第170話 開闢
ノリとしてはほとんど日本シリーズ最終戦である。
去年もこれで勝った方が、日本シリーズも制覇するだろう、などと言われていたものだ。
実際にはそんなことはなく、勝ち残ったライガースはベキボキに負けた。
四連敗でなかっただけ、マシであったと言おうか。
33-4なんてなかった。
一回の表、先行はライガース。
最初に大介の打席が回ってくるというだけで、ライガースは先取点のチャンスである。
この試合はこれまでの直史を相手にしたのと違って、大介が二番になっているのは観客にも意外であったかもしれない。
ただ打順をコロコロと変えるのは、繊細なバッターにはあまりよくない。
繊細でなくてもわずかな調整を行うバッターは、ルーティンを大事にする。
大介は繊細ではないが、そのバッティングは精密だ。
わずかな変化がそのバッティングに影響しないよう、自分でしっかりと調整をしている。
最初の打席に果たして勝負してくるかどうか。
選択する権利は、常にピッチャーの側にある。
以前の直史であれば、勝負するのにそれほどの躊躇はなかった。
ある程度の敗北の確率も、腕力でねじ伏せていたのである。
もっともそれも綿密な準備があってこそ。
一度はさすがに消耗しているところで、選択肢を間違えた。
敗北する可能性を徹底的に潰していく。
ならばまずは一番の和田をアウトにして、大介は申告敬遠してしまうはずだ。
大介としては、そういうことをやってくるかなと、事前に考えてはいる。
決めれば徹底するのが、直史の怖さであるのだ。
そういった精神性というのが、技術などよりもずっと恐ろしい。
和田に一番を打ってもらうのは、二番でも四打席目が回ってくるから、と考えたのみではない。
一打席目の前に、直史のボールを少しでも見ておくためだ。
マウンドに登ってからの直史は、もう準備完了しているため、本気の球を見せることはない。
なので和田には、出来るだけ投げさせてほしいのだ。
もっともそれより、出塁を優先してくれてもいい。
この場合は直史は、こちらの意図を察して、比較的打ちやすいボールをゾーンに投げ込んでくるかもしれないからだ。
だがさらに直史は、この状況を正しく理解している。
俊足の和田をランナーに出しても、ここは大介を敬遠する。
ヒット一本で点になると分かっていても、ツーランホームランよりはいいからだ。
そして和田をちゃんと打ち取れば、大介を普通に歩かせるだけで済む。
最初からゾーンに投げていったが、ボール球との際どいところであった。
和田は先頭打者の例に洩れず、これはしっかりと見ていく。
アウトローの出し入れという、ピッチャーの基本。
しかしヘボな審判であれば、判定の間違いを起こしそうなほどに、糸を細く紡ぐようなピッチングだ。
審判は少なくともヘボではない、ストライクと判定された。
その後は一球を打たせてファールとする。
ツーナッシングに追い込んでからは、速いストレートを投げてきた。
空振り三振という、呆気ない結末。
離れて見ていると分からないが、やはりホップ成分が強いのか。
(146km/hか……)
大介は球速表示を確認したが、タイミング自体は確かに合っていたと思う。
「浮いたか?」
「はい」
和田には短く質問し、その回答もまた短い。
大介ならば対応出来る。
おそらくその程度のボールであったろう。
果たしてここで、どういう勝負をしてくるのか。
そう考えてバッターボックスに入ろうとした大介であるが、レックスベンチからは申告敬遠。
さすがにどよめきが起こったが、直史は涼しい顔をしている。
(完全に勝ちにきてやがるな)
大介はバットを置いて、一塁に向かう。
ファイナルステージの大介のOPSは、2をオーバーしている。
だから歩かせた方がいいというのは、確かにその通りであるのだった。
第一打席は申告敬遠。
確かにリードしていない状況では、大介と勝負すればそれだけで一点のリードを奪われるかもしれない。
だがそれを、今季も沢村賞確実の、パーフェクト達成ピッチャーがやってしまうのだ。
もちろん実際にやってのはベンチの采配だが、それに全く動揺したところを見せない。
バッターの打順の一番に持ってこられると、ちょっと難しいのがこの初回の対応であった。
しかし和田でアウトを一つ取っているため、こういう手段が使える。
確率的には間違いではないのだろう。
OPSはあくまでも基準であるが、実際のところ大介の長打力は、ヒットの三割ほどがホームランになるというものだ。
三打席あれば、その危険と三度対峙しなければいけない。
全て歩かせてしまえば、その三割が一度もやってこないのだ。
もちろん点差がついてしまえば、勝負もしてくるのかもしれないが。
完全にライガースの、他のバッターを無視している。
いや、正しく理解した上で、こういった判断をしているのか。
実際にそこから二人、内野ゴロと内野フライで、大介は二塁に進むことしか出来なかった。
まさに計算通りといったところか。
盗塁も考えたのだが、直史はピッチングの挙動に入るのが、他のピッチャーよりもずっと分かりにくい。
普段からクイック気味に投げているので、大介ほどの盗塁の成功者でも、分の悪い勝負となるのだ。
直史からチャンスを作ること。
それはかなり難しく、危険を冒す必要もあるだろう。
だがギャンブルと分かっていても、やってみなければ当たらない。
他のバッターに期待することは、信頼ではなく単なる甘え。
傲慢と言えるかもしれないが、実際に直史はそういうピッチングをやってくる。
進塁打を打てただけ、まだここはマシであったと言うべきであろうか。
大介はこの申告敬遠を、かなり問題だと感じている。
そして早々にでも、どうにかヒットを一本打ってほしい。
大介の打順が、回の頭にくること。
おそらくそれが直史から、確実とは言わないが、比較的まともに点を取る前提である。
このまま三人で終わっていけば、三回の表はツーアウトから、大介の打順が回ってくることとなる。
かなり悲観的に考える大介は、同時に現実的でもあるのだ。
楽観論で直史に勝てるはずがない。
最初から最後まで、シビアに考えていく。
やはり点を取るには、盗塁を絡めて行く必要があるだろう。
おそらく球界で一番早くタイミングを取りにくいクイックに、迫水の平均以上の肩。
盗塁はセンスであるので、大介が不可能であるならば、あとはよほど運がよくないといけない。
直史も別に、全く走られないわけではないのだ。
そもそもランナーを出すことが少ないので、無視してバッター勝負ということも多い。
またランナーに出るのが、そう都合のいい俊足の選手のはずもない。
試合の終盤であれば、代走という手段は普通に予想されるが。
とにかく手段を選ばず、勝利のための選択をする。
直史としては勝負をしても、それなりの勝算はあるのだ。
だが厳しいコースばかりを使っていくならば、歩かせるにしても球筋を見せてしまう。
大介を相手にするならば、もっと余裕のある場面でするべきだ。
それもライガースの打線に火をつけないつもりなら、完全に勝負は避けてしまうべきなのだが。
必要なのは味方の援護点。
ライガースの先発は、中三日で畑である。
木津と投げ合って負けはしたものの、内容が決定的に悪かったというわけでもない。
そしてこの試合にしても、せいぜい五回まで投げられればいいか、というぐらいにライガースは考えている。
中二日の津傘なども、これが最終戦なのでリリーフと計算されている。
一応はフリーマンまでブルペンにいるあたり、ライガースはピッチャーを総出しで戦う予定である。
対するレックスとしては、ほぼ直史に任せるつもりである。
一応勝ちパターンのリリーフは用意しているが、本来のリリーフ陣以外をブルペンに入れてはいない。
またリリーフ陣も出来れば、準備までで終わらせたい。
直史に完封を、そこまでいかなくても完投を求めている。
だが無理をするぐらいなら、状況によるがリリーフを投入していく。
首脳陣はまだ、この先に日本シリーズがあるのだと考えている。
もちろん負けてしまえば、それは絵に描いた餅になるわけだが。
目の前の事態に全力で挑みつつも、その先も考えておかないといけない。
また直史が壊れるようなことも、してはいけないのだ。
優先順位としては、まず日本シリーズに進出すること。
そこで勝てるかどうかは、ある程度の運が関係してくる。
とりあえず優先順位を間違ってはいけない。
そしてその優先順位の中、日本シリーズ進出よりも優先すべき、第一の条件がある。
直史を壊さないことだ。
生ける伝説というか、存在する奇跡というか、とにかく直史は特別な存在でありすぎる。
