第245話 別れの悲しみ

「‥‥あっ!!」


あたしは反動で、上半身を起こします。

何度も何度も荒い息をつきます。

ここは水の中じゃない。掴んでいるのは布です。布団です。ベッドです。

冬だというのに、自分の手は汗びっしょりです。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ‥‥」


白い布団から、少しずつ周りを見回します。

空は、もうすっかり昼前になっています。

西洋風の窓から、透明な光が差し込んできています。

隣のベッドには、誰もいません。あたしが今着ているのは、寝巻き。

天井には、王の部屋にふさわしいきれいな絵画が描かれています。向こうには、1階の図書室に繋がる階段へのドアもあります。


「‥‥夢、か」


あたしの名前は伊摯いししょうの国の人です。この中国のようなヨーロッパのような、魔法もある異世界で、子履しりと婚約して、政治に関わったり、料理をしたりしながら生活しています。

少しずつ、自分の記憶を言葉に紡ぎます。

それだけ、あの夢は衝撃的で、明晰夢では片付けられず、まるで現実のように痛覚もある夢でした。はっきり記憶に残っています。そしてあたしは、あの夢が紛れもなく自分の前世の記憶であるという確信がありました。


夢の中で、きれいに思い出しました。あたしはあの時、死んでしまいました。雪子の目の前で、川に落ちて。


もう1つ思い出します。あたし、前世で雪子を愛していました。その雪子が生まれ変わった子履と、現世では婚約までいけました。あたしはもう一度、誰もいない隣のベッドを眺めました。自然と頬が緩んでしまいます。そういえば物産展が終わったら、あたしは単身、子履を迎えに行く予定でしたね。


ただ、1つ気になることがありました。


「何で、履様がいないのに‥‥?」


そうです。あたしはこれまでに何度も子履と一緒にデートする夢を見たことがありましたが、それらは全部、子履と一緒に寝ていたときのものです。‥‥まあ、気にしても仕方ありません。

せっかく何もかも思い出したのです。頭が少し混乱していますから、何かをして落ち着きましょう。これから子履を迎えに行く旅になるので忙しくなりますし。


そう思っていたところへ、ドアが開き、及隶きゅうたいが入ってきます。おにぎりとお茶も持ってきてくれています。朝の挨拶をしにきたかと思いきや‥‥及隶の第一声は、いつもと違っていました。


「ようやく思い出したっすね、センパイ‥‥またの名を、秋野あきの美樹みき


あたしは思わず、伸ばしていた脚を引っ込めます。


たい‥?」


及隶はいつも通りにっこり笑って、おぼんをテーブルの上に置きました。そして、振り返ります。‥‥いつもと違う表情をしてくると思いきや、にっこりはにかんでいます。よかった、あたしの聞き間違いだった‥‥。


「今までもセンパイたちに前世のことを思い出してもらいたくて、夢を見せていたっすよ」


えっ?


「でもセンパイがなかなか思い出さないまま今日という運命の日が来てしまったから、荒療治だったけど無理に思い出してもらうことにしたっす」

「えっ!?隶、何言ってるの?」

「及隶は仮の名前っす。本当の名前は、人皇じんこう。いにしえの三皇が一柱。泰皇たいこう、あと今まで通り隶と呼んで欲しいっす」


あたしには、及隶の言っていることが全く分かりません。あんな夢を見て頭が混乱しているところに、及隶からいきなりこんなことを言われます。訳が分かりません。


「隶、冗談かな‥?」


及隶はふふふっと少し笑って、それからどこかへ手招きします。すぐ及隶の隣に、索冥さくめいが現れました。


「索冥、元気っすか?」

『少し気が張る』


あっ。索冥は今まで子履としか喋っていなかったはずなのに。あたしとすら話してくれなかったのに。

索冥が姿を消すと、及隶はまたあたしと目を合わせます。


「信じてくれるっすか?」

「‥‥本当なんですね」


まだ半信半疑です。あたしに何年も付き添ってきた後輩が、神様だなんて。あたしがまだ信じていないのを及隶も悟ったようですが、「時間が惜しいっす」と、歩み寄ってきました。


「ベッドから降りて、着替えるっす。大切な話があるっす」

「わ‥分かりました」


あたしが降りたところで、及隶が箪笥の引き出しを開けます。「ああ‥‥あたしが全部やります」と言いますが、及隶は振り返って「今まで通りでいいっすよ、タメ口で」と微笑みます。それであたしの体の動きが鈍ります。


◆ ◆ ◆


テーブルに座って食事を平らげたあたしは、向かいに座っている及隶に尋ねます。


「それで、何?大切な話って?」

「陛下のことは好きっすか?」

「もちろん。あたしにとって一番大切な人だよ」

「センパイ。その陛下は今、牢獄に囚われているっす」

「‥‥えっ?」


子履が?あたしの大切な人が?あたしは耳を疑います。


「まさか‥様は王さまに会いに陽城ようじょうへ行ったはずだよ?」

「その夏王に捕まって、捕えられているっす。陛下は今、陽城の西にある夏台かだいにいるっす」

「え‥‥ええっ?」

「しかも、夏王が陛下の体を相当に傷め付けたらしいっす。陛下は今は虫の息で食事も与えられず、センパイが助けに来るという希望だけで命が繋がっているっす。もって7日で、かなり危険な状態っすよ」


あたしは体が硬直します。今日は何から何まで理解が追いつかないことばかり起こっていますが‥‥あたしの大切な大切な子履が、今、そんなことに‥‥?にわかに信じられません。まるでおとぎ話の中に閉じ込められたような、夢と現実の区別がつかないようなふわふわした気分です。

及隶はわずかに焦ったように、テーブルを軽く叩きます。


「隶が今朝、無理してあの刺激の強い夢を見せたのも‥どうしても今日までに全部思い出してもらわなければいけなかったのも‥‥すべて、命をかけて陛下を助けてもらう必要があったからっす。どうか信じて欲しいっす」

「‥‥‥‥」


あたしがまだ微妙な反応しかできないのを見ると、及隶はふうっとため息をつきます。


「‥センパイ。陛下がここを離れる前に、造花をもらったって言ってたっすね」

「‥あ、うん」


あたしは、自分のベッドの上に飾っている造花を見ます。水のない美しい花瓶に、しっかりと入っています。


「あれは何ていう花っすか?」

「ヒナゲシだよ。あたしが前世で履様にプレゼントしたのと同じ花」

「そのヒナゲシの花言葉は知っているっすか?」

「『いたわり』『思いやり』だよ」


花言葉という概念もこの世界にはなかったはずです。及隶はやっぱり、神様か何かでしょうか‥‥。


「他にもあるっす」

「えっ‥‥?『休む』?」

「他にもあるっす」

「わからないよ」


及隶は目を閉じて、うなずきます。


「『別れの悲しみ』」

「‥‥え?」

「ヒナゲシはまたの名を虞美人草ぐびじんそうというっす。センパイの前世の古代中国、(※西楚せいそ)の項籍こうせき(※項羽こうう)が垓下がいかの戦いで四面楚歌しめんそかで敗北を悟った時、項籍の女の虞美人ぐびじんは別れの歌を贈ったあと自殺したっす。死んだ虞美人を地面に埋めると、その傍らにこの虞美人草‥‥ヒナゲシが咲いていたっす」

「そんな‥‥」

「前世の歴史に詳しい陛下が、この花をセンパイに贈った意味は分かるっすね?」


及隶が、あたしのたじろく顔をしっかり見つめています。結論はひとつしかないというふうに。


今朝の夢にもあった最期の告白のときに、その花を見たときの雪子の表情‥‥夢の中の表情をはっきり思い出します。あれは驚きというよりも、わずかに恐怖も入っていたような気がします。


なのに、子履ははくを出発する時、あたしにこの花を送りました。そのうえで、絶対に戦争をしないでくださいと言いました。


子履は最初から、こうなることを分かっていたのです。

おそらく、子履が夏の牢獄に閉じ込められるのも、前世の歴史書に書いてあったのでしょう。

分かっていて、夏が商に攻め込む口実を作らないために、自分が大嫌いな戦争を起こさないために、みずから陽城へ行ったのです。


あたしは雪子のためにみずから死を選びました。

今、雪子があたしと国のために、死を選ぼうとしているのです。


「隶。もって7日って言ったよね?今からでも間に合う?」


気がつくと、あたしはテーブルから身を乗り出していました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る