第290話 サトー・タイム
いつからか誰かが呼び始めた。
MLBにいた頃からの、その特異な呼び方。
サトー・タイム。
MLBチャンネルを契約している人間が、家にこもってしまう時間のことである。
かつての日本であれば、大相撲で50%の視聴率を達成したようなものか。
別にレックスファンや、MLBであった頃はアナハイムのファンではなくても、直史の投げる試合が進んでいくと、視聴率が上がっていく現象。
パーフェクトをリアルタイムで見られる、という期待が高まっていくのだ。
現在はネット配信もあるし、海外への配信もある。
視聴率、という見方でははっきりと分からないであろう。
しかしMLBでも、パーフェクトやノーヒットノーランを何度もやっていた頃は、世界中で5000万人ほどがリアルタイムで見ていたのではないか、という計算もある。
アメリカや日本だけではなく、野球の盛んなところでは、それぐらいは普通に注目されていた。
とりあえず直史が投げる試合は、必ずチェックしておく。
そして試合が開始して、ヒットを打たれない限りは、三回ぐらいから視聴者数が増えていく。
たとえエラーなどがあったとしても、まだノーヒットノーランの可能性は残っている。
さらにはせっかく見たのだから、最後まで見ておくか、という話にもなったりする。
解説者も直史のピッチングは、色々と予想するのが難しい。
野球にそれほど詳しくない人間でも、アナウンサーや解説者の驚きのリアクションで、楽しむことが出来る。
あまり詳しくなくても、全然ランナーを出さないピッチャーということは分かる。
大介であってもホームランが出るのは、二試合に一本以下の割合。
それに対して直史のピッチングは、たとえパーフェクトを逃したとしても、ほとんどランナーすら出さない。
点を取られなくて当たり前なのだ。
ピッチャーという存在の概念を、ほとんど変えてしまったとも言える。
インテリ層の出身であり、とにかく頭がいいのは知られていた。
今では数が多くなり、比較的試験にも通りやすくなったとはいえ、弁護士の資格を持っている。
レックスで後に相棒となった樋口も、同じ大学でキャッチャーとして活躍しながら、とんでもなく頭のいいことで知られていた。
もっとも樋口は本気でプロの選択をするまでと、してからの打撃成績がまるで違う。
ラスト一年はリーグ戦以外を含めて、四割以上を打っていたのであるから。
この二人のバッテリーは、握手した天使と悪魔とでも言われ、どちらが天使でどちらが悪魔か、議論されたものである。
もちろん対戦相手にとっては、どちらも悪魔であるに決まっている。
とりあえず打者一巡がランナーなしで終われば、本格的なサトー・タイムの始まりである。
これがどこまで続くか、アメリカの視聴者までが、NPBの試合を見るのだ。
ちょっと表示される情報が違うので、そこに戸惑いはあるらしい。
しかし大介のホームランよりも、年間にレギュラーシーズンで30試合も投げない直史のほうが、商品的な価値が高い。
大介のホームランは期待されているが、そればかりではないのだから。
大介は華麗な守備や、強烈な走塁といった、バッティング以外の武器がある。
対して直史は、ピッチングだけを行う。
それが逆に視聴者からすれば、何を見ればいいのかはっきりする。
今年は既に、三度のパーフェクトを達成している。
しかし味方が一点でも取ってくれていれば、その数はさらに一つ上積みされていたのだ。
直史はそれに対して、何も愚痴などは言わない。
自分が一点も取られていなくても、負ける試合はある。
また何点か取られていても、勝てる試合もある。
直史の場合は、ロースコアで負けた試合など、自分の責任試合では、片手で数えられるほどしかない。
ハイスコアというのは、そもそも試合自体が存在しない。
負けた試合自体は、それなりにある。特に一点でも取られれば、味方の援護が追いつかない。
だがそれでも、絶対に試合を崩すことはなかった。
試合が終盤に入っても、まだパーフェクトは続く。
しかし全てが全て、ずっと上手くいくはずもない。
八回の裏、ツーアウトからのバッターに対して投げた球は、弱いフライになった。
だがそれが都合よく、内野の頭を越したところに落ちる。
ドームの中の観衆が、大きくざわめいた。
バットにボールが当たるのだから、こういうことは充分にありうる。
直史は運がいい。
打たれたとしても、単打で済んでいるからだ。