ここで試合に負けて日本シリーズを逃したとしても、直史を壊してしまうよりはいい。
もちろん偶発的な事故ならともかく、首脳陣の運用が無茶苦茶で、それで引退してしまう場合だ。
貞本は元々、今年で監督は任期が終わる。
二年連続でファイナルステージまでは到達しているが、それはおおよそ直史のおかげである。
もしも直史を壊すような運用をすれば、レックスファンのみならず日本全土の野球ファンが、貞本を絶対に許さないだろう。
ユニフォームが着れなくなるどころか、野球関連の仕事さえ回ってこない。
さらには社会から排除される可能性まである。
直史はさすがに、貞本がそこまでの杞憂をしているとは、感じていなかった。
目の前の相手を封じるのに、精一杯であったのだ。
壊れるか壊れないかなど、考えてはいない。
いや、壊れることと負けることを比べれば、壊れることを選ぶだろう。
レックスの打線は分かっている。
一点あれば、直史は勝ちに行く。
大言壮語を吐いたことなど、一度もない直史だ。
確実に出来ることしか、口にしたりはしない。
おおよそ完封出来ると思っても、口に出したりはしないのだ。
もっとも身にまとった空気が、雄弁に語っている。
一点ぐらいは取れ、と命じているのだ。
ピッチャーはエゴの塊のはずだ。
しかし直史のエゴは、自分の快感のためには存在しない。
この人間の世界の中で、自分が投げることの意味。
そういうことまで、わざわざ考えて直史は投げている。
背負っているものが、他の選手とは違う。
ライガースはどうしてもピッチャーの点ではレックスに劣る。
ただレックスはバッティングでの一発が少ない。
計算出来た攻撃を、どうしても貞本は選んでしまう。
さすがに安易に送りバントなどはしないが、まずは目先の一点を取っていく。
トータルで見ればそれは、バッティングで大きく振っていくより、取れる点数は少なくなる。
だが野球は、相手よりも一点でも多く取れば、それでいいスポーツなのだ。
貞本の采配には、特に攻撃においては、色々と批判も多い。
しかし直史のピッチングとは、むしろ相性がいいのだ。
なぜなら貞本の采配では、一点も取れないという試合が少ないからだ。
プロの世界ではまず、一点を取っていくのが有利。
レベルが近いだけに、先制点の重みが違う。
ましてや短期決戦である、このポストシーズンであるならば。
一番の左右田には、まず出塁を求めている。
長打率が低いため、OPSはさほどでもない。
しかしながら出塁率では、特に初回はトップレベル。
まずはチャンスを、初回に作っていくのだ。
ライガースも当然、レックスのデータは完全に集めている。
左右田は今年、一度もスタメンから外れたことがない。
ショートがそう安定して、しかも一番打者というのは、相当に珍しい存在であるのだ。
二番の緒方が、進塁打を確実に打てるため、盗塁をやることは少ない。
データ上は盗塁により、チャンスを拡大するのとチャンスを消すのは、どちらかというと後者の可能性があることもある。
貞本はそうではなく、もっとリスクなく点が取りたい。
野球などをやっている時点で、既にハイリスクの人生であるのだが。
この試合は畑が、中三日で投げている。
つまり序盤から、球数を投げさせることが重要であるのだ。
この試合が終われば、日本シリーズまでは中四日。
それだけあればピッチャーは、ほぼ回復できる者が多いだろう。
直史は第一戦で投げて、この最終戦を中四日で投げている。
そして日本シリーズも第一戦、おそらく投げるだろうと言われている。
三試合に投げたとしても、マリンズ相手ならばそれほど問題はない。
統計的に見て勝てる、と判断しているのだ。
もちろんそれまでに、無理をしなければの話であるが。
無理をしなければ勝てないかもしれないのは、ライガースに限っている。
この試合でとにかく全てが決まるのだ。
その試合で、左右田は初回からフォアボールを選んだ。
球数を増やしたくない畑とライガースベンチにとっては、粘られた時点でその判断をしている。
そして二番は鉄人緒方。
ずっと試合に出続けているのは、そもそも体格が小さいから。
主にショートを守っていたのだが、それでも二桁のホームランを打った年もある。
直史よりも二歳年下であるが、それを比較するわけにはいかない。
そもそも他のチームに、いまだにショートをやっている二歳年上の人間がいるのだ。
その緒方は今でも、意外性のあるバッターである。
しかしながらこの場面では、確実に右方向に転がす。
ただ単純に打っていくのではなく、ボールを投げさせてから考える。
甘い球が入ってくれば、臨機応変にヒットを打っていく。
結果としてはファースト前のゴロで、ほとんどバントのような当たりになった。
左右田は二塁に進み、最低限の仕事となる。
緒方の長所としては、バッティングにおいてダブルプレイを取られたことが、ほとんどないということ。
ただ現代の野球においては、リスクを承知で長打を狙うのが主流である。
特にダブルプレイよりは三振のほうがいい。
そういった常識を全て、大介一人が否定している。
トレンドなど知ったことではない。
高校で初めて、ゴロを打たなくても良くなった時から、ずっと大介は考えている。
小さくてもホームランを打てば、いくらでも使ってもらえる。
そしてホームランを打つためには、塁に出せば危険なランナーにもならなければいけない。
ワンナウト二塁から、レックスのクリーンナップ。
ここで一本適度な当たりのヒットが出れば、一点が入ってくれる。
三番と四番の役割は、やはり点を取るためのものだ。
ミートして一本で、一点を取る。
直史が投げているのだから、一点取ればそれで勝てる。
もちろん負けた試合もあるし、この試合は中四日で、全盛期ほどの回復力はない。
それでも一回の表、恥を忍んで大介を敬遠したのだ。
本人が本当にどう思っていたかは、ちょっと分からないことである。
フライが高く、遠くライトへ飛んだ。
守備が充分に追いつくが、それでも二塁からタッチアップするのには充分。
ツーアウト三塁で、そして四番の近本に回ってくる。
こういう時に打ってこそ、四番を名乗れると言ってもいい。
レックスは打撃に関しては、かなり保守的なものである。
いまだにスモールベースボールを、かなり貫いているところがある。
ただクリーンナップには、好きに打てという場面もある、
特に近本は、和製の四番大砲。
なんだかんだここ数年、30本前後は打っているのだ。
ホームランが出てくれれば、一番ありがたい。
しかしヒットで一点でも、充分にレックスは優勝に近づく。
ランナーが残っているなら、まだまだチャンスは続くのだ。
とにかく最初に、一点がほしい。
スミイチで勝つことが、レックスというか直史の試合では多いのだ。
とにかく一点取ってくれれば、それでいいというピッチング。
そんな無茶な話をと言われるかもしれないが、現実はそう数字を残している。
近本はここで、ミートに専念していた。
ショートの大介の頭の上を、さすがに届かない高さで抜けていくボール。
定位置のレフトの前にボールは落ちて、これで左右田がホームを踏む。
初回の攻撃で、レックスが先制。
この時点で勝利を確信した者は、果たして何人いたであろうか。
風呂に入るにはまだ早い時間帯だ。
続いて連打などはなかったものの、ほしかった援護点がもらえた。
大介にホームランを打たれても、まだソロなら負けないという状況になった。
直史は肺の中の空気を、しっかりと入れ替えてからマウンドに向かう。
ここからはもう、油断してはいけない。
そしてペース配分にしても、12回まで投げる覚悟をしなくてもいい。
九回までで全力で、相手を完封すれば勝てる。
大介と勝負するかどうかというのは、また別の話ではあるが。
まずは勝つための条件が一つ満たされた。
直史としてはこの条件を、確実なものにしてしまえばいい。
野球は点を取られなければ負けないスポーツだ。
そしてこちらが一点を取った以上、この先一点も取られなければ、確実に勝つことが出来る。
当たり前のことを再確認し、直史はマウンドに登る。
五番から始まるこの二回の表、直史が考えるのはランナーを出さないこと。
ここからパーフェクトに封じれば、大介の第四打席は回ってこない。
もっともそれは、大介の打席も全て、抑えてしまうことを意味するのだが。
勝利の確信を、ファンにもチームメイトにも、首脳陣にも感じさせる。
エースとしての姿を、直史はここから見せることになるだろう。
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