第283話 お出迎え
ホームゲームの日は、先に練習を終わらせておく。
細かいメカニックのチェックも、しっかりとしておく。
直史の真骨頂はコントロール。
メンタルのコントロールに思考のコントロール、読みのコントロール。
それらの後に、肉体のコントロールがやってくる。
ベンチメンバーに知らない名前がないか。
直近の試合を、映像で確認する。
幸いにもテレビ画面は主に、右ピッチャーからの視点に近い映像で映る。
それを見ながら直史は、予習をしておくのだ。
先にデータを見て予測していくことを考えると、この時点で一つの答え合わせにもなっている。
そして全問正解など、この時点ではありえない。
実際の試合の中で、正解を作り出さなければいけない。
そう、ピッチングに正解はなく、結果が出ればそれが正解だったことになるのだ。
卵が先か鶏が先か、という問題に近い。
正解はいくつもあるし、不正解もいくつもある。
しかし逆に、質問を投げかけることが出来るのは、ピッチャーだけである。
もちろんバッターも、ピッチャーに対して渡す情報がある。
こんなスタンスをしているぞ、と誘いをかけたりするわけだ。
それでも根本的に、投げるボールを選ぶのはピッチャー。
このあたりの駆け引きは、上手くしないとただ疲れるだけ。
バッターはピッチャーにその都度しかければいいだけだが、ピッチャーは全てのバッターとこれをする。
とはいえこんなことをしているバッターは、そうそういないものだ。
ピッチングもバッティングも、相手がいてこそ成立するものなのである。
今日はストレートの伸びがいいから、ストレートを中心に使っていきたい。
そうピッチャーが思っても、相手にスピードボールに滅法強いバッターがいれば、そんな無茶なことは出来ない。
自分の心をどう納得させるか。
ピッチャーにとってはそれが、重要な仕事であるのは間違いない。
バッターを置かないピッチング練習は、その効率がひどく悪い。
そもそもブルペンでいくらいい球を投げていても、試合のマウンドでちゃんと投げられるとは限らない。
直史は出来るだけ、バッターボックスに誰かバットを持ってもらって、それを視界に入れながらピッチングする。
またバッティングピッチャーも、積極的にしたりする。
上手く打たせることが出来るなら、逆に打たせて取ることも出来る。
そういう思考を直史はしているのだ。
年齢を重ねるにつけて、野球というのが複雑になっていく。
簡単に勝っているように見せるためには、たくさん考えないといけない。
だがこの複雑さは、面白く奥深いものである。
選択肢をどんどん増やすために、出来るだけ球威も維持しなければいけない。
野球のピッチングなどを単純にしすぎるのは、確かに強さの一つであろう。
だが思考もなくサインの通りに投げるのは、ピッチャーの人格を放棄しているのではないか。
直史はMLB時代も、ベンチのサインを無視することがあった。
そして100%間違いなく、ちゃんと結果を出して来た。
全ての打席で、バッターを打ち取ったわけではない。
しかし視野そのものが、一般的な野球選手とは違うものだったのだ。
一発勝負のトーナメントとは違う。
それを正確に理解したのは、最初の春のリーグ戦の時点である。
自分一人が頑張っても、勝つことが大変に難しい。
戦力を上手く使うことが、リーグ戦の優勝につながる。
全く自分が一人で、どれだけの数字を残したというのか。
それでも二年目からは、武史が入ってきてくれたため、ほぼ確実に楽に勝てるようにはなった。
球速を上げることも必要であった。
その上限を上げれば上げるほど、逆に遅いボールが上手く使えるようになる。
バッターはタイミングで振るのだから、そこを狂わせればジャストミートはしない。
そういった当たり前のことを、今ならもっと早く確認できていた。
だが人生はやり直せない。
確かなのは失敗や、遠回りしても経験を蓄積できたこと。
それによって純粋に、これからの人生をいいものにしていく。
失敗というのは、別に悪いことではない。
本当の意味での失敗というのは、その失敗から何も学ばず、新たなる挑戦をしないことにある。
別に野球に限ったことではない。
