第207話 破壊と再生
筋肉の組織は負荷によって破壊され、そして再生する段階でより強くなる。
だが強すぎる負荷は、再生に時間がかかってしまう。
食事と休養とトレーニング。
この三つに加えて、練習がある。
練習はトレーニングではないのかと言うと、少なくとも直史の中では違う。
練習とは想像したボールを想像した通りに投げること。
トレーニングはそれが可能になるための肉体作りである。
本気で投げていれば、やがて肉体は老いて朽ちていく。
下手に怪我を無視して行うと、日常生活にまで支障をきたすことになる。
直史の場合はここで、頑健な体を無理に作ろうとは思わなかった。
プロスポーツに限らずアスリートというのは、比較的平均寿命が短い傾向にある。
中距離の競走選手などだと、むしろ寿命は長くなるが。
相撲ほどではないが野球選手も、やや寿命は短い。
ただその理由が野球という競技だけにあるとは限らないだろう。
野球選手の場合、現役を引退してからも元のままの食生活を送り、そのための体重増から疾患に、というパターンが多い。
これは野球に限らず、スポーツ選手は多いのだろうが。
アメフトの選手などは、脳疾患や神経系の病気になることが極めて高いとも言われる。
しかしそれもポジションによるのだとか。
野球でもおそらく、先発ピッチャーは比較的、不健康な生活を送ることはない。
特にNPBで関東のセ・リーグチームであると、移動にかかる時間が少なくなる。
それだけ自分の体をケアする時間が作れるし、メンタルの方も余裕が出来る。
とはいっても在京球団が圧倒的に強いわけでもない。
MLB時代は飛行機での移動であったが、移動中は完全に休養に充てていた直史である。
テレビのニュースでは、プロ野球の寮開きが報道されていたりもした。
直史も最初の一年は、あえて寮に入っていたものである。
今年のレックスの新人は八人。
即戦力級の大卒ピッチャーを獲得したと言われている。
ただこの即戦力級というのが、どうにも怪しいのはどこでも同じ。
基本的に全力プレイをしなければいけないのは、プロの世界では当たり前のこと。
しかしアマチュア野球であると、年間に行う試合数は、圧倒的に少なくなる。
アマチュアの基準で全力を出していると、すぐに故障してしまったりする。
それに耐えられるぐらいの体を作るのに、高卒選手などは時間をかけるのだが。
鍛えていたから大丈夫、などというものではない。
遺伝的に体質的に、肉体の完成時期は変わってくるものなのだ。
早めに鍛えすぎてしまっていたために、むしろ故障につながることは、少年野球で普通にある。
それはプロに入ってからもあるもので、25歳ぐらいまでは肉体は完成しない、などという研究もあったりするのだ。
ただそれも個人差がある。
肉体の完成は遅いが、老化も遅いという人間がいる。
逆に遺伝的に、圧倒的に老化が早いという人間もいるのだ。
適度な負荷に、ある程度長期的な休養。
直史の場合はおそらく、それが上手くいっていた。
今の結果から見れば、というものであるが。
あるいは大卒からプロ入りし、そしてMLBでもトミージョンを受けていれば、さらにとんでもない記録を残したかもしれない。
しかし全ては結果論である。
野球から離れていた時期に、直史は充分に、セカンドキャリアの準備が出来たのだ。
40歳のシーズン、素晴らしい成績を残したが、ポストシーズンでチームは敗退した。
しかもそこで無理をしたため、オフシーズンでは満足なトレーニングが出来なかった。
復帰して三年目を前にして、ようやくしっかりとオフの過ごし方が出来る。
自分の今の限界を、ようやく理解出来たとでも言うべきか。
本来ならばどうやっても、落ちていくぐらいの年齢である。
しかしここで直史は、復活のためのメニューを組んでいる。
去年は大介相手に、どうしても勝負を避ける場面があった。
もちろん他の部分では負けなかったので、最終的には日本一になった。
だが自分の満足できる、完璧なピッチングであったとは言えない。
実際に各種数値は、前年よりずっと低下していたのだ。
150km/hが出てしまったのは、むしろ失敗であった。
あれで一気に故障する可能性もあったのだから。
脳内の分泌物質により、人間は限界を突破した力を出せる。
ただそれは非常用の力であり、常にそんな力を出していれば、肉体の方が壊れる。
