第205話 山の果て

 大介は高校時代、学校の成績は低空飛行を続けていた。

 だが本来の頭脳が、劣っていたはずもない。

 そうでなければそもそも、公立としてはかなり偏差値の高い白富東に、入学出来るはずもなかったからだ。

 つまりやれば出来る脳を、大介も持っていた。

 集中して成績を上げることが出来るのは、素晴らしいタイプの脳の持ち主であるからこそ。

 だがその脳の力を、入学後は全て野球に振って、先輩や同級生など、テストのたびに世話になっていたものだが。


 佐藤家はそもそも、頭のいい人間が多い。

 直史もトップクラスであったし、ツインズなどは一位と二位をずっと独占していた。

 武史も例年であれば余裕で合格、と言われていたぐらいのものであったのだ。

 実際に脳というのは、思考や記憶の部分と運動を司る部分では、働きが違う。

 しかし全体的なことを言えば、やはり脳の機能全体が高いことが望ましいのだ。


 別にデータ野球を理解しろとか、複雑な作戦をやってみろというわけではない。

 情報を処理する力というのは、脳によってなされるという話なのだ。

 瞬間的な判断に、脳は関係ないと言われたりもする。

 しかしボディバランスを保つのは、やはり脳の役目である。

 大介のように完全に、体を斜めにしながらもホームランが打てる。

 そんなバッターはやはり、脳の機能が一部、特化しているのであろう。


 明史の脳は、学校の勉強に関しては、非常に優秀な結果を残している。

 ただコミュニケーション能力にわずかな弊害があるのは、やはり幼少期にあまり運動が出来なかったからか。

 それならそれで違うジャンルで友人を作ればいい。

 そう直史は思っているのだが、明史としてはもう東京に、引っ越すことを前提にライフプランを考えている。

 満足に動けなかった状態から、今の健康な肉体へ。

 それ自体は喜ばしいことであるが、これまでに激しい運動を避けていたため、そういった機能を司る部分が未発達である。

 古い言い方をすれば、運動神経がない。


 本人としても、それは理解している。

 だからこそ逆に、勝負出来る分野で戦おうとしているのだ。

 情報分析などは、ソフトを使えばいくらでも数字が分かる。

 あとはその分析を、どこまで信じられるかだ。

 もっとも単純な分析では、逆に読まれて相手に打たれるが。

 直史などは最善の配球、などでは勝負をしないのだ。

 選択肢にはあるが二番目や三番目、あるいはどう考えてもないだろうというリードで勝負する。


 昇馬の場合は本人が、普通に投げても充分に完封は出来る。

 だからあとはどれぐらい、余力をもって勝てるかが重要なのだ。

 白富東は控えの戦力が薄すぎる。

 強豪のチームであると三年が引退して、ある程度はあっさりと戦力自体は埋まる。

 だが白富東は、部員全員がベンチに入れるような規模のチーム。

 新入生の戦力には期待しているが、それまでにまず春のセンバツがあるのだ。




 中学受験に関しては、模試を受けに塾に行っている明史である。

 ただ塾自体に関しては、別に通っているわけではない。

 本当は純粋な学力と、中学受験に合格するものとでは、ノウハウの違いが色々とある。

 なので塾に行っていない人間が合格するのは、相当に難しいのだ。

 別に塾に行くぐらい、金はあったのが佐藤家である。

 しかし何度かの模試を受けてみた結果、移動する時間がもったいない、と判断したのが明史である。


 明史は自分の将来について、ある程度ちゃんと考えている。

 そしてとりあえず、学歴はあってもいいなと思った。

 東大に行くのは既定路線とするべきであろうか。

 だが専門分野をどうするかによっては、外国の大学に行くことも考えるべきだ。

 幸いにも息子を海外留学させるほど、佐藤家の資産は潤沢である。

 もちろん一部の選ばれた才能を、無償で留学させる奨学金などもある。

 しかしそういったものは、さらなる天才が貧乏であった場合、使われるべきものだ。

 100億以上を稼いだ人間の息子は、そういったものは他者に譲るべきであろう。


 ただ中学から高校にかけては、既に派閥が存在する。

 まったくもって馬鹿馬鹿しいことだが、エリート意識は既にこの時点であるのだ。

 真のエリートというものは、しょせん貴族階級からしか出てこないものなのか。

 いわゆる上級国民と揶揄されるものだが、無視するのも難しいシステムである。


 明史の思考は、文系ではなく理系である。

 そして日本の政治や官僚のシステムについては、とてつもなく馬鹿馬鹿しいと考えている。

 もっともその馬鹿らしさというのは、日本だけに問題があるのではない。

 日本の資産を流出させて得をする人間が、日本の中枢に入り込んでいる。

 陰謀論というわけではなく、実際にそれが分かっていない人間が、国家の中枢にいる。


 父が政治家との関わりを持っているのは、とてもいいことだと明史は判断している。

 だがどこで間違えたのか、ということは相当に根深い問題がある。

 そしてそれは本来、文型脳で考えるべきものだ。

 多くの場合は論理的に考える明史には、推測は出来て納得は出来ても、共感までは出来ないものなのだ。


 生来の病気はあったが、環境と才能には恵まれていた。

 そんな状況で何が出来るのか、明史は色々と考えている。

 運動も出来ず、すぐに調子が悪くなる体で、死を身近に感じながら考え続けたのだ。

 その思考は基本的に暗い。

 健康に生きている人間は、今でも見るだけで憎たらしくなる。

 さすがに身内にまでそうは思わないのは、身内に甘い父親に似たのだろう。


 世界を変えてやりたいと思う。

 それが無理でも、この世界の仕組みを上手く利用してやろうとは思う。

 幸いと言ってもいいのだろうが、明史には環境と才能だけではなく、理解者までいてくれている。

 なのでやはり、一度はアメリカに自分の意思で、行ってみる必要があるだろう。

 大学進学自体は、アメリカではなくともいいかもしれないが。




 両親や年長組が神社に行っている間、明史は留守番組に入っていた。

 別にもう神社へのちょっとした石段を登れるぐらいには、体力もついている。

 理由としては受験勉強ということにしてある。

 今の時点で既に、よほど何か変なことが起こらない限り、第一志望には合格すると思っているが。


 赤ちゃんが泣き出した時などは、恵美理よりもむしろ明史の方が慣れていたりもする。

 弟の世話を、ある程度していたからだ。

(それにしても)

