第280話 プレッシャーとの付き合い方

 直史は40歳のシーズンを除けば、パーフェクトを達成することにプレッシャーを感じたことはない。

 そしてその時も、プレッシャーを力に変えていった。

 大介を相手に投げた時、球速はそれまでと同じであって、スピン量は最高を記録したりもした。

 プレッシャーを与えるのは、自分の心理である。

 ならばプレッシャーというのは、必要なものなのであろう。

 そう考えて直史は、プレッシャーと付き合っている。


 この試合、レックスはかなりリラックスして挑めている。

 連勝も止まってしまったし、普通にやって普通に勝てばいいのである。

 全ての試合を全力で挑んでいれば、体だけでなく精神もとてももたない。

 週に六試合もやるスポーツというのは、そういうものなのである。


 初回からチームが二点も取ってくれたので、直史のピッチングの自由度は高まっている。

 一点取られてもいいが、その代わりにもっと今までにないピッチングを試していくことが出来る。

 そう思ってスライダーなど、普段はあまり使わない球種を決め球にしてみた。

 空振りを取るなら、ストレートかカーブ。

 あるいはチェンジアップであったところに、大きなスライダーが来たりする。

 左バッターに対しては、スライダーでカウントを稼いだ後、シンカーを投げたりする。

 この遅い球を、ミスショットするのだ。


 シンカーにも高速シンカーと普通のシンカーの二つがある。

 普通なら投げ分けるだけでも、充分に器用と言われるのだ。

 しかし直史はそれを、しっかりとコースの際どいところに投げてしまう。

 遅いシンカーであると、比較的審判がストライクのコールをしやすい。

 これは心理的な問題であって、それ以外の何かではない。


 物理的にはゾーンを通らなければ、ストライクにはならない。

 しかし現実では、ゾーンを通っていてもストライクにならないボールはある。

 ものすごい山なりに投げたボールは、バウンドするならボールと判定される。

 こんな球を打て、とは審判も思わないのだ。

 だからこのコースに投げるとしたら、それは振らせるためのもの。

 直史のスローカーブがストライクとなるのは、それが早いカウントであるか、バッターが振ってしまうからである。

 もし最後のストライクにこれを投げ、バッターが振らなかったとしたら、それはボールになる可能性が高い。


 シンカーはカーブほどには落ちない。

 それでも左打者から見た、アウトローの際を狙ってはいる。

 感覚としてはスライダーの逆に逃げていく。

 ただスライダーほどには変化しない。

 もっともスライダーも、変化量に差をつけていけばいいのであるが。


 普段は使わないと言っても、使えないわけではない。

 試合ごとにバージョンチェンジをして、色々と確認していくのだ。

 先日の神戸との試合は、実験が上手く行き過ぎたとも言える。

 おかげで目立ちすぎて、下手に使えなくなった。

 しかしあんな使い方があるのだと思われれば、その意識をまた逆手に取ることも出来る。

(今日は内野ゴロが多くなるか)