安定して150km/hを投げられるようにならなければいけない。
もちろん単純に、球速だけがあっても仕方がない。
スピードのあるボールを、しっかりとコントロールする。
それが出来てようやく、意味のあるストレートになるのだ。
コントロールというのは、コースだけのことではない。
スピンに関する様々な条件も、コントロール出来なくてはいけない。
さらに言えばフォームも、もっと柔軟性を保持するべきだ。
本来なら固めるべきフォームが、直史はいくらでも調整出来る。
スリークォーターで投げるのが、直史の基本ではある。
しかし肘の位置を変えたり、手の角度を変えたりと、色々としてみるのだ。
サイドスローに近いところでも、しっかりとストライクが取れる。
たださすがにアンダースローからは、もう投げるのが難しくなっているか。
コストやリスクに対して、リターンがどのくらいになるのか、それを考えないといけない。
パーフェクトや完封などをして、それがどれだけ価値があるのか。
完封は確かにチーム全体によい影響を与える。
完封でなくとも完投でも、勝ちさえすればそれでいい。
完封などというのは直史からすれば、球数を抑えていこうと考えた末の、結果として出てくるものだ。
目的は球数の方である。
年齢的な問題、肉体の個人差、それらが集まるとトレーニングの内容や負荷も変わってくる。
ベテランになると調整の仕方も自分で分かるし、強度が変わってくる。
ただ新人であっても、大平のようなコントロールに問題がある選手は、合同自主トレに参加しておいた方がいい。
また木津についても、もう26歳のシーズンだが、コントロールの安定感が少しだけほしい。
あまりにゾーンに集まりすぎても、それはそれで狙われてしまうのだろうが。
マダックスは球速はそれほどではないピッチャーであったため、コントロールで勝負していたなどと思われやすい。
だが実際には真ん中付近に、動く球を投げて凡退を多くした、というのが実態であるらしい。
しかしいざという時には、アウトローぎりぎりの球を投げる。
こういった切り替えが、ピッチャーにとっては重要であった。
今の時代では、通用しないスタイルかもしれない。
ちょっとぐらい手元で動いても、パワーでフライを飛ばすという、雑なバッティングが主流であるからだ。
雑と言ってしまえば悪い意味だが、パワー重視であることは間違いない。
フィジカルを鍛えなければ話にならない、というのが主流の考えなのである。
もっとも直史などは、フィジカルでもおおよそ、野球選手のピッチャーの中では、低い数字が出てしまうのだが。
技術と作戦と配球で抑える。
チームがデータを収集し分析しているが、それでも最後にはベンチやキャッチャーではなく、自分で判断して投げるのだ。
一般的なピッチャーなら、指示通りに投げられれば、キャッチャーのリードやベンチの指示のせいに出来る。
それが出来ないということは、本来ならとんでもないプレッシャーになるのかもしれない。
だが直史は、そういうものがプレッシャーにならないタイプだ。
信頼出来る人間以外からサインを出される方が、よほどストレスがたまる。
その意味では坂本でさえ、そのリードは信頼していたのだ。
充分な点差があったり、ランナーがいなかったりすれば、少しずつ迫水にもリードを任せるようにしている。
ただ他のピッチャーに対するリードと、直史に対するリードとでは、全く性質が違うであろう。
バッターの情報も、ピッチャーの情報も、両方を入れていかなければいけない。
ある程度は事前のミーティングで知らされて、対応は考えてある。
しかし実際の対決では、バッテリーの直感というのが馬鹿にならない。
オカルトだと言う人間はいるだろうし、確かにそういう場合もあるだろう。
だが少なくとも直史は、自分の組み立てで打たれていない。
去年よりも少しだけ、パワーを上げる。
ただそれに頼りきりになっていれば、肉体のあちこちに無理がかかる。
あくまでも切り札として、スピードボールは持っておく。
ただ切り札を切るタイミングは、これまた難しいものであろう。
新しい球種までは、さすがに身につけることは出来ない。
それよりは既にある球種を、また元のように磨く方がいいのだ。
あとは考えられるのは、相手のコンピューターによるデータ分析。