生きていけば人間、大きな挫折には自然と向き合わなければいけないものだ。
大失敗しても、レールから外れてしまっても、生きていかなくてはいけない。
中にはそのまま無気力になり、死にたいと考える人間もいる。
それはそれで死ねばいいと、直史などは思わないでもない。
弁護士などをしていると、いくらでも死んだ方が良さそうな人間には巡り合う。
だが犯罪者でも内容によって、弁護しなければいけないのが弁護士。
法治国家では犯罪者でも、裁判を受ける権利がある。
意外なほどにアメリカでは、自衛権で法の裁きを受けるより、強盗が殺される事例が目立つ。
アメリカは再挑戦の出来る社会だ、とも言われる。
だが日本もまた、充分にそれが許されているのだ。
金持ちは意外なほど、何度か事業を潰していたりする。
しかしまた新たな事業で金持ちになるのだから、行動力や経験値など、何かが一般人とは違うのだ。
直史も事務や交渉、管理についてはともかく、経営の戦略などは他人に任せている。
人にはそれぞれ適した分野があるし、自分で全てをやっていられるはずもない。
野球に関しては、マウンドで全てを掌握することが出来る。
トランス状態にまで入っていれば、だれがどこでエラーをするとか、そういう未来予知的なことも可能になる。
投げずに既に勝利している。
それが究極の形であろう。
イメージがはっきりと出来るようになれば、未来の予測が出来てくる。
超能力とかではなく、演算能力の極まった末にあると言えよう。
千葉を相手にボロカスに抑えるべきか、直史は考える。
ここで抑えてしまえば、日本シリーズにおいても、こちらへの苦手意識が消えないだろう。
しかしあまりに心を折ってしまうと、福岡が独走体勢に入ってしまうかもしれない。
だがそれはさすがに、先のことを考えすぎであろう。
確かにレックスの場合は、ペナントレースでライガースと戦う方が、日本シリーズより消耗するだろう。
クライマックスシリーズを勝ち上がり、さらに日本シリーズでも戦う。
一昨年のライガースが勝てなかったのは、レックス相手に消耗しすぎていたからだ。
国吉の怪我は、故障から順調に回復しているという。
ここでレックスがやっておくのは、彼が帰ってくるまでに、下手にライガースに負けたりしないこと。
国吉が離脱して一ヶ月は、少し勝率が落ちたレックス。
それでも五割を余裕でキープはしていたのだが。
ペナントレースを制することによって、アドバンテージを得ること。
レックスもライガースも、これがとても重要なことになっている。
直史の無理も、年々利かなくなってきている。
年齢的な耐久力と回復力の衰えは、どうしようもないものだ。
思考によって相手の心理を読むのは、さすがに経験の蓄積がものをいう。
ただ今のMLBなどは、ピッチングもバッティングも、単純化されて久しい。
そういう場所であるからこそ、違う環境で育った選手が、上手く通用したりもするのだろう。
野球は技術を競うものである。
フィジカルゴリ押しというのは、直史の考える野球ではない。
福岡を日本シリーズの相手として想定するのは、間違ってはいない。
そもそも選手層が、圧倒的に厚いのだ。
莫大な資本をバックに、日本一ではなく世界一のチームを作り上げる。
そんなことを言っているし、実際に近年は毎年、優勝候補に上げられていた。
それでも日本一になるのが難しいのは、野球というスポーツの難しさであるからだろう。
どのチームが勝ちあがってきたとしても、直史は日本シリーズでは叩き潰す。
日程にわずかに余裕があるため、三試合に投げることも充分に可能だからだ。
クライマックスシリーズで、三勝する方が大変だ。
もちろん自分のピッチャーとしての、日程間隔から感じることだが。
ライガースの打線はポストシーズンに入ると、明らかに得点力を増してくる。
舞台が甲子園であると、なおさらそれははっきりとする。
ペナントレースを制して、神宮でクライマックスシリーズを戦うと、それだけでも充分に相手の打線は弱体化する。
そのためにはペナントレースを、九月の半ばあたりまでには、優勝を決めておきたい。
相手があることとはいえ、統計が多くなる試合数のスポーツだ。
上手くチャンスを拾っていけば、間違いなく結果にはつながっていく。