 内野の間を抜けていく、単打が少しは出るかもしれない。

 だが基本的には長打が出ないピッチングとなる。




 思ったとおり、長打が出ない試合になった。

 ただランナー自体は、三回にゴロをファンブルしたことにより、エラーで一人出てしまった。

 上手くダブルプレイで消すことも出来ない。

 ここでダブルプレイでランナーが消せるのは、運が良すぎるというものだ。

 ヒットではなくエラーであったわけで、いまだにノーヒットノーランは続いているのだから。


 特に目指しているわけではない。

 球数は出来るだけ少なくしようと思っているが、正確には負荷がかからないピッチングにしたい。

 なので変化球主体で、しかも抜く感じのボールが増えていく。

 コースよりもむしろ、緩急を上手くつけることが、今日のピッチングの醍醐味となるだろう。

 そう考えて投げているわけだが、思ったよりも上手くいっている。

 ただこれは途中で捉えられるな、というのもなんとなく分かってくるのだ。


 バッター二巡目の四回に行く前に、レックスは三点目を取った。

 極悪非道のピッチングをしてからこっち、レックス打線はなんだかよく打つようになったと思える。

 一点しか取らなかったことが、責められていたりもする。

 ただそれはあくまでも偶然で、あの日は新しいピッチングを試すつもりであったのだ。

 それがたまたま、あんなことになっただけ。

 味方が点を取ってくれないところから、直史のピッチングは始まっている。

 一点は取ってくれたのだから、それで充分であるのだ。


 もっともそんなことを言えば、中学生の部活野球と比べられて、選手はショックを受けるだろう。

 そんな雑魚とは違って、プロに入るような人間は、ほとんどが野球エリート。

 いまではシニアのさらに前から、習い事として野球をしていることが多い。

 もちろん部活軟式から、高校野球で覚醒する選手もいるが。


 直史の中学時代の話は、あまり知られていない。 

 一次資料が伝聞でしか残っていないからだ。

 高校入学後は、しっかりとスコアが残っている。

 それを見れば直史が、どれだけ無茶なことをしたのか、よく分かるであろう。

 一年の夏に135km/hを投げられれば、それは充分に強豪でも通用する。

 超強豪となると、もう一段階上の球速はほしいだろうが。

 しかし直史は140km/hが出ない身でありながら、ワールドカップを優勝に導いたのだ。


 とにかく直史は、勝ち方を知っているピッチャーである。

 基本的にやるべきことは、基本を裏切ることである。

 ファーストストライクでど真ん中にでもボールが来れば、人は必ず力んでしまう。

 試合開始直後のバッターで、しかも一回の表であったりすると、意外なほどにミスショットをしてくれる。

 統計でそれが分かっていたら、たまにその統計を信じてみるのだ。

 もっともそれで打ち取れるかは、バッターの性格にもよる。




 二巡目の上位打線から、待望のヒットがレフト前に出た。

 これで埼玉ジャガースは、最低限の仕事をした、と言えるであろう。

 気が抜けてしまったが、試合はまだ終わっていない。

 それに三点差なのだから、まだまだ諦めてはいけない。

 ただプレッシャーの中で戦い続けて、ようやくそのプレッシャーが終わった時には、既に気力が尽きていた。

 まだ試合は半分も残っている。

 だが過去の記録の全てが、この試合の敗北を告げているのだ。


 なんと残酷な出来事であろうか。

 そうは言っても選手本人は、これからヒットを狙っていけばいい。

 勘違いしているが、プロ野球選手は個人事業主だ。

 だから問題なのはチームの成績ではなく、自分の成績である。

 ゴロからの単打でもいいし、奇跡的なフォアボールでもいい。

 出塁率を少しでも上げることは、スタメン定着につながるのだ。


 ジャガースは元々、チームの空気が全体的に悪い、という問題もあった。

 過去には黄金時代も築いたが、それは編成や現場に人がいたからの話。

 選手ではなく経営や運営に問題がある、とは昔から言われている。

 逆指名時代などは、相当に危ない橋を渡ったチームの一つ。

 だがあの時代、一番無茶をしたのは資金力があり、また在京人気球団であったタイタンズであろう。


 戦力均衡のためと言われながら、希望が通らないという矛盾。

 まあそれはプロ野球株式会社で、希望の通りの部署に行けないのと、同じようなものなのだが。

 球団の待遇格差なども、昔はひどかったものである。

 今ではさすがに改善されているが、今度は違った格差が生まれている。

 逆指名という選手のためのものであった制度は、むしろ金満球団がより肥えるための制度になった。

 