 16歳も年下の弟が出来て、司朗は複雑ではないのか。

 明史からすると、思春期に入るあたり。

 両親の仲がいいのはいいが、まだ子供を作っている行為をしている。

 複雑な気持ちになってもおかしくはない。


 親ではあるが、同時に男と女である。

 父と母に対して、明史はそんな目で見ている。

 そして親である前に、一人の人間だ。

 親は親であるが、期待しすぎないことに明史は決めている。

 特に父に対しては、とんでもない我がままを言った自覚があるのだ。

 いや、あれを我がままと言ってしまうのは、ちょっと恥知らずかもしれないが。


 両親があの二人でなかったら、明史はもう生きていなかったかもしれない。

 そう考えれば父のやっている事業などは、自分がしっかりと引き継ぐべきなのか。

 ただ虚弱とまでは言わないが、明史はあまり体力がない。

 そして今、父の実家には昇馬がいる。

 明史と違って大きく、力強く、山を歩いていく従兄。

 嫉妬に近い感情が浮かぶこともあるが、自分は自分でやれることをするしかない。


 幼少期から難病である子供は、早熟になる傾向があると言われる。

 明史の場合は、分かりやすい反抗期が来ていない。

 コンプレックスなどを持つほどではなく、他人に比べて優越した頭脳をしている。

 とりあえず一人で生きていくだけの力はほしいし、早めに親離れしておくべきだ。

 いざという時にはその方が、力になれることもあるだろう。


 そんな先を見すぎる考えで、中学受験から叔父の家への下宿も頼んだりした。

 元々ホームステイを受け入れたりすることが多い義叔母の家は、それも了承してくれた。

「アキちゃんは子供の面倒見るの上手いのね」

「弟の世話も、けっこうしてたから」

 同じ年頃に比べて、明史の身長などの体格は小さい。

 だが弟は逆に、かなり大きいのだ。


 このあたり明史は、自分は運が悪いな、と思わないでもない。

 心臓の病気については、一般的には成長と共に、穴が塞がることが多いはずであった。

 だからこそリスクを考え、幼少期の手術はしなかったのだ。

 しかしそのため、平均よりもずっと、体力などのない体になってしまった。

 そして成長に間に合わず、結局は手術も受けることになった。

 今ではそのおかげで、体力はないが普通に走れるようにもなった。


 姉は赤ん坊の頃に手術を受けたため、完全に体力もある健康体だ。 

 そのあたり自分とは、運の良さが違うと思う。

 リスクがあってもやらなければ、確実に死ぬと言われていた真琴。

 そして明史の手術は、真琴に比べればかなり軽めのものであった。

 なにしろ一年以上を経過しても、問題のないぐらいであったため。




 赤ん坊にしっかりミルクも飲ませ、げっぷまで終了させる。

 そして寝かせつけてから、明史は戻った。

 新年になってしばらく、神社に行っていた一族が戻ってくる。

 明史に渡されたのは、幾つかの勉学成就のお守りであった。

 このあたり明史は、父親に似ていて無神論ではあるが、宗教の影響を無視することはない。

 礼を言って素直に受け取る。


 年少組にはともかう、年長組にはここで、もうお年玉が渡される。

「昔はこの集落でも、近所の子供が家を巡って、少しずつお年玉をもらっていたんだけどな」

 直史の小さい頃でも、そういった風習であったらしい。

 最近はさすがに、そこまで家の関係が親密ではなくなっているが。


 年も改まって、就寝する一同。

 広い和室に多くの布団を並べて、男女で分けるぐらいにしておく。

 もっとも年少組は、そんなことは関係なく一まとめにしている。

「そういや帝都一って練習はいつから始まるの?」

「四日から」

 昇馬と司朗はこのように、野球の話になってくる。

「もう少しこっちにいたら? 父さんと伯父さんにこっそり見てもらった方が、ずっと練習になるだろうし」

「本当は駄目なんだけどな」

「野球が上手くなること以上に、重要なことなんてないだろ」

