第244話 最期の夢(2)

キャンプ場の手前の入り口まで到着しました。他の観光客たちもわらわらと集まっています。


「大丈夫?寒くない?」


あたしはそれとなく雪子ゆきこに声をかけてみます。「はい、大丈夫です」という返事が来ましたので、あたしたちは他の観光客と一緒に並んで、山道を歩きます。

山は桜の残りもわずかにありましたが、ほとんどの木は新緑若葉をきれいに輝かせていました。もうすぐ暑くなりますね。ちょっと山道を進んだところで、すぐにまた開けた草原が広がっていました。キャンプ場はまだまだです。ここに、断崖絶壁に挟まれた大きな川があります。この川の向こうにあります。


本来ならこの川も観光の見ものだったのですが、あいにくおとといの雨がまだ残っていたようで、川幅いっぱいに濁流が流れています。あたしたちは他の観光客にまじって、見るからに小さくて心許なさそうな吊り橋を渡ります。


「この吊り橋は300年以上前に作られたものを、今もメンテナンスして維持しているらしいよ」

「私も聞きました。古いものには趣があって好きです」


振り返ると、雪子は手すり代わりの縄を持って、川‥というより濁流の景色を眺めていました。ふと、あたしは自分がかぶっていた帽子を雪子にかぶせてみます。


「えっ!?どうしたんですか?」

「はは、似合うかなと思って」


春だからと帽子をかぶっていなかったんでしょう。帽子を被った雪子の横顔はかっこいいです。なんでしょうね、帽子を被るだけで印象がぜんぜん違います。


◆ ◆ ◆


キャンプ場はここですが、お昼は弁当があるのでもう少し進んだところまで歩くことにしました。先に設営を始めちゃった人も多く、あたしと雪子と一緒に山を登っている人はまばらでした。


「雪子、大丈夫?」


石の階段で雪子が切れ目に引っかかってよろけて手すりを握ってたので、あたしは手を差し出します。雪子が握り返してきます。か細いけど、とてもかわいらしい手でぎゅっと握ってきます。

そっか、雪子、インドアだもんな。あたしも前の家ではインドアでしたけど、今の家になってからは出かける機会も増えています。雪子は相変わらず家の中に閉じこもって中国史の研究を今も続けているんですよね。


この調子だと少し心配でしたので、山の頂点ではなくもっと下の、神社のある原まで来て、ベンチに座って弁当を食べました。


美樹みきの料理はいつもおいしいですが、美しい景色を見ながらですといっそうおいしいです」

「ありがとう、そう言われるだけで救われるよ」


あたしの作った弁当を、雪子は満足そうに食べています。


「あたしの料理を一番うまそうに食べてくれるのは雪子だよ」

「ふふ」


雪子は食べながら少しはにかんで、そして「‥好きですから」と、ぼそりと言いました。あたしは思わず、雪子から顔を背けます。


「あ‥美樹の料理の味が好きです」


雪子が言い直しますが、あたしの心臓はまだ高鳴りしています。

そっか、今日、今日こそは雪子に告白するんでした。

ずっと一緒にいたい、と。

もし雪子が百合じゃなかったらどうしましょう。

あたしのことをただの友達としてしか見てくれなかったらどうしましょう。

不安はあります。でも、雪子と一歩進んだ関係になりたい。あたしはぎゅっと手を握りしめます。


◆ ◆ ◆


山から降りましたが、頂上まで進んでいなかったこともあって、まだ夕方というには遠いです。あたしと雪子は、キャンプの受付で借りてきたテントを張る場所を探します。


「夜はバーベキューにしようね」

「はい‥‥その」


あたしはいくらか進んだところで振り返ります。雪子が少し後ろの方で立ち止まっています。とある木の下でした。


「美樹。どうしても伝えたいことがあります‥」

「ん?」


あたしは振り返ります。

雪子は、握りこぶしを胸に当てて「あっ、あの‥」としか言いません。「あの‥やっぱり後にします」「分かった」


どきどきしました。

先に言われるかと思ってしまいました。でもあの様子‥‥雪子は内気で、周りの雰囲気に押されて、言いたいこともまともに言えない子です。いつものあたしなら雪子がきちんと話せるようになるまで何日も待ってあげるところですが、今日ばかりは雪子を待っていては、いつまでたっても自分の気持ちを伝えられないような気がしました。

今日伝えると決めたのはあたしです。強引でもいいです。


「あたしも雪子に伝えたいことがあるんだ」


雪子は、かばっと顔を上げます。帽子が少しずれます。頬を赤らめて、「何‥ですか?」と聞いてきます。


「どっちが先に言う?」


ちょっとからかい気味に尋ねてみますが、雪子はあたしから視線を伏せてしばらくもしもししたあと、「‥‥美樹からお願いします」と小声で言いました。

あたしはかばんから、オレンジ色の花を取り出します。かばんに花を普通に入れるとくちゃくちゃになってしまうので、硬い箱に入れていたものです。新聞紙を剥がして、両手で丁寧に雪子に差し出します。


「これは‥」

「初めてデートしたときに、あたしが雪子にあげた花だよ。覚えてる?」


それは、ヒナゲシの花でした。

告白で使う花をお店で買うのももったいないと思って自分で取ろうとしましたが日本での生息地が見当たらず、老夫婦が若い人をヨーロッパまでとばしてとらせようとしたのであたしが慌てて止めて、結局お店で買ったものですが、別の話にしましょう。


雪子は目を丸くして、あたしとわざとらしく視線を合わせないようにします。隙間からちらっと見える頬は、もみじのように真っ赤になっていました。

心臓の鼓動が、こちらまで聞こえてきます。


「あたし、雪子のことが‥‥」

「やーい、元太げんた、悔しかったらここまでこーい!」


後ろからいきなり走ってきた子供が、どんと雪子にぶつかります。謝りもせず、大声を出しながら駆けていきます。雰囲気が台無しです。どう取り繕いましょうかとあらためて雪子を見てみたら‥雪子の頭にあったはずの帽子がありません。雪子があたしの後ろを走っている子供を心配そうに見ています。


「あっ!」


振り返ります。さっきの子供が、雪子の帽子をかぶって走っています。


「待っててね!」


あたしはヒナゲシを雪子に押し付けて、「帽子を返して!」と走り出します。子供は笑いながら、川へ向かって走っています。


「悔しかったらここまでおいでー!」


と、子供が川へ帽子を投げます。

断崖で挟まれた川は、もちろん落ちないように、大人の腹の高さまでの木の柵があります。あたしはそれを握りしめて、足を載せて、もう1つの手を伸ばします。

帽子へ届く。届かない。届く。届けるんだ。指を懸命に伸ばして、人差し指と中指でそれを挟もうと――。


えっ?

地面が崩れて。

柵が倒れている。

嘘でしょ?

落ちる。

これ、やばい。


気がつくと、――腕が痛い。


あたしの腕が上から引っ張られています。

引っ張っているのは――雪子。あたしの腕を、必死の形相で掴んでいます。歯を食いしばっています。まともに話せそうにない顔です。

その雪子は、もう1つの手で何を掴んでいるのかと思いきや、崩れた崖から露出した木の根でした。崖の上では、子供が突っ立って泣いています。


‥‥揺れます。

よく見ると、雪子の掴んでいる木の根が、みししと音を立てて、少しずつ動いています。

2人を支える命綱としては、あまりに脆すぎることを意味します。

子供は泣いてばかりで、いっこうに大人を呼ぶ気配がありません。

あたしはしばらく考えました。目を閉じて、そして、かすかにうなずきます。


「離して」


雪子はぶんぶんと首を振ります。

説得しよう‥‥と思ったのですが、木の根を見ていると、どうにも時間は少なそうです。


あたしにとっていちばん大切な人。

あたしがいなくても、死にさえしなければ、きっと幸せに暮らしていけるはず。

そう信じて。


掴まれている手をはたきます。もう1つの手を振り上げて、強引に雪子の手を離します。

くらっと、そして、一気にあたしの体が落ちていきます。


「さよなら」


思いつく限り精一杯の笑顔を寄せて。

雪子の、悲鳴にもならない顔が見えます。どんどