第246話 薛を目指す(1)

ここから陽城ようじょうまで、馬車で急いで1週間はかかります。これだけならギリギリかもしれませんが、さらに王さまの許可をもらう過程、夏台かだいから子履しりを運んできてもらう過程を考えると、7日におさまるとは考えづらいです。


「間に合うっす」


及隶きゅうたいはそう断言しました。


「竜がいるっす。竜に乗って移動すれば間に合うっす」

「本当?どうやって乗るの?」

「焦らないっす」


及隶は椅子から飛び降りて、歩いて部屋を出ます。あたしもそれについていきます。


「いきなり陽城に行くわけではないっすよ」

「えっ、どういう意味?」

「陛下を帰してもらうには、協力してくれる人が必要っす。いさという時にセンパイを助けてくれる人が、2人必要っす」

「2人?誰と誰?」

「1人は任仲虺じんちゅうきっす」


それであたしは立ち止まります。


「待って。仲虺ちゅうき様は、せつの国にいるんだよ。薛はここから東のはいの地で、西にある陽城とは反対側だよ。間に合わなくなっちゃうんだけど」

「竜に乗れば間に合うっす」


あまりに及隶が平然と言うので、あたしはいろいろ言いたくなりますが‥‥やめておくことにしました。あたしはまた歩き出します。


「分かった。陽城に行く前にまず沛へ行くんだね。そして、もう1人は?」

姒臾じきっす」


あたしはもう一度立ち止まります。及隶が振り向くと、あたしは首を振りました。


「ごめん、それは無理。だって履様はあの人を‥‥」

「陛下の命とどっちが大事っすか?」


及隶は真剣な顔で、鋭い瞳をもってあたしを見つめます。あたしは背中がすぐみます。‥‥そうか、及隶は神様です。今日を選んであたしにあの夢を見させたのも及隶です。姒臾が必要になることも、おそらく、あらかじめ知っているのでしょう。


「分かった。腹をくぐる。姒臾は厨房にいると思うから、今から呼ぶね」

「分かったっす」


重い足取りで厨房に行ってみると、姒臾は鍋を見ていました。昼食の準備でしょう。あたしは近くの料理人に言って、姒臾を呼ばせます。厨房から出てきた姒臾は帽子を取って、「どうした」と乱暴な口調で尋ねます。

あたしは少しためらいますが、それでも子履の命には代えられません。


「姒臾、‥‥」


事情を説明しようと思いましたが‥‥あたしはこれから、陽城ではなく反対側の薛へ行きます。子履のことになると目の色を変える姒臾のことです。そのことに激昂するでしょう。薛でひととおりことを済ませてから、改めて用件を伝えるべきでしょう。


「あたしはこれから7日‥‥いや10日くらいこのはくを離れるんだけど、一緒に来て。上司命令だから」

「‥‥分かった」


姒臾は舌打ちもせず、頭を揺らして「他の奴らに言ってくる、ちょっと待ってろ」と言い残して、しばらく厨房に消えました。


◆ ◆ ◆


「竜はあの森の向こうに隠れているっす」


宮殿の立ち並ぶ丘の上で、及隶が亳の外れを指差しました。


「さあ、行こうか」


姒臾が言いますが‥‥あたしは、不意に思い出します。


「待って。もう1つ、行かなければいけないところがあったよ」

「えっ?」


姒臾だけでなく、及隶も驚いたようにこちらを見ます。


「‥時間がないのはよく分かってるっすよね?」

「分かってる。でも、ここを出発する前に会わなければいけない人がいるのを思い出したの。こういう時に助けてくれる人」

「‥それは隶の予定にないっす」

「それでも行く」


あたしはそう言って、くるっと反対側に走り出します。姒臾が「おい、どこに行くんだ」と及隶を抱えて、走ってついてきます。

時間はありません。すぐにでも薛に行きたいのですが、その前に‥‥なんとなく、絶対に会わなければいけない人がいる気がしたのです。


確か、こっち。こっちだ。こっちです。

年齢に差はあるのに身分の低い人扱いで、いつもはあちらのほうからあたしへ会いに来ていました。こちらからはほとんど行ったことがない家なのに、不思議と、あたしはその道をよく知っていました。まるであらかじめ、誰かに作られた運命のように。


前世日本でもたまにありそうな外観をした質素な家のドアを叩きます。すぐに使用人が顔を出します。


「はい、どちらさまでしょうか?」

「伊摯です。法芘ほうひ様にお会いしたいです。急ぎです」

「分かりました、ではこちらでお待ち下さい」

「その必要はない、俺はここだ」


法芘が使用人のすぐ後ろにいました。使用人はぎょっと驚いて「あわわ‥」と声を震わせていますが、とにかく時間がありません。「姒臾はここで待ってて」と足止めさせてから、後ろに聞こえないように口に手をつけます。


「履様が今、夏台かだいにとらわれています。なんとか助けられませんか?」


法芘は目を大きく開けますが、腕を組んで何かを考えてうなずきます。


「来い」


そこからは小走りです。2階にある法芘の部屋へ入ると、「待ってくれ」と言われます。法芘が机の上に竹簡を広げて、必死な顔で何かを書き込みます。法芘が真剣な顔をしているところ、あたしはおそらく見たことがないです。今までの法芘はだらけていて、ふざけていて、王をからかうような人でしたのに、今の法芘は目に火がついたように、懸命に何かを書いています。

「よし」と、その竹簡を丸めてひもで結び、法芘はそれをあたしに手渡します。


「これを、斟鄩しんしんにいる‥‥ああ、デブが陽城にいるなら一緒にいるだろう。陽城にいる、劉乂りゅうがいという奴に渡してくれ。俺の古い親友だ」

「はい、ありがとうございます」

「挨拶はいらん、急いでいるんだろう」


あたしが頭を下げかけたところで、法芘が割り込むように言ってきました。あたしは頭を上げると、「行ってきます」と残して、そこから走り出しました。

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