第429話 投手戦の楽しみ

 千葉との第二戦、直史はおおよそどちらが勝つか分かっていた。

 どのチームも先発ローテの六枚を、勝てるピッチャーで揃えることは難しい。

 だが千葉は比較的、それに成功しているチームなのだ。

 オーガスでも難しいであろうに、経験の浅い阿川というのは、勝率が低くなることは確かなのだ。

 それでも負けは確定していない。

 木津で溝口に勝っているように、プロの世界の差というのは、本当にわずかなものなのだ。

 ……そのはずなのである。


 阿川はここで、とりあえず及第点のピッチングであった。

 六回を三失点で、敗戦投手にこそなったものの、それは打線の援護が少なかったため。

 今年のレックスなら六回までに、三点は取れる試合が多いのだ。

 オーガスの再調整が難航しているだけに、次の機会も与えられるだろう。

 もっとも雨などが降ってしまえば、普通に飛ばされるのが六枚目のローテというもの。

 機会が与えられるかは、本当に運も関係してくるのだ。


 そしていよいよ第三戦。

 直史の先発登板がやってくる。

 当然ながらこの日は満員御礼。

 レックスだけではなく千葉のファンも、相当に苦労してチケットを手に入れた人間が多い。

 ピッチャーというのは雨などがあれば、スライド登板することもある。

 そのため早くから狙っていても、外してしまう危険はあるのだ。


 直史は実際に今年、一度スライド登板は経験している。

 それで三連戦の、三番手ピッチャーになっているのだ。

 チームとしてはやはり、一番手に戻したい。

 しかし無理に中五日などにするのは、直史の体力に問題がある。

 このあたりはさすがに、年齢を考慮したものとなっている。


 その気になれば直史は、中五日でも投げられるのだ。

 ただそれをしてしまうと、クオリティが保てるか分からない。

 若い頃はなんだかんだ言いながら、メジャーの日程も耐えてしまった。

 今でも出来るのかもしれないが、少しでも負荷が大きくなると、故障の可能性も高くなる。

 それにロートルにそこまでさせるチームが、果たして日本一になれるのか、という話にもなるだろう。


 本気を出すのはポストシーズン。

 俺はまだ本気を出していないだけ、の直史であるのだ。




 本日の千葉の先発は古川である。

 現在の千葉は先発が充実していると言われるが、その中でも溝口と並んで特に数字がいいのが、この古川である。

 年齢も溝口の一歳下と、これまたポスティングを希望するかもしれない。

 毎年エースが出て行っては、さすがに千葉が可哀想とも思うが、どうしようもないことである。

 実際にメジャーに行ってみて、通用しなかったりすることもあるのだ。

 それに球団としてはポスティングで移籍するのなら、それなりの見返りもある。

 もっともNPBがメジャーのピッチャー育成場となれば、それは本格的にまずいものだろうが。


 直史は溝口より、どちらかというとこの古川の方を、評価していたりする。

 速球系で変化球をまとめて、あとはチェンジアップのみ。

 ムービング系でミスショットを誘いつつも、160km/h近いストレートで、空振りも取れる。

 福岡と違って千葉は、ポスティングには寛容だ。

 もっとも資本力が違う、という問題はあるのだろうが。


 千葉の中で一番、直史に近いピッチングをするのは、斉藤であろう。

 とにかく変化球の球種が多く、それでいてサウスポー。

 球速は150km/hを少しオーバーするぐらいだが、この変化球のコントロールが素晴らしい。

 パワーだけで抑えようとするなら、大介には打たれてしまう。

 また司朗も平気で打ってくるだろう。


 直史は今日の試合のスコアを、頭の中で考えたりする。

 もちろん実際に投げてみないと、結果に至る過程は分からない。

 古川の速球系に、どれだけレックス打線が対応できるか。

 その前にまずは、直史が千葉の打線を抑えなければいけない。

 九回の裏を消してしまって、さっさと試合を終わらせよう。

 ホームゲームである時、直史はだいたいこんな、不遜なことを考えている。


 千葉の打線はリーグの中で、ほどほどといったところ。

 今日はレックスのホームであるので、DHも使ってこない。

 甘く見るわけではないが、比較的楽に投げられる。

 そんな直史は投球練習でも、相変わらずの球速で投げている。

 半速球の、打ち頃のストレートである。

 もちろん実際には打てないのだが。


 敵も味方もお客さんも、そろそろ出るかなと思っている。

 今年はこれまでパーフェクトをしていないのだ。

 シーズンも三割以上が過ぎたのだから、そろそろ一度ぐらいは出てもいいはずだ。

 一人のピッチャーにかけられる期待ではないが、それでも一番パーフェクトに近い。