もっともこれについては、自分のチームもしっかりと行っている。
直史のボールをどうやれば打てるのか。
味方だからこそ分析し、データの蓄積も膨大になる。
攻略法を考えることにより、さらにその裏を書くことになるのだ。
自分自身のトレーニングも重要だが、明史の受験もあった。
第一志望にあっさりと合格し、春からは恵美理の家で世話になることなる。
元から留学生などを受け入れていたため、そのあたりの問題はない。
むしろ次女の玲などは、明史のPCに関する知識を必要としていた。
引越しは直史がキャンプに向かい、そしてオープン戦で入ってくる頃となる。
ただそれ以前に、入学における説明があったりするのだ。
そちらには瑞希と共に、主な保護者となる恵美理にもついていってもらう。
親元を離れるというのは、中学生には不安になるものだろう。
もっともサッカーなどは、その年代から親元どころか、海外にまで移籍する人間もいたりするのだが。
とりあえず息子の進路が一段落ついて、直史はまたトレーニングに注力する。
時代が違い、また経済状況が違うというのもあるが、自分の息子が東京の私立中学に入るとは。
千葉の実家のあたりであると、むしろ私立は公立の滑り止め、という印象が強かった。
それだけ白富東は、公立として長い歴史と、高い偏差値を誇っていたわけである。
直史は子供たちの将来について、ちゃんと考えている。
そして思うのは、かかる金額の大きさだ。
私立の大学はまだしも、国公立の大学が入学金も学費も高くなっている。
正直なところそういった高偏差値の大学は、なんとしてでも学費を安く維持すべきではないのか。
日本の財政について、直史は色々と聞いている。
そして財務省と日銀がたまらなく馬鹿、ということも知っている。
そもそも法律が直史の専門であるが、その法律の専門家に財政をやらせている、という部分があるのだ。
戦後の日本の経済の歴史を、俯瞰して見てみるならば、最初のバブル崩壊までは、ちょっと防ぐことは難しかったと思う。
だがそれ以降の低経済成長や、企業の海外への拠点移動は、完全に政治の失敗である。
経済については専門ではないが、セイバーは経済の専門であった。
またツインズも共に、経済学をかなり学んでいる。
円安も円高も、基本的にそれだけで良し悪しが決まるわけではない。
急激な円安や円高が、企業や個人がそれに対応できなくなるため、問題であると言われるのだ。
かつては円高が、輸出を抑制してしまう、などと言われていた。
そして今は円安が、物価高につながっているなどと言われている。
根本的な問題は、少子化にあると言われる。
経済成長は単純に、人口増加によってもたらされるものであるからだ。
また金融立国、などという意見がなされていたりする。
しかしそれで大きく格差が出来てしまった国は、世界中にあちこちあるのだ。
明史はそういったことを防ぐ、エリートになるのだろうか。
直史が見る限りでは、官僚などには向いていないと思う。
明史は基本的に、データを処理する能力などは極めて高い。
だが周囲との協調性というものが、微妙に低いとは思う。
これは運動の方面で、人間関係を築けなかった、というのが問題なのだと思う。
しかし今さらどうにもならないことでもあろう。
今ある武器で勝負しようという、そこが明史の偉い点だ。
合同自主トレという、ちょっと矛盾しているようなものには参加せず、直史は独自でトレーニングを行う。
もっともそれは大介も一緒であるので、一人だけでやっているというわけではない。
武史は日によって違うが、神奈川の方のSBCでトレーニングをしていることはある。
直史とは違って球速こそが、武史の最大の武器なのだ。
武史もまた、ここからどう成長するかではなく、どう維持するかと対応するかが、主な課題となっている。
160km/h台後半がまだ出るというだけで、充分な脅威である。
しかしNPB復帰二年目の今年は、おそらくは相手も相当に、武史を研究してきているだろう。
だが武史もさすがに、自分で考えて投げるようにはなっている。
感覚的にもう、どこに投げればいいのか、なんとなく分かるのだ。
そこを言語化出来ないのが、まだ問題ではあるのだが。
大介の場合は、とにかく動体視力が問題であった。
オフの間もこの眼球の筋肉だけは、しっかりと鍛えていたのだ。
