それが即ち肩肘の消耗につながるわけではない。

 結局一番疲れるのは、全力のストレートであるのだから。

 その意味では今日は、全力のストレートは三球ほどしか投げていない。

 その他のストレートは全て、力をどの程度入れるかといったもの。

 大介に投げたほんのわずかな球を除いては、直史は全力では投げていなかったのだ。


(これで最終戦までには、確実に回復するな)

 直史が考えていたのは、そのことである。

 試合の中盤からはもう、次の試合を考えていた。

 そしてさらにその後の、日本シリーズのことまでも。

 いよいよシーズンは終わりにかかる。

 レックスが日本シリーズに進出するまで、あと二勝が必要となっている。

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