第227話 負けそうにない人間
世界においては生涯無敗、という記録を色々な分野で打ち立てた人間がいる。
また人間以外にも、たとえば競馬の世界では、生涯無敗であった馬など、それなりにいたりはするのだ。
イタリアの20世紀のスポーツ選手の括りでは、16戦無敗のリボーというサラブレッドが、四位にランキングされていたりもする。
野球というスポーツの歴史と人口を考えれば、直史の実績を上回るのは、より長く活躍した人間しかありえない。
ただそういったピッチャーなのであっても、勝率は絶対に直史を上回らない。
プロ入りが遅かったことや、一度引退したことなど、そういった条件も踏まえて、最強とは言われる。
あとは晩節をどれだけ、汚さずにいられるかだ。
上杉など最後の年こそ全盛期に近い成績を残したが、最後の数年はかなり数字を落としていた。
やはり肩をやったのが、年を重ねるごとに影響したのだろう。
それでも根本的な部分で、生物としての力が違いすぎた。
肩が本格的に壊れて、そしてようやく引退。
燃え尽きるまでやったというのは、上杉のような選手生活を言うのであろう。
直史の場合はどうしても、打算や妥協が頭にくる。
堅実に堅実にと考えて、それでも引っ張り出されるのが、その器の大きさゆえと言えようか。
実際のところ上杉としても、今の日本球界を見れば、最も影響力のあるのは、直史だと考えている。
大介などはプレイヤーとしてはともかく、あくまで永遠の野球小僧であるのだ。
その直史の、今年二度目の先発である。
今度はホームの神宮での試合。
相手はフェニックスであり、カモといってもいいようなチーム。
何よりレックスは開幕から調子がよく、フェニックスは予想通りに不調。
まだそれほどの試合を終えたわけでもないが、早くも勢いは見えている。
特にレックスは今年から、監督が変わっている。
直史は貞本のことを、悪い監督ではなかったとは思っていた。
チーム内に変な空気を生み出さない、優れた指揮官とさえ思っていたのだ。
ただ実戦での采配は、どうも積極性に欠けた。
新監督の西片は、主に攻撃の面においては、積極策を採用して来ている。
少なくともファンとしては、試合の中で動きが大きく、それなりに見ごたえが増えたように思っているだろう。
この試合も直史は、満員の神宮の中で、フェニックス打線と対決することになる。
そのフェニックスはと言えば、オープン戦ではそこまでひどい成績ではなかった。
もっともオープン戦で本気を出すのは、自軍に自信のないチームが多い。
レギュラーシーズンでこそ勝てるチームならば、いくらでも新戦力などを試せる。
チームはどんどんと、新しく強くなっていかなければいけない。
いずれは誰もが衰えるのであるから。
直史はフェニックスが相手とはいえ、何も油断はしていない。
中六日ということもあって、体力も回復しているし、また充分にトレーニングも行っている。
開幕戦からほとんど、圧倒的なピッチングをしていた。
しかし直史本人は、家庭内で色々と事情を抱えている。
長男の明史は、四月から東京の私立中学に通うため、直史の弟の武史の家、正確にはその妻の恵美理の家に下宿している。
あちらは仲のいい従兄弟も多いし、特に心配はしていない。
子供の頃からずっと、体の弱いことだけが心配であったが、それも手術が上手くいった。
やや小柄であるのは確かだが、ここからが成長期とも言えるだろう。
他に気になるのは、一般的な人間を馬鹿のように見てしまうところだろうか。
頭脳明晰であるのは間違いないが、それがかえって諍いを呼ぶかもしれない。
ただ直史は、明史のそのあたりは、自分の子供時代にも似ている気がする。
長男であることには変わりはないが、明史は長子ではない。
幼児期にほぼ同様の手術を受けた真琴は、それ以降は明史よりずっと、元気に育ったものである。
弟としては姉に、どうしても腕力で敵わないところがあった。
ただそれは真琴が、男勝りであるということでもある。
武史のところには、年上の司朗も沙羅も、そして玲もいる。
田舎の総領家の跡継ぎ扱いではあるが、一族の中ではそこそこ年下。
そのあたりがどう育っていくか、直史は楽しみでもあるが心配でもある。
真琴は手元にいるし、まだ下には幼い次男坊もいる。
父親としての姿を、どのように見せていくか。
合理主義の明史は、この神宮での試合についても、わざわざ観戦に来たりはしていない。
ただ相手がライガースなら、直接見に来るかもしれない。
しかし幼少期から心臓の病気により、スポーツとは無縁の生活を送ってきた明史である。
その興味の行き先は、むしろ文化系にいっている。