本日の試合も、気合を入れてやっていこう。
いや、平常心でやることが、一番コントロールには重要なのだが。
ピッチングというのは、試合時間の二時間以上を、ある程度の緊張状態、ずっとキープしておくことである。
体力が必要と言うよりは、集中力を維持するスタミナが重要なのだ。
他の方法でそれが可能であるなら、実は純粋な体力は必要ない。
土曜日開催のため、デーゲームとなっている本日の試合。
神宮で昼間に野球をするというのは、どうしても大学時代を思い出す。
投げた試合の半分以上が、ノーヒットノーランやパーフェクトなど、記録に残る試合となっている。
八度のリーグ戦のうち、七度を優勝している。
一度だけ采配ミスにより、優勝出来なかったリーグ戦があったものだ。
大学時代の方がよほど、直史は結果だけにこだわっていた。
色々と便宜を図ってもらっている以上、チームを勝たせるのが自分の仕事、というわけである。
樋口と組んでなお、試合に負けることがある。
自分の降板した後であると、もうどうにも出来ないのだ。
これが高校時代なら、外野あたりに入っておいて、念のためにマウンドに戻る体制にしておくのだが。
空気が変わっていく。
今も変わらず大学のリーグ戦は行われているが、直史はあの四年間に、特に思いいれはない。
神宮で試合を行うことにも、何も感傷はなかった。
やはり甲子園の特別感というのは、他に比べても圧倒的であるのだろう。
そもそも地元の期待が違った。
甲子園で優勝することにより、地元では顔が知られることになったのだ。
いまだにあの時の遺産で、人との広がりがつながっていく。
もっともメジャーにまで行った人間で、しかもサイ・ヤング賞やMVPを取りまくったりしていると、普通に知名度は上がってしまうものだ。
社会的な成功のためには、名声が必要となる。
知名度がある人間というのは、それだけで充分に価値があるのだ。
昔は炎上商売などというのもあったが、最近はカウンターでそれを消してしまう。
正しく有名にならないと、ネットタトゥーなどが残ってしまうものだ。
時期的に完全な青空、というわけにはいかない。
ただ雨が降る可能性が低いというのは、直史にとってはありがたい。
そろそろ夏の気配が、はっきりと感じられる季節。
直史は夏に、郷愁を感じる男である。
そして直史は郷愁的になるというのは、メンタルが安定している状態であることを示す。
あえて集中しようとしなくても、メンタルがフラットな状態。
つまり存分に投げられるということだ。
神宮の内部は、もう勝手知ったるところである。
今年でプロ10年目、NPBでは五年目。
いつまでやれるのか、あまり執着のない直史だ。
大介などは力が衰えても、独立リーグでやっていくだけの執着があるだろうが。
怪物たちの時代が終わろうとしている。
それは予感ではなく、ごく普通に理解出来るものだ。
人間が死ぬように、偉大なアスリートも衰える。
野球はまだしも、技術の要素が強いスポーツである。
サッカーなどに比べれば、ずっと長くやっている人間が多いのも、あくまで技術を見せるため。
プロの技術を本日も、ピッチングで見てもらうとしよう。
生贄の羊、という表現が的確であろうか。
千葉は少し、スタメンをいじっている。
調子の悪そうな選手は、スタメンではなくベンチスタート。
去年の日本シリーズで対戦し、直史のピッチングを間近で見たマリンズは、その影響を軽視していない。
本当ならベンチメンバーで、今日の試合を戦いたかったぐらいだ。
それぐらい一人のピッチャーが、恐れられているのだ。
このマリンズとの三連戦に、雨天順延となった神戸との試合で、今年の交流戦も終わる。
レックスとライガースが、ほぼ同じぐらいの勝率を残している。
マリンズとしてはともかく、シーズン後半のためにも、ここで変なダメージを負いたくはない。
勝利を考えるのではなく、シーズンの中の一試合として考えるのだ。
敗北がどんな形であっても、一つの敗北には違いはないのだ。
一回の表、マリンズの攻撃。
マウンドの上に立つピッチャーは、今年いまだに点を取られていない。
主軸のバッターも一人、今日は下げているマリンズである。
