第151話 伊摯に会いに(2)

もうここ数日、部屋から出ていません。食事やのために出ることはありますが、それ以外はずっと部屋です。


「センパイ、料理の時間っすよ‥?」


及隶きゅうたいが呼んでくれますが、あたしは「やる気がないからいいや」と言って、机の上で突っ伏せてしまいます。しかし及隶はまだこっちへ歩いてきます。


「やっぱり、お嬢様のところへ帰るっすか?」

「ううん、大丈夫。結婚するのが嫌で逃げてきたんだから、今更戻るわけないじゃん」

「大丈夫じゃないっすよ。こんなセンパイ、初めて見たっす」

「はは、そうかもね‥」


と、あたしは無理に笑ってみせます。及隶はあきらめたらしく、部屋を出ていってしまいます。ドアが閉まったのを見て、あたしは今度はベッドで横になります。


「はぁ‥‥」


そこには、子履しりの水着が乱暴に置かれています。あたしはそれをつかみますが‥‥すぐに離します。


様、怒っているのかなあ‥‥」


横に並んで座っていると必ずすり寄ってきますし、あたしの腕を抱いて匂いをこすりつけてきますし。そのくすぐったいのが嫌だったのですが‥‥今では恋しいです。懐かしんでいるだけでしょうか。きっと懐かしんでいるだけです。そうだよ。そうだよね。いっときの感情に従って帰ってしまうと、せっかく掴みかけた幸福を逃してしまうかもしれません。なにより、あたしに子履のもとに戻る理由はないのです。

なのに、子履の水着、そしてあたしが漢字の練習に使ったノートを見ていると、悲しみがこみ上げてくるのです。このノートに文字を書いている間、子履はそばにいてくれて、字の書き間違いを教えてくれました。ページをめくると、書き損ねた字があちこちにあります。その一字一字にさいた時間が、あたしにとってはどうしようもなく長くて、一秒が一時間だったのかと思うくらいで。でもそれは今思うとあっという間でした。一時間になったはずの一秒が、今度は塵の散るほどの一瞬の思い出として残ります。


今戻ったら子履は許してくれるのでしょうか。あんな手紙を送ってしまったのですから、子履はきっと怒って、追い出してくるかもしれません。どうすれば許してくれるのでしょうか。一生子履のそばについていく奴隷のような存在になれば許してくれるのでしょうか。あたし、どうしてこんなところに逃げたんだろう。ただ思い出を懐かしんでいるだけなら、こんなに涙がでるはずはありません。分かっています。うすうす感じていました。でもその感情は誰にも話したことがありません。今までそれと矛盾する行動ばかりしてきました。こんなことを話しても、今更誰も納得してくれるはずがありません。帰りたいと言って帰ったところで、みんなはあたしを子履と会わせてくれるのでしょうか。そして子履はあたしを許してくれるのでしょうか。


◆ ◆ ◆


「‥あれが鄧苓とうりょうの屋敷ですね」


馬車から降りて、子履と任仲虺じんちゅうきは、肆の並ぶ中程度の通りの物陰に隠れて屋敷の様子をうかがっていました。道案内を頼んだ使用人たちには、もしものときに備えてそばに隠れてもらっています。


「もし」


後ろから呼ばれて、2人は振り返ります。見つかったか?‥‥と思ったのですが、それは知っている顔でした。


法彂ほうはつですか‥?」

「ああ、やっぱり子履さんだ。法彂です。そちらの方はご友人ですか?」

「はい、任仲虺と申します」


子履はましましと、法彂を不審者のように見つめています。


「法彂、なぜこのような場所にいるのですか?」

「ここに私の叔父おじの屋敷があるのです」

「叔父‥?」


と、子履は任仲虺と顔を見合わせます。


「あの、どうかしましたか?」

「その叔父はどのような名前ですか?」

「姓をとう、名をりょうと言います」

「氏が違いますが」

「前に鄧の国の伯をしていたことがありました」


ということは、鄧苓の甥とは法彂のことでしょうか。考えるより先に手が動いていました。子履は法彂の肩をつかんで、すがるように言います。


「あなたが私の摯を騙して婚約していたのですか!?」

「お、落ち着いてください!」


後ろから任仲虺が止めてきますし、法彂も「違います、落ち着いてください」となだめてきます。子履は後ろに引っ張られてからも口を結んで、法彂を睨んでいます。


「この近くでお茶でもしませんか?」


法彂がそう言ってきますので、子履は「‥‥そ、そういうことであれば‥」と言って、任仲虺と一緒に着いていきます。


◆ ◆ ◆


「そういうことだったのですね。計画したのは摯さんのほうだったのですね」


肆の席でこう言ったのは任仲虺の方でした。子履はずっと無言で、ぴくとも動かずに法彂の説明を聞いていたので、質問は任仲虺ばかりがしていました。


「はい。申し訳ございません、ことがことでしたのでこちらから連絡を差し上げることもできず」

「いいえ、おかまいなく。少なくとも、摯さんもはじめは本気でしたでしょうから」


任仲虺がフォローしますが、それでも法彂は子履を一度見た後はジュースを飲んで、そしてまた任仲虺を見ます。


「伊摯さんは、子履さんに会いたがっていると思いますよ。子履さんとの思い出の品を持ってきて、それを掴みながら泣いています」

「なら、なぜ戻られないのですか?」

「何度か呼びかけましたが、帰りたくないと言うのです」

「なぜでしょう?」

「さあ‥‥意地になっているのかもしれません」


任仲虺はふうとため息をついて、そしてかばんから一枚の紙を取り出します。


「それは、摯さんが斟鄩しんしんを去る時に残した置き手紙も関係していますか?」

「えっ‥そのようなことをされていたのですか。手紙にはどのようなことを書いておられて?」

「それが‥‥摯さんと履さんの間でだけ分かるような言葉を使っておられるようで、わたくしには読めませんでした」


と言って、任仲虺はささっとその紙をかばんに戻してから「ひどい自作自演ですね」と小声でつぶやきます。法彂は手を上げかけましたが、すぐ引っ込めます。


「ですが履さんの反応を見る限り、かなりひどいことが書かれているようでした」

「それは‥‥‥‥帰りたくても帰りたくないかもしれませんね」

「そこでお願いがあるのですが、履さんが摯さんに会いたがっていること、気持ちは変わっていないことを、摯さんに伝えてもらえますか?」


法彂は少し考えますが、「‥‥こうして裏で繋がってることを知ると、今度はここから逃げ出すかもしれませんね」と答えます。

すると、これまで石のように固まっていた子履がテーブルの上のジュースを手に持ちます。2人ともその手元に注目していましたが、子履はグラスを置くと、言いました。


「私が直接伝えたほうがいいのですか?」


法彂の話で、伊摯は内心まだ子履を想っているという確信は子履の中ではできていたのでしょう。できたとはいえ、普段は気弱な子履がそのようなことを言い出すとは思えません。


「‥怖くないのですか?」

「怖いですよ、仲虺ちゅうき。でも、いま摯と話せるのは私しかいないのでしょう。今の話を聞いて、自信がつきました。私と摯はきっと、不思議な糸で結ばれているのでしょう」


任仲虺は肩の力を抜いて、椅子にもたれます。法彂もくすりと笑ってうなずきます。

そのあと、軽く打ち合わせをしてから3人は屋敷に入ります。どうせ伊摯は部屋から出歩かないのです。簡単に応接室まで潜り込めました。

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