 ミスターパーフェクトなどと呼ばれるピッチャーは、これまでにもいた。

 しかし真の意味でパーフェクトと呼べるのは、本当に直史ぐらいであろう。


 先頭打者からあっさりと打ち取っていく。

 千葉も確かに攻撃力は平均的なのだが、それならば逆にチャンスを作り出す手段を、バッティング以外にも考えている。

 そういった手段を使ってみても、ランナーが出てこないのだ。

 三振は一つもなく、三者凡退。

 機動力がそれなりにある千葉だが、内野安打さえも出ない。

 大介が引退すれば、セ・リーグのベストナインのショートはこいつになるだろう。

 左右田は初回から二つのゴロを捌き、ショートとしての実績を残す。

 そして守備で流れを作ってから、裏の先頭打者として立つのであった。




 投手戦になっている。

 ある程度は予想していたが、予想以上の投手戦である。

「シンカーが厄介だな」

 MLBを知っている小此木でも、そう言いたくなるツーシームである。

 変化球の中で一番、球速が出るボール。

 昔はシュートなどとも言っていたし、今でも日本ではシュートと言う。

 アメリカでは基本的にシンカーだが、理屈としてはツーシームというストレートの一種である。


 握り方によって変化するだけなのだ、球速がストレートと変わらないどころか、ストレートより速いシンカーを投げるピッチャーもいる。

 近年ではこのツーシームの使い方により、フォーシームよりもホップ成分を高くする、ということも可能になっている。

 フォームによってツーシームの見え方が、バッターにとって違ったりもする。

 近年の新しい魔球の一つとも言われるが、古川の投げるシンカーはそういうものであるらしい。


 直史が引退した頃のMLBでは、まだ一般的ではなかった。

 だが基本的に全てのピッチャーは、ストレートにシュート成分が入っている。

 右でも左でも、プレートの真ん中を使っている限り、ボールには必ず角度がついてしまう。

 利き腕の側に少しだけ曲がらなければ、ストレートのコースにはならない。

 そういうことはトラックマンだのラプソードだの、測定器の発達で明らかになったことだ。


 古川は元は、そこまでツーシームを多用していなかったはずだ。

 だがプロの選手であればこそ、より成長していかなければいけない。

 年間143試合もあり、先発のローテも25回ほどはある。

 それだけの情報があれば、現在はいくらでもデータを繰り返し確認も出来る。

 統計的にどうすれば、攻略出来るかが分かってくるのだ。


 直史はあえて、統計の最適解を外す。

 将棋で言うならばあえて、AIの最善手を使わないようなものだ。

 それよりも局面を荒らす手を考える。

 するとバッターは対応するボールをどうするか、考えなくてはいけなくなる。

 下手に考えてしまうと、対応力が届かなくなってしまう。

 脳の反射のリソースが、足りなくなってしまうわけだ。


 ただこのピッチングが出来るのは、直史の手が多いからだ。

 球種、コース、スピード、こういったものを組み合わせていく。

 しかし一般的なピッチャーは、そこまでの選択肢を持っていない。

 だからバッターも、そこまで予測する必要はなくなる。

 直史と対抗するならば、ほとんどの球種のパターンは、捨ててかかる必要がある。

 あとは考えずに打っていくべきか。


 多くのピッチャーは選択肢を持っていても、使うものは限られている。

 それは結局のところ、自信がないからである。

 自信を持つために必要なのは、成功体験の多さ。

 そういった蓄積は、ベテランであるほど多くなる。

 他に必要なのは、こんなリードでもいいのかという場面で、そのボールを投げる勇気。

 あるいはそんなリードをしてくる、キャッチャーを信じる勇気である。


 直史は性格の悪い、つまり信頼出来るキャッチャーに高校時代以降は恵まれた。

 そして復帰以降は、性格の悪いキャッチャーを育てている。

 定番のリードに加えて、まさかと思うようなリード。

 それは相手によって効果が変わるし、状況によっても効果が変わる。

 選択することが、何よりも大事であるのだ。

 そしてバッテリーは上手く噛み合いすぎても、失敗の結果を出す場合がある。




 今日は程よい感じだな、と直史は思う。

 分かっていても打てない球に、分からない打てない球を、上手く組み合わせている。

 重要なのはコストにかかったリターンである。

 リスクにかかったリターンとは少し違う。


 直史がコストと考えるのは、球数と球種である。

 体力をどれだけ削られたかと、肩肘への負担だ。

 ピッチングには他にも、各所に負荷がかかっている。

 だがそういった部分は、肩肘に比べれば比較的軽度である。