 このあたり法律を平気で破り、しかし自己責任と考えるあたり、やはり昇馬はアメリカナイズされているのだ。


 司朗としても昇馬の言っていることは、確かに分かるのだ。

 そもそもプロアマ規定自体が、馬鹿らしいものだと思えなくもない。

 サッカーなどはトッププロが、ユースに教えることもある。

 そして実際にセンバツで戦うには、まだ自分の力をつける必要がある。

「監督に頼んでみるかな」

 司朗はその実力が別格であるため、むしろ選ばれた俊英の中でも、さらに浮いているところがある。

 独自のメニューをすることは、珍しいことではない。


 昇馬としても春のセンバツ、注意しているのはまず帝都一。

 そして神奈川の桜印である。

 上田学院なども、相当の強さを持ってはいた。

 だが根本的な選手層の厚さを見れば、帝都一と桜印が、二強になっているのが分かる。

 しかしこの冬の間に、根本的なフィジカルを、一段階高めてくるのが強豪だ。

 昇馬のストレートにして、単純に球速だけならば、対策を立ててきておかしくはない。


 まず倒したいのは、関東大会で負けた桜印。

 もちろんあれは、昇馬の負傷という、アクシデントがあったからではあるが。

 センバツの出場が正式に決まるのは、一月の中旬である。

 だがこの三つのチームが、まさか外れるとはとても思えない。

「しょーちゃんもやっぱプロに行くつもりなのか?」

「どうかな。監督も父さんも、俺にはあんまり向いてないって言ってるし」

 鬼塚も相当に異質な高校球児で、キャラクターの強いプロであった。

 しかし昇馬ほどの隔絶した異常さは持っていない。


 日本のプロ野球の実態を、ある程度は教えてもらっている。

 入団してしばらくの間は、寮で共同生活となる。

 またキャンプにしても、合同自主トレなどがある。

 集団行動をあまり好まないというか、自分なりの単独行動の好きな昇馬には、あまり合わない環境であろう。

 ただMLBのひどい日程に比べれば、まだ余裕がありそうではあるが。


 NPBもMLBも、平均で30歳までには選手が引退する。

 そこからの寿命を考えれば、50年は他の事が出来るのだ。

 昇馬の場合はまず野球で稼いで、それからやりたいことをやればいいのではないか。

「俺はやっぱり、野球で当ててみたいかな」

 司朗の場合は実家が裕福なので、別に野球で大金持ちなどを目指さなくてもいい。

 ただ純粋に野球が楽しいから、どこまでのことが出来るかは試してみたい。

「とりあえず明日、山に行ってみない?」

 昇馬の普段やっていることには、司朗も興味があるのだ。




 冬場の山は、寒い以外は入りやすい。

 不要な下生えが、枯れているからだ。

 もっとも冬場でも、枝などはしっかりと残っている。

 手が入っている山であれば、小道がしっかりと残っているのだが。


 ちゃんと舗装された道が、途中まではあった。

 もっとも修繕はここ最近、もうされていないようであったが。

 それもそうで、この先にあるのは放棄された集落だ。

 かつては炭焼きや、それに伴った鍛冶などによって、成立していた集落。

 建築されて残された家は、全てが昭和の初期までに建てられたものだ。


 直史が子供の頃は、まだしっかりと管理されていた。

 しかし今ではもう、さすがに放置されている。

 そこまでの道を歩くだけでも、それなりの訓練にはなる。

 山歩きというのは、足首や膝に負担がかかるが、同時に鍛えることにもなるし、柔軟性も身につくのだ。


 このあたりも遠く遡れば、佐藤家の親戚ではあった。

 さすがに今では、どこに行ったのかなども分からなくなっている。

 直史の祖母でさえ、もう分からないのであるから、親戚づきあいも身近にいなければ、没交渉となって仕方がない。

 昇馬と司朗に加え、直史と武史、そして大介が同行していた。


 一応は一度、アスファルトで舗装されたこともある。

 だが途中からはもう、完全な山道になっているのだ。

 オフロードのバイクなどや車であれば、ここまで来れないこともない。

 田舎にはだから、軽トラがあるわけである。