最初から勝つ気がないのかな、と邪推されても仕方がない。
なにしろ事実であるのだから。
重要なのはどう負けるか。
後に響くダメージを受けては、困ったものとなる。
なんとかパーフェクトは防いで、出来れば途中で交代してほしいぐらいだ。
だがリリーフ陣の登板間隔を考えると、基本的に今日はフルイニングの完投は目指してくるだろう。
早打ちは厳禁である。
どうにか球数を増やして、普通の試合になるようにしてほしい。
そのため出塁率が、打率に比べて高いバッターを、スタメンに持ってきたのだ。
ただそのあたりの事情を、直史は全て看破していた。
今までにもあったことなのだから、今さらまたあってもおかしくない。
そしてそういう時には、どういったピッチングをしていくか。
負担のかからない変化球で、ストライクを積極的に取っていく。
追い込むことに成功したら、あっさりとストレートで空振り三振を奪うのだ。
最初はチップこそあったが、三振でスタート。
次には内野ゴロを上手く打たせた。
打てそうな球速であると、思わず手が出てしまうのだ。
打てるボールは打っていくのが、バッターというものの習性。
それを利用してストライクカウントを、ファールで上手く増やしていく。
あるいはフライを打たせれば、それでだいたいはアウトが取れる。
一人あたり三球ずつという具合で、三者凡退に成功した。
直史としては普段と変わらない、想定通りのピッチングである。
そして相手にとっては、そんなピッチングをされたら洒落にならないのだ。
なんとか次の回こそ、ランナーを出したいと考える。
しかしそちらに頭がいっている間に、レックスは先取点を取ることに成功していた。
一点でも取ってもらえれば、今年の直史は負けない。
冗談に聞こえるが、本当の話である。
それでも引き分けが一つあったあたり、野球に絶対はないのだろう。
とりあえず長打二つで一点と、直史はかなり楽な状況を作ってもらえた。
延長の心配をしなくていいのだ。
そして二回の表、マリンズはより注意して打席に入ってくる。
だが先頭の四番をあっさりと見逃し三振で片付けると、その後の二人もファールフライなどで三者凡退。
ここもまた球数が、二桁には届かなかった。
(悪くはない)
直史はそう評価する立ち上がりである。
つまり相手にとっては、悪夢のような立ち上がりと言える。
去年のマリンズは日本シリーズ、直史を相手にして1-0で二度も負けている。
一度は延長にまで持ち込んだのに、結局はパーフェクトをされているのだ。
しかしあそこからよく、最終戦まで立て直したな、と我がことながら思う選手たち。
今年の直史の内容は、去年よりもさらによくなっている。
球速が回復してきた、ということが一つ。
またここまで、一点も奪われていないという事実。
フォアボールどころか、ボールカウントが三つになることさえほとんどない。
そんなピッチャーが同じリーグにいないだけ、幸運だと思った方がいいのか。
今日は東京のファンだけではなく、千葉からの観客も多い。
そして千葉からの観客には、直史のファンもいたりする。
あの時代は、高校野球大好きおじさんだった中高年。
それが今はおじいちゃんとなって、この試合を見に来ている。
プロなど高校野球に比べれば、さほどの興味もなかったはずである。
しかしそれを例外にしてしまう存在が、しっかりといるのだ。
かつて大学野球のほうが、プロよりも人気があった時代があった。
その時のプロ野球は、大学野球の人気選手を獲得し、そのプロ野球人気を高めた。
直史や大介は、高校野球のスターであり、また確実に余力を残したまま、メジャーからNPBに戻ってきた。
こんな選手であるのだから、見たいと思っても当たり前のことなのだ。
三回の表も、直史のピッチングは揺れることがない。
しかしここでは、珍しく連続で三振を取ってきた。
一つは落ちる球を空振りして、必死で振り逃げを目指す。
だがここで変な運命が動くことはなく、問題なくスリーアウトとなった。
まずは打者一巡、問題のないパーフェクト展開。
そしてレックスの攻撃では、重要な追加点が入っていたのだった。
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