もっともそれを言うなら、直史も本来は、体育会系の人間ではないのだが。
直史は昨日、明史の入学式に参列している。
他は母親だけというパターンが多いのだろうが、そこは個人事業主である。
もっともプロを引退していたとしても、普通に出席はしていたであろうが。
直史も直史で頭脳には自信があったが、単純に勉学に関しては、明史の方が優れている気がする。
ただこの先は、少し体力もつけてほしいな、と思うのが正直なところである。
そういった心配事は、長女の真琴の方にもある。
もっともこちらは手元にいるため、直接見てやることが出来るのだが。
明史はなんというか、子供の頃から死と隣り合わせにいたため、達観したようなところがある。
それに明晰な頭脳が加わると、他人を馬鹿にした態度に出ることもある。
だが武史はともかく、恵美理がいてくれるので、そこは心配していない直史である。
実弟よりも義妹が頼りになるというのは、なんともおかしな話かもしれない。
明史はなんだかんだ、両親に甘えたところはあるのだ。
直史としても本当なら、長男はそれなりに厳しく育てるつもりであった。
しかし明史もまた、真琴と同じく心臓が弱かった。
どうしても甘やかしてしまうところはあったし、明史は分を弁えた、小賢しいところもあったりしたのだ。
聡明ではあるが、口ばかりが達者なところはある。
そういう人格であると、将来は苦労する。
そんなことを考える直史だが、自分もそうだったという自覚があまりない。
直史の場合は高校時代から、自分の影響力が周囲を動かし始めていたということもあるのだ。
そこで下手に調子に乗らないあたり、慎重なところはあった。
既にその時点で、将来を弁護士というか、法律の道に進むと決めていたこともある。
状況に流されることがなく、的確な判断が出来たと言えるだろうか。
少なくとも高校時代には、単純に監督だからといって、目上とされる人間の言うことに頷いてばかりの人間ではなくなっていた。
野球部のメンバーに仲間意識はあっても、野球部に対する帰属意識がない。
それが大学時代の直史であった。
自分の子供たちのことを、心配するのは普通の親である。
だが同時にその成長によって、自分たちの過去を追体験することにもなる。
人はもう一度青春を生きることになる。
そこで下手に自分の経験から、子供の進路を決めてしまえば、スポイルしてしまうことはあるだろう。
直史のように弁護士をやっていれば、親子関係というものの難しさも知る。
厳しい父親でありながらも、家族を守る父親でもある。
そういう姿を見せてきたつもりだ。
ただ孫になったなら、もうこれは可愛がるのみである。
晩婚化が言われる日本というか、世界の先進国であるが、直史の周囲は比較的、早い結婚や出産をしている。
もっとも去年のように、武史のところは比較的高齢出産もある。
しかし40代での出産も珍しくなくなった現在、一応は30代であった恵美理には、それほどのリスクもなかったとは思うが。
直史はメンタルが強靭であり、相手の心理洞察にも優れている。
ただし本当の意味で理解し、共感するのに優れているわけではない。
むしろ不器用な面もあるのは、女性に対しては特にそうだ。
古風な女性でなければ、直史は相手にしたくない。
下品な人間は、職業柄接触しないわけにはいかないが、特に女性に対する潔癖症的なところがある。
過去の女性経験を考えれば、それも仕方がないのだが。
真琴はそろそろ、地味な反抗期も終えてくれた。
明史は手元から離れたが、勤務先からは近い。
父親の背中から、学んでくれることを期待する。
あとは何か失敗した時、それを支えてやることぐらいだ。
フェニックスはもうこの数年、最下位の常連となっていた。
Bクラスの常連としては、他にカップスもいる。
タイタンズは時々、Aクラスに入っていることもあったのだ。
もっともこの二年は、やはりBクラスの仲間であるが。
なんとかパーフェクトに封じられることは避けたい。
それがフェニックス首脳陣の考えである。
またも監督が代わったが、それでチームの空気まで変わることはない。
強いチームの条件というのは難しい。
しかし弱いチームは明らかに、選手のモチベーションが低いのだ。
もちろん年俸査定などのために、自分の成績にはこだわっていく。
それを勝利に結びつける、首脳陣が機能していない。
過去にはAクラス入りを何年も続けた時期もあった。
ただフェニックスは親会社が、資金難であることも関係している。
あとは作った球場が悪かったこともある。
名古屋ドームがホームランが出ない球場であるということは、野球関係者であれば誰でも知っている。