スピードボールが打てなくなれば、もう徐々に対応されていく。
ただ緩急差に対応するのも、この年齢では難しくなってくる。
直史と共に、レックスとライガースを除けば、他のチームの選手をどうするか、話し合ったりもする。
スターズに関しては、ちょっと考えるところはあるが。
またこのオフにおける、補強の問題。
レックスは直史の年俸が巨大であるため、大規模な補強は出来ない。
このあたりほぼ毎試合出る大介とは、露出が違うのも関係する。
もっともライガースの場合は、それは別としても資金力が豊富だ。
地元の応援がものすごいのは、昔から変わらないのだ。
親子二代どころではなく、三代続いてライガースファンというのも、大阪や兵庫では珍しくない。
タイタンズはそれに比べると、人気は低下している。
やはり普通なら、弱いチームは人気が低下するものなのだ。
ライガースはファンが罵声を浴びせようと、人気は変わらないのがおかしなところだ。
完全なフランチャイズの成功、とでも言えるのだろう。
しかし球団経営としては成功しているがゆえに、下手にチームカラーをいじることが出来ない。
これが観客がガラガラであったりすると、大きなメスを入れやすくなる。
かつてのスターズなども、上杉のおかげで人気が上がったところに、改革の道筋をつけることが出来た。
ただ今はまた、改革の時期ではある。
本当なら武史を入れれば強くなるとは分かっていても、若手を育てるべきであったのかもしれない。
おそらく今年もセ・リーグはフェニックスが最下位。
ドラフトでも競合を外してしまったり、意外性のある選手を取っていない。
何が今のフェニックスを、ここまで弱くしてしまったのか。
かつてのフランチャイズプレイヤーを監督としながらも、結果が残っていない。
これは現場ではなく、フロントに問題があるのではないか。
そのあたりレックスは、上手く戦力の更新が出来ている。
直史が相変わらずエースではあるが、それはもう仕方のないことだ。
先発の枚数を揃えることを、どうやら編成は重視していたらしい。
だが直史からすると、リリーフ陣の中でもセットアッパーとクローザーを、もっと安定させるべきだと思う。
大平もまだまだ安定感は微妙で、そして平良が故障すれば代わりがいないと、分かっているはずだ。
年に30セーブはするような、そういうピッチャーもほしい。
セットアッパーでそれを使えば、より安定感が出てくる。
先発は先発で、六回までは安定して投げる必要が出てくるが。
それに直史は大平が、かなり先発適性もあるのでは、と思っている。
本来ならああいうフォアボールも多いピッチャーは、先発に回すべきなのだ。
調子が悪い日はランナーを出しまくるが、調子がよければ手が付けられない。
それでシーズンに、10勝10敗してくれれば、それだけでありがたいピッチャーになる。
もっとも大平には、確かに集中力の持続性の問題がある。
ベンチに一度戻ってしまえば、そこで集中力が切れてしまうのだ。
これは高校時代に、あまりにも試合に出ていなかったから、というのもあるだろう。
しかしフォームのメカニックの再現性が、低いのも確かなのだ。
フォアボールを三つも出しても、三振三つで0に抑える。
そんな無茶が大平のピッチングだ。
見ている観客は面白いかもしれないが、首脳陣は気が気でない。
おそらく貞本が素直に勇退したのも、大平のフォアボールの数が関係している。
ただこういったことは除いて、まずは監督が新しくなったのが問題だ。
西片がどういった采配を取るのか。
これまでもコーチなどはやってきたので、頓珍漢なことはしないと思うのだが。
なんだかんだ言って貞本は、一年目は駄目であったものの、二年連続でクライマックスシリーズまでは進んだ。
直史の力があったとはいえ、最後にはしっかり日本一になっている。
結果だけを見れば充分に、名将と言われるのかもしれない。
もちろん現場の選手である直史などからしたら、選手管理はしっかりしているが、起用の面では微妙さがあった。
コーチ陣の若手はそのまま残してあるあたり、フロントも西片を、全面的には信頼できていないのかもしれない。
直史としては豊田が残っているのは、それだけありがたいものであったが。
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