チームは既にリードしていて、出てしまったランナーにも足はない。
ただここからはダブルプレイも取れないので、球数の節約は難しい。
ならば普通に、目の前のバッターをアウトにしていけばいい。
フライを打たれたのだから、今度はゴロを意識してみる。
ショートに上手く飛ばして、普通にファーストに送ってアウト。
パーフェクトが途切れてしまっても、集中力が落ちることはない。
むしろこれで思考力を、ある程度使わなくて済む。
理想的なのはパーフェクトも何も関係なく、メンタルの体力を消耗しないで試合を終わらせること。
シーズンは長いので、どうしても調子の波はあるのだ。
今日の試合にしても、雨天によって登板がスライドした。
ほんのわずかにではあるが、調整が普段とは違うようになってしまったのだ。
それでも終盤までパーフェクトは続いた。
肉体のバイオリズムの調整が上手くいかなくても、思考力は低下していない。
なので上手く組み立てて、見事に抑えてきたのだ。
パーフェクトにならなかったというのは、あくまでも結果だけを見たもの。
思った通りのボールを投げて、おおよそ思った通りに打たせることが出来た。
ほんのわずかに先に飛んだので、ヒットになってしまった。
結果はどうであっても、直史の考えたボールは、しっかりと投げることが出来たのだ。
そして打球もおおよそ想定内のもので、結果だけが惜しかった。
しかしこれを、惜しかったといつまでも引きずっていくのか。
ホームランにならなかったし、長打にさえならなかった。
相手はようやくパーフェクトが途切れたが、もうあと1イニングしか残っていない。
直史の球数は、まだ80球を超えたところ。
つまり完封してしまうのには、充分な余裕があるのだ。
長い半年のシーズンの中で、先発ピッチャーは意外なほど、暇な時間が多い。
昔はコロコロとローテーションが変わったが、今ではよほどのことがない限り、そういったことは起こらない。
シーズンの終盤ともなれば、メンタルのスイッチを切り替えておく。
消耗は激しくなるが、短い間隔で投げられるようにするのだ。
MLBにおいてもピッチャーは、レギュラーシーズンこそ厳密に球数で管理されている。
しかしポストシーズンになってくると、その扱いは大きく変わる。
優勝争いともなれば、普通に球数も100球を超えてくるし、登板間隔も縮まってくるのだ。
直史のメンタルは、平静なままだ。
期待したり失望したりするのは、心に負担をかけてくる。
根性論や精神論ではなく、立派な科学だ。
プレッシャーや負けん気によって、心臓の鼓動が早くなる。
するとそれだけ運動をしているのと同じようになるのだ。
ランナーを出してしまったり、強打者と対決すると、どうしても緊張する。
それはいい意味でも悪い意味でも、どうしようもなく緊張するのだ。
脳内ではアドレナリンやドーパミンが分泌される。
当然ながらこれは、通常の状態ではない。
相撲取りの平均寿命が短いのは、よく知られていることである。
日本の男性が78歳前後まで生きるのに対し、それよりも20年ほども早く死ぬという事例が多い。
ちなみに野球選手もまた、10年前後も早死にする。
サッカーとそれほど変わらないものだ。
もちろん例外はあるし、競技の内容だけで、そうなるとは限らないだろう。
相当に激しいテニスなどは、むしろ平均寿命を伸ばしている。
直史が考えるのは、心臓の鼓動の話だ。
像もネズミも実は、その生涯において心臓の打つ鼓動の数は、それほど変わらないというもの。
人間の場合は相撲など、確かに激しい稽古もあるし、何より食生活が不健康すぎる。
野球選手やサッカー選手の寿命が短いのは、それだけ心臓に負荷がかかっているのか。
ただどう考えても、激しい運動とは思えないゴルフでも、平均寿命は短くなっている。
野球にしても運動の強度は、案外強くないものである。
結局のところスポーツ選手が早死になのは、無理をするからと言っていいだろう。
また禁止薬物が流行していた頃は、それもあってか早死にする人間が多かった。
直史はピッチングの中で、無駄に緊張したりはしない。
マウンドでは己の心臓の、鼓動を確認しながらピッチングを行っていく。
そして想定した通りのコースに、投げることが出来ればそれでいいと考えている。
直史はボール半個の出し入れは、平然と行うことが出来る。
しかしそれでも、わずかにコントロールが乱れることはあるのだ。