 人の足であっても、一時間もあればたどり着く。

 これを昔の人間は、荷車を自分で持って、炭や金属製品を持ってきたというわけだ。

「このあたりに鉱山とかもあったのか?」

「いや、それはないな。だから一度鉄の塊を持っていったのかな?」

「それなら運ぶ手間を考えれば、麓で作った方がいいだろうに」

「そう言えばそうだな。何か理由はあったんだろうけど」

 直史と大介は、そんな感じで話をしながら歩く。


 日本人の魂の原風景に近いのだろう。

 だがもう人もおらず、朽ちていくのみ。

 それはそれで時代の流れだから、仕方のないことなのだ。

 ここまでの山は、さすがに人の手が入っていない。

 しかし獣道にもなっていて、ある程度は車が通れるだけの幅は、残っている。




 10軒ぐらいの家が残っていたが、もちろん誰もいなかった。

 一応は朽ち果ててはいないが、それも時間の問題だろう。

 以前には大介も、ここにやってきたものだ。

 近くから水も湧いているので、今でもどうにか生活は出来なくもない。

 もっとも畑などを作るのは、大変であろうが。


 おそらくは集落の一部には、畑などもあったのだろう。

 だが今ではその痕跡も残っていない。

 おそらく根菜類と山の恵み、あとは獣肉などが食料となっていたのか。

 炭などを麓に持っていって、帰りは米などを運んでいたのか。


 確かにこれは大変な作業だ。

 もしも道が悪い時があれば、米俵を背負って山を登っていたのか。

 ちょっとスポーツマンですら想像しづらいものだが、実際に米俵を背負って、小柄な日本人が移動する写真は残っている。

 思うに日本人の、人種的な特徴だったのか。

 長時間労働に向いているのが、農耕民族の肉体ではある。

 これがヨーロッパであると、蛮族よりは小柄ながら、重い荷物を背負って長距離を移動した、ローマ人などが似ているのだろう。

 日本人とローマ人の間には、他にも色々と共通点があるらしいが。

 キリスト教発生以前の話である。


 ここに人が住んでいた痕跡としては、むしろ木々にそれが見られる。

 柿や栗といった、食べられる実を付ける樹木が、まだ生き残っているのだ。

 祖母とまで言わずとも父の代には、ここまで柿や栗を取りにきて、栗ご飯や干し柿を作ったらしい。

 なお梅の木もしっかりと残っている。

 これからは梅酒や梅干を作っていたのだ。


「やっぱり将来は、俺がここを守ろうかな」

 昇馬はそんなことを言っているが、確かに今、直史の実家で昇馬は、祖母から色々なことを聞いている。

 梅干や味噌作りというのは、普通に今でも行っているのだ。

 直史の実家だけではなく、集落の他の家でもやっているところはある。

 梅干の酸っぱい匂いというのは、季節の風物詩であった。


 味噌にしても自前で造っていたのだ。

 もっとも麹などはさすがに他から仕入れていたため、完全に自家製とまでは言えない。

 大豆に塩に麹。

 実は味噌というのは、これだけで作れるものなのである。

 直史も中学生の頃までは、普通に手伝っていた。

 今でも上手くタイミングが合えば、週末に戻って手伝ったりする。

 野球に復帰してからは、さすがにそれも無理になっているが。


 祖母の時代であると昔は、冷蔵庫がなかったものだ。

 野菜がそもそも、ずっと保存できるものではなかった。

 スーパーにもずっと、そんな取れ立てが売っていたわけではない。

 だから酢に大根を漬けたものを、大量に作っておかずとしていた。

 米と味噌と大根、たまに猟で得た獣肉で、どうにかしていた時代。

 その時代はまだ、日本人は栄養不足であったのだ。

「肉はあんまり食えなかったんだなあ」

 そもそも日本では江戸時代が終わってしばらくしても、鳥以外の肉はあまり食べる風習がなかった。

 やはり昔は良かった、などとは言えないことを、こうやって学んでいるのである。

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