 その中で特に金持ちでもないレックスを選んだ、直史の理由。

 それは近いから、というものであった。

 マリンズの方がさらに近かったが、大介との対戦を多くし、さらに勝とうと思うのであれば、樋口の力が必要だと思ったからだ。

 復帰もレックスを選んだのは、守備力の高いチームであり、また体力の消耗を少しでも防ぐためのもの。

 もっとも大介の相手をしなくてもいいだけ、パのチームの方が良かったかもしれないが、在京セ・リーグのチームは移動の時間が少ないのだ。


 10年目のシーズンである。

 普通ならば脂の乗ったところであろうが、直史はプロ入りが遅く、またブランクもあったため、40代になっている。

 しかし残している実績は、40代のものではない。

 現役を続けていく限り、沢村賞の最高齢達成記録を更新していくだろう。

 なにしろパワーでは投げていないのだ。

 もっとも体力の裏づけがあってこそ、集中力は維持できるものである。

 それが出来ないほどの体力の衰えを感じたら、それが引退の時である。




 レックス打線は珍しくも、比較的爆発した内容で点を取る。

 どうせならもっと緊迫した試合で、しっかりと点を取ってほしいものだが。

 世の中というのはそういうもので、なかなか上手くいかないものなのだ。

 追加点がポンポンと入り、直史はもうノーヒットノーランもなくなっている。

 それでもマダックスは行けそうであるのだが、ここでは他のピッチャーに経験を積ませることを考えた。

 8-0で七回まででこの試合は終了。

 そして一気に、観客も席を立っていったのであった。


 まだ試合は終わっていない。

 だがジャガースの緊張の糸は、完全に切れてしまっていた。

 ここから自分の成績だけに集中しても、おそらく散発の単打しかでない。

 直史は先にシャワーを浴びてしまい、マッサージなどを受けている。

 直史の筋肉は、10代の若者のように柔らかい。

 さすがに肌などは、年齢相応のものになっているが。


 肩や肘を気にしている分、他の箇所に負担がかかっている。

 もっともインナーマッスルを使っていて、それが上手く分散されているが。

 踏み込みの足には、普通に負担がかかっている。

 腰は気をつけているので、さほどのダメージにはならない。

 だが背中を揉んだら分かるのだが、体の深い部分の筋肉に、張りが見られる。

 これが鍛えてどうにかなるものなのか、それが微妙なところであろう。


 解剖学的に、生来の時点で間引いてしまう、欧米のバレエの世界。

 太りやすい体質だとか、股関節の開き方が足りないとかで、それだけでもう次のステップに進むのが閉ざされる。

 このバレエの世界からすると、体の中心の体軸を、とにかく意識しなければいけないらしい。

 スポーツはフィジカルエリートが、持ったままの身体能力で無双するため、そこがしっかりと鍛えられていない場合がある。

 体全体を使って、ボールにパワーを伝える。

 それが不充分なピッチャーが、どれだけこの世にいることか。


 もっとも正しい投げ方から投げられるボールは、タイミングは取りやすい。

 正しい投げ方には、正しいタイミングが存在するからだ。

 あえてタイミングを外すことは、投球術の一つである。

 つまりパワーをかけないボールを投げることも、重要なピッチングのバリエーションとなる。

 簡単に言えばチェンジアップだ。




 ベンチ裏に引っ込んでいる間に、普通に試合は終わっていた。

 当然ながらヒーローインタビューに従い、また出て行かなくてはいけない。

 大量点を取っているのだから、バッターから選んでもいいじゃないか、とも思う。

 だが七回までの圧倒的なピッチングが、ジャガースの選手たちの心を折ったのは間違いない。


 71球しか投げていないのに、降板してしまった。

 完全なマダックスペースであったのに、ベンチはそれより若手にマウンド経験を積ませることを重視した。

 それももっともな話で、直史が降板してからも、レックスは一点を追加している。

 しかしジャガースが反撃することは出来なかった。

 ブルペンの方でも豊田は、さすがにこの点差であるならば、二人の出番は回ってこないと思っていたのだろう。

 そしてそれは正しかった。


 若手が1イニングずつ投げて、それでも点が取られなかった。

 こういう時に奮起して、追いつけなくても何点か取れるなら、ジャガースにもいい流れが来るであろうに。

 流れを把握して、上手くそれを変える機会を作らなければいけない。

 それが出来なければいつまでも、今のままが続いていくのだ。

 人事で誰か責任者が変わっても、結局は変わらない。