一般的にファンは、ホームランは見たいものなのだ。
神宮はその点、ホームランの出やすい球場である。
その球場をホームにしているのに、ホームランを全く打たれない、直史こそがおかしいのだ。
本当に一本も打たれていないわけではないが。
一回の表から、直史は省エネピッチングをしていく。
昨日の試合において、勝ちパターンのリリーフ陣は、国吉以外は休んでいた。
だが今日も一日休んでもらって、長いシーズンを安定して投げてもらわないといけない。
重要なのは直史も故障せずに、完投することである。
ほどほどに打てるようなボールを投げている。
だがそれを分かっていて、カットしてくるバッターもいるのだ。
フェニックスが弱小球団であっても、その中で牙を研いでいる人間はいる。
そういった相手に対しては、直史も三振を奪いにいくのだ。
また一回の表は、まだリードしていない状況。
そこで万が一にでも、ホームランを打たれてしまうというのは、出来れば避けたいことなのだ。
ただフェニックスもフェニックスで、やはり全ての部分が弱いわけではない。
今日の先発にしても、開幕で先発を投げている以上、フェニックスの中でも中心選手ではあるのだ。
数年我慢してポスティングか、八年我慢してFAか。
プロ野球は夢のある興行であるが、その中で働く選手にとっては、生活でもあるのだ。
ある程度の実力を持っていれば、計算高くプレイしていく。
勝つ気のないチームで奮闘し、故障でもすれば全てが無駄になる。
ピッチャーの評価というのは、本当に昔に比べれば、適正なものになったと言える。
勝ち星と負け星しか見ない、などという馬鹿なことは、どんなチームのフロントでも言わない。
そもそも評価は数字になり、それで年俸は確定する。
いくらいいピッチャーであっても、打線の援護がなかったとしたら、ちょっと勝利投手になるのは難しい。
ハイクオリティスタートを決めれば、おおよそいいピッチャーであるのだ。
クオリティスタートを50%の確率で達成できれば、もうローテーションから動くことはないだろう。
先制したのはレックスである。
クリーンナップが一発を打って、それでまずは一点だ。
せっかくのホームランであるというのに、ソロというのは惜しいところ。
ただ近年はホームランによって入る点数が、やや低下している傾向にある。
つまり厳しい場面では、歩かせてしまうのだ。
単純にOPSから計算すれば、大介以外のバッターであれば、どんな状況でも勝負した方が、ピッチャー有利のはず。
しかし敬遠を選ぶというのは、新しい分析の結果が出ているとも言える。
野球の常識は、年々データが蓄積されることで、変化していくものなのだ。
そしてそこから新たな変化が生まれ、それに対応してまた戦略が変わる。
だが一部の人間には、そんなシーンの変化は関係ない。
直史はこの試合も、何度か150km/hオーバーを投げている。
そもそも去年にしても、念のために抑えていただけで、150km/hを投げること自体は出来たのだ。
わずかな球速の上限など、もう関係のないところで、直史のピッチングスタイルは完成している。
打たせて取るという、技巧派のピッチャーではある。
だが技巧によって、三振も奪うことが出来るのだ。
フェニックス打線も、直史を打ったならば、それだけでも充分と思うバッターはいる。
パーフェクトやノーヒットノーランは、なんとかして防ぎたい。
そもそも開幕戦はライガースが、ヒットが出なければそうなっていたのだ。
圧倒的なピッチング技術は、積み重ねてきたものの差。
ただ経験にしても、直史は同じ経験から、人の数倍のことを学んでいく。
根本的な頭の良さというのか。
それでなければバッターの心理に対する、深い洞察力があるのだ。
人間性への理解ではなく、人間の感情への理解とでも言おうか。
圧倒的な技術でもって、その心の隙を突く。
多くのバッターはもう、直史に対する苦手意識が、畏怖にさえなっている。
そして恐れられれば恐れられるほど、長打を打たれる危険性は少なくなる。
そうなればあとは、単打までは許容してしまえばいい。
直史が求めているのは、最少の労力での勝利である。
自分のパーフェクトなどというのは、既にもう何度となく達成している。
野球のルールが根本的に変わらない限り、この支配的なピッチングを上回るピッチャーは、そう登場しないだろう。
レックスは七回までに、二点を取っている。
それに対してフェニックスは、いまだに無得点。
またランナーですら、一人も出せていないのであった。
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