 もちろんピッチャーによっては、そう甘くないことでもあるが。


 3イニングが終わって、球数は29球。

 ランナーが一人も出ていない、パーフェクトピッチングである。

 序盤でランナーが一人も出ないというのは、それほど珍しいことではない。

 直史が半分冗談で、球団の人間に言われることは、打たれるにしても出来るだけ終盤であること。

 直史の記録が達成されないとなると、点差がついてしまっている試合は、お客さんが早めに帰ってしまうことがあるのだ。

 せっかくの勝ち試合なのにもったいないと思うが、現代ではタイムパフォーマンスこそが大事。

 パーフェクトであればこそ、最後まで見ていく価値があるのだろうが。


 出来るだけ終盤までいれば、それだけ球場内のものが売れる。

 季節的にそろそろ、ビールも売れやすい時期なのだ。

 野球は攻撃と守備の間に、短いが時間がある。

 また下位打線の見所がないと思えば、その間に買い物も出来る。

 特に食事に関しては、馬鹿にならない金になるのだ。

 チームが勝てばグッズも売れる、というのが経営陣の話である。


 半分冗談であるということは、半分は本気であるということだ。

 もっとも本当にパーフェクト直前ともなれば、客席を離れることも難しくなるが。

 直史としては出来るものなら、ヒットを打たれたくないというか、点を取られたくない。

 だがパーフェクトを狙ってやるのは、精神に負担がかかる。

 球数もそれだけ多くなってしまうのだ。


 一試合に気合を入れすぎたら、その次の試合に影響が出かねない。

 レギュラーシーズンは安定して、確実に勝つ必要があるのだ。

 一番重要なのは、ローテを守ることである。

 故障でもすれば今のレックスは、先発に持って来れるピッチャーがあまりいない。

 それに直史がいなくなれば、リリーフを休ませることも、難しくなってくるのだ。


 ローテを安定して投げて、しかも6イニングを確実に消化し、出来れば完投してしまう。

 これが直史の考える、コスパの一番いいピッチングである。

 ただ予定通りなら、直史は次に福岡との対戦で投げる。

 そこでは少しだけ、コストを多めにかけるであろう。

 福岡は今のところ、パのペナントレースの首位を走っている。

 選手層の厚さからいっても、日本シリーズに出てくる可能性は高い。

 そんなチームであれば、早めに恐怖を植えつけておく意味がある。

 だから他の試合よりも、少しだけコストをかけてもいいな、という考えになるのだ。




 千葉もピッチャーがいいだけに、福岡を逆転する可能性がある。

 特に溝口などは、日本最終年であるなら、優勝してアメリカに行きたい、と考えてもおかしくない。

 日本一はともかく、リーグ優勝ぐらいは望んでも普通であろう。

 だがチーム力を考えれば、直史がここで精神的なダメージを与えておく必要はあまりない。

 与えてもいいが、福岡との対戦を考え、少しでもスタミナを温存していくのだ。


 スタミナには肉体的なものと、精神的なものの二つが存在する。

 直史は肉体的には、そもそも消耗しないことによって、温存していく。

 球数や肩肘への負担がそれである。

 そしてもう一つの、精神的なスタミナ。

 こちらも直史は、神経を使う場面を除外することで、消耗を防ぐ。

 つまりはピンチを体験しないことによって、精神的な消耗を防ぐ。

 ランナーは出さなければ出さないほど、楽に勝てるものなのだ。

 だから直史は、一応はパーフェクトを狙っていく。


 パーフェクトを達成出来た時、直史が運が良かったというのは、別に謙遜ではないのだ。

 実際に全てを三振でアウトにしたならともかく、内野を抜くような打球や、外野に飛んでいく打球は普通にある。

 それを守備がアウトにしてくれるというのは、まさに運であるのだ。

 ただ他のピッチャーや、野球の統計を取っている人間からすると、直史はおかしなことをしている。

 フォアボールをまず出さないどころか、ボール球の数さえ少ない。

 これはいったいどういう理屈であるのか。


 単純な話で、球威だけで勝負が出来ないのだから、球威以外の部分を磨いたのだ。

 コントロールと変化球が、まずはその磨く部分であった。

 やがては配球も考えたし、あとは神経戦や心理戦も考えた。

 打たれたら困るという時や、あるいは打てなかったらどうしようという場面。

 バッターの心理を考えて、選択するボールはあるのだ。


 アウトローや低めは、振らせないための球。

 キャッチャーがフレーミングをしてくれれば、ストライクになるかもしれない。

 逆に高めの球であれば、それは振らせるためのボール球。

 高めと思って打てると思ったら、想定よりもさらに高い軌道であり、空振りをしてしまうというものだ。

 この高めのストレートは、昭和の時代ではホームランボールと思われていた。

 今でも確かに、これを打てば長打にはなりやすいが、この高めのストレートが投げられなければ通用しないのが、かなり長いトレンドになっている。


 直史が高めに投げる時は、スピンがしっかりかかっていることと、ボール球になっていることを重視する。

 もちろんよりスピンを強烈にかければ、ど真ん中に見えたボールが高めいっぱいであったりするが。

 この試合でも、高めのボールは投げている。

 そして空振りを取ったりするが、それよりはフライの方が多い。

 21世紀になってもまだ、ゴロを打つべきという指導者はいた。

 実際に高校野球レベルであれば、それが正解の場合もあるのだ。

 フライはキャッチするという工程だけでアウトが取れる。

 しかしゴロはキャッチした後、送球をしなければいけないし、送球されたボールをキャッチするという作業もある。

 ここで工程が多いため、エラーの確率は高くなるのだ。


 ただ高校野球でも強豪は、基本的に長打を狙っていく。

 スモールベースボールなど、出来ることを前提として、長打を狙っていくのだ。

 もちろん打順によって、その役割が変わってくるから、長打力の重要性も変わる。

 しかしゴロやフライの価値は、今ではフライの方がマシ、と考えられるようになっている。

 OPSなどは明らかに、フライボールを打つべきとデータを示すからだ。

 大介はフライを打つと言うよりは、ジャストミートを考えているが。

 打球の速度が速ければ、それだけキャッチしにくいのも確かである。

 特に内野の選手が大介のボールをキャッチした場合、その衝撃で骨が折れたり手首を捻挫したということが、今までに何度もあった。




 古川もこの試合、一巡目を抑えている。

 だが二巡目からは、それなりのピンチを迎えた。

 それでも一点に抑えて、責任投球回の六回を終える。

 しかしその時点で、彼には負けがついてしまっていた。

 千葉の打線は直史の前に、パーフェクトに封じられていたからである。


 千葉は二年前に、レックスと日本シリーズで対戦した。

 そして直史はそこで、パーフェクトを達成したし、ヒット一本にも抑えている。

 このピッチャーは打てない、という呪縛が千葉の選手には存在する。

 そういった固定観念があるほど、直史としては打ち取るのが楽になるのだが。


 パーフェクトに抑えることが出来なくても、ヒット一本やヒット二本だと、完封されてしまうだろう。

 プロの世界でそんなことが可能なピッチャーが、果たしてどれだけいるのか。

 来年はメジャーにいるつもりの溝口も、途中交代で一点を取られていた。

 それなのに直史は、今年はまだ九試合で二点しか取られていない。

 当たり前のように、完封もしてくる。

 ピッチャーとしての何かが、根本的に違っているのだ。

 それが何なのか、分析しきることは出来るだろうか。


 球種やコントロール、そしてリード。

 色々なことを理由にすることは出来るだろう。

 だが根本的に直史は、球威以外の全てが圧倒的なのだ。

 そして圧倒的ではないはずの球威でさえ、それを補う方法を使っている。


 スローカーブは90km/h。

 だが限界まで抑えれば、70km/hで投げてくる。

 この遅い球との球速差に、ほとんどのバッターは対応出来ない。

 慣れれば打てるというものではなく、対戦すれば対戦するほど、打てないことを思い知らされる。

 あるいは脅威度を体験していない、パの選手の方が、むしろ打てるかもしれないのだ。


 6イニングを終えても、まだ直史の球数は、60球を超えたばかりであった。

 つまり90球から100球の、完投ペースである。

 さらに加えて、まだ一人のランナーも出していない。

 これで千葉には焦りが見えてくるだろうし、試合の視聴率も上がっていく。

 ファンがプロに求めるのは、アマチュアでは不可能な圧倒的なパフォーマンス。

 直史はそれを、160km/hオーバーのストレートでもなく、奪三振の山でもなく、最後まで気の抜けない芸術的舞台で達成しようとする。


 古川の次、七回にレックスは、一点を追加した。

 直史が投げていると、援護が少ないという、凍結空間が久しぶりに展開されていた。

 直史としてはもっと気楽に、自分の成績を上げるために打てばいいのに、と思うのだ。

 実際にレックスの守備陣ほど、パーフェクト慣れした選手たちはいないであろう。

(あと2イニングか)

 野球専門チャンネルの、アクセス数が上がっていく。

 誰もが期待しているものが、果たしてどうなるのか。

 それは相手がいるものだけに、直史としても分からないのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る