 その場合は劇薬でもって、一気にチームを一度崩壊させる必要があるだろう。

 もちろん次のビジョンを持ちえての話だ。


 直史としては弱いチームを、強くするのは得意ではない。

 ただプロのチームであれば、最強と最弱であっても、ある程度の戦力均衡がなされている。

 それでもMLBレベルの最弱チームだと、どうにもならなかったであろう。

 ワールドシリーズで大介と戦えるよういに、資本力の高いチームを選んだのは間違いない。


 そういえば今はどうなっているのかな、と思っても調べたりしないぐらい、直史はもうあちらの世界に興味がない。

 重要なのは自分に関係のある部分だけである。

 大介などはいまだに、アメリカ企業のスポンサーがついているが、直史はもう遠い昔の話だ。

 基本的に自分が宣伝媒体となって、地元の振興を考えている。

 郷土愛に溢れた男である。


 そんな直史に負けたジャガースは、次の試合も引きずってしまった。

 投げていたのが三島であったので、負けても仕方がなかったのだろうが。

 これが第一戦に直史が投げていたとしたら、どういったことになっていたであろうか。

 これから当たる予定の千葉は、震えて眠ることになるのかもしれない。




 六月に入って10勝3敗。

 そして次はいよいよ福岡戦である。

 直史の投げるローテではないが、首脳陣としては途中で調整してでも、ここで当たるようにすべきであったかもしれないと思っている。

 もっともあんな突然変異のようなピッチングを、またするとは思っていなかったのだ。

 いったいいつになったら、分かりやすく衰えてくれるのか。

 もちろんレックスの首脳陣としては、いつまでもエースでいてくれたら嬉しい。


 単純な年俸だけでは、直史の貢献度に対する金額が払えなくなる。

 なので間接的に、色々な仕事を持っていくのだ。

 一日を拘束する代わりに、数千万になるような仕事。

 だが直史としては、レックスの親会社が食品会社であるだけに、千葉産の農作物や畜産物との、コラボをお願いしたかったりする。

 食は国家の生命線である。

 あとはそれをちゃんと、人の集まる場所に持っていくインフラ整備。


 もっともそれより大事なのは、治安の問題である。

 千葉県の農家は今、害獣被害に見舞われている。

 昇馬が暇があれば撲殺して食事にしているが、一人ではとても追いつかない。

 猟師の数が減っているこの時代に、ハンティング感覚でもいいから、害獣を撲滅するべきだ。

 もっとも猟銃などよりも、設置型の罠を使う方が、ずっと効率はいいのだが。


 プロの世界を引退しても、直史にはすぐにやることがある。

 郷土のために働くということを、自然と持っている人間。

 こういった利他的な人間が、たとえ見栄を張るためであってもいてこそ、その国は豊かになるのだ。

 自分の利益のために、他者を害する人間は、社会悪である。

 これをなんだかんだと言い訳をつけて止めない社会こそ、状態的には末期と言える。


 福岡戦、直史は登板機会はないが、練習にはしっかり参加している。

 また比較的交通の便がいいため、ホームゲームならブルペンにいたりもする。

 交流戦で調子がいいのは、レックスとライガース。

 それに続いてカップスといったところで、パのチームはどこも負け越している。

 福岡はその中で、比較的五分に近い。

 だがこのレックスとの対戦で、果たしてどういうことになるだろうか。


 福岡は地理的に、東京からは遠い。

 千葉からの距離であっても、遠いことは変わらない。

 だが実は飛行機を使うなら、直史の住んでいる場所からは、時間的には近い。

 もっともこれまで、ほとんど海外に行く時しか、飛行機を使わなかった直史である。

 あとはキャンプぐらいか。


 休養日が一日あったので、リリーフ陣もしっかり休めた。

 もっとも六月に入ってから、勝ちパターンのリリーフ陣は、あまり出番がないのだが。

 これから暑くなっていく時期に、上手く休めるのならいい。

 投げるイニングは少なくても、毎日何球も全力投球をする。

 それは絶対に負荷が大きくかかってくるのだ。


 夏場は肩が軽い、という人間は多い。

 確かに最初から、肩が暖まりやすい状態であるのは間違いない。

 だからこそ極端に、無理をしてしまう場合も多い。

 しっかりと休んで、肩が軽くてもウォーミングアップ。

 それをすることによって、ようやく本当に全力を出せる状態になる。

 なおどんな季節であっても、直史が本当の意味で全力で投げることは、もうないと言ってもいいだろう。

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