それはなぜかというと、ボールが完全には芯が出来ていないから。
風のわずかな影響さえも、遅いボールには強く働く。
逆に向かい風だと、ホップする球のホップ成分が強くなる。
自分自身ではコントロールできない、ということが多すぎるのだ。
それを無理にコントロールしようとしたり、結果に無駄に一喜一憂すると、その後のパフォーマンスに響いてしまう。
ほどほどの集中力を、上手く緩急をつけて使っていく。
投げるボールの全てに、完璧を求めなくてもいい。
八回の裏が終わってベンチに戻ってきても、直史は無表情のままである。
パーフェクトが途切れたとなると、普通のピッチャーなら集中力が途切れてもおかしくない。
もちろん直史は、既に何度も達成している。
だからそれに対する、期待も失望もない、と考えてもいいのだろう。
実際に直史は、次のことを考えるのだ。
パーフェクトを達成しても、単に完投しても、一勝しているなら一勝である。
それにあんな運のいいヒットを一本打ったからといって、直史を攻略できたとはとても言えないだろう。
ここからやっていくことは、もう単純なことである。
今までと同じように、淡々とアウトを積み上げていく。
パーフェクトを阻止されても、平然と投げ続けなければいけない。
動揺した様子などを見せないのが、直史にとっての次の仕事だ。
何をやっても勝てないと思わせる。
それこそが完璧なる、エースとしての役割であろう。
ここで直史のパーフェクトが途切れても、視聴者が試合を見るのをやめるかというと、なかなかそういうこともない。
ここまで投げたピッチャーが、最後のイニングまで調子をそのままに投げられるのか。
パーフェクトが途切れてしまっても、最後まで見ていたくなる。
試合自体はおそらく、リードしたレックスが勝利してしまうだろう。
だが直史が交代しない限りは、最後まで目が離せない。
これがまだ、試合の早い段階で、ヒットを二本でも打たれていたら、また話は別なのであるが。
九回の表にも、レックスは追加点を入れてくる。
ここのところ援護点がそれなりに多くなっているな、と感じている直史である。
神戸相手に1-0でパーフェクトをしたあたりから、さすがに打線陣に力が入ってきているのか。
確かに平均得点は、あのあたりから少し上がっている。
だがこの試合はもう、5-0となっていれば何も起こらないだろう。
満塁ホームランを打たれたところで、まだリードしているという点差。
西片は最後、リリーフに誰か出すかどうか、少しだけ考えた。
しかし充分に球数を抑えた先発を、ここで代えたら興ざめであろう。
最終回の裏、フェニックス相手のマウンドに、直史は立っている。
何かが起こる気配はない。
ただフェニックスとしても、少しでも多く代打を試していきたいのだ。
もしかしたら技巧的な直史に、マッチするようなバッターがいたりはしないか。
多くのチームがそれを考えて、下位打線には代打を送り込む。
ここでチャンスをもらった若手などは、どうにかヒットを打ってみたい。
それだけで首脳陣からの評価は、また使ってみるかと上がることになるだろう。
しかしただ打ちたいと思ったところで、本当にあっさりと打てるものか。
直史は緩急をしっかりと使っていく。
ここまでくるともう、リードも自動的になってくる。
味方の攻撃の間には、しっかりとエネルギーの糖分を取っておく。
そしてほどほどに思考しながら、最後のバッターまでも打ち取るのであった。
これで今季、フェニックス相手には五つ目の白星。
何か自分たちには、特別辛く当たっていそうだ、とフェニックスの打線が思っても仕方がない。
ただローテーションを決めるのは、レックスの首脳陣なわけである。
よってここまで問題もなく、直史は勝ち星を積み上げるのであった。
これでオールスター前の登板は全て終わった。
80試合を消化した時点で、既に14勝である。
この調子で投げていけば、おそらくは今年も24勝ほどになるだろうか。
直史がどうやっても、昔の30勝だの40勝だのには、届かないのは仕方がない。
単純な勝ち星の数では、どうしても勝てるものではない。
しかしこの10年目のシーズンで、既に日米通算268勝目。
年に平均すれば、26.8勝以上。
もちろんMLBの、試合数が多くて登板間隔が短い、という条件もあったものであるが。
故障して引退というのを、せめて保存療法で二年ほど待っただけなら、まだまだ勝ち星は増えていたであろう。
そして驚くべきことは、全く衰えた様子を見せていない。
去年こそわずかに、一昨年よりは衰えていた。
だが今年はその去年より、数字が良くなっているのだ。
今日の試合も、奪った三振は12個である。
技巧派と思われがちで、それは間違っていないのだが、直史は三振も取れている。
武史が故障離脱したため、今年は投手五冠が濃厚。
今までもずっと、奪三振だけは上杉や武史に、優るところがないのだ。
もちろんそれは、三振を奪う必要さえなかった、ということも言えるのだが。
なお今日の球数は、92球である。
一人のランナーを出した程度なら、これぐらいの数字で収まるのだ。
フェニックスベンチは、どうにかパーフェクトを防いだことで、ほっと一息といったところか。
もはや心がけが、あまりにも低すぎる。
蘇るはずのフェニックスは、いつになったらその名前の通りに復活するのか。
さほどの人気球団でないと言っても、中京地区では唯一のプロ野球チーム。
またドーム球場もあるため、雨天で延期もまずないのだ。
だが名古屋ドームに関しては、昔から言われていることがある。
それはホームランが少ないから、野球ファンを集めにくい、というものである。
実際に名古屋ドームは、他の球場と比べて、ホームランが出にくいというデータは存在する。
昔などは、東京ドームではホームランが出にくく、甲子園では出やすい、などということも言われていたのだが。
実際に甲子園には、ラッキーゾーンなどというものもあったのだ。
センターまでと両翼まで、距離を計測しただけならば、確かに東京ドームは出にくく、甲子園は出やすいという結果になるだろう。
だが実際にはその逆で、東京ドームは出やすく、甲子園は出にくいのだ。
これは東京ドームの場合、空調の都合でホームランが出やすくなっている、と言われる。
そして甲子園は、確かにセンターラインと両翼までの距離は近いものの、右中間と左中間のところは丸くなって、スタンドに届きにくくなっているのだ。
なおMLBにおいては、これよりももっとえげつない、ホームランが出やすい球場がある。
これでオールスターまで含めて、直史は一週間以上お休みである。
もちろんそんな状況でも、毎日の調整は欠かさないのだが。
実際はオールスターまで、フェニックスとの残り二試合と、スターズ戦が残っている。
しかしフェニックスはボロボロにされたし、スターズも武史の離脱で士気が落ちている。
七月の頭の時点で、既に二桁を勝っていてくれていたピッチャー。
完投能力もあり、まず20個近くも貯金を作ってくれるピッチャーである。
そんなエースが離脱したのだ。
スターズには恥ずべき過去がある。
それは上杉が故障し、治療とリハビリに一年間ずつ、離脱していたシーズンの話だ。
この二年間でスターズは、セ・リーグで最下位にまで落ちていた。
だが上杉が復帰してくると、また次の年は二位にまで上昇したのだが。
絶対的なエースに依存しているチーム。
結果だけを見れば、そう思えなくもないチームなのだ。
ただ武史は上杉と違って、周囲を巻き込んで上昇していく、絶対的なカリスマがない。
それでも問答無用で、チームを勝たせる馬力はあったのだ。
既にスターズは、沈み込む様子を見せている。
武史は早くても、復帰は九月頃になる、と言われているのだ。
計算出来る試合が増えるのはいいことだ。
直史は根本的なところでは、プロ野球に愛着はない。
しかしやるからには勝ちたいという、厄介なところがあるピッチャーであるのだ。
そしてやるからには、優勝を狙っていく。
シーズン終盤やポストシーズンでは、えげつないぐらいにパーフェクトに近づいてくる。
そんな直史のピッチングに、もういい加減に引退してくれ、と思うバッターは多いだろう。
直史としても、引退するにはやぶさかではないのだ。
ただタイトルを取り続けている手前、ちょっとやめられないだけで。
マイケル・ジョーダンのように全盛期でやめるというわけにはいかないのだ。
そのジョーダンも二度目の現役復帰の時には、さすがに衰えを隠せなかった。
(もうすぐ夏の高校野球も始まるな)
大記録まで一歩届かなかったといっても、メンタルにはなんらダメージのない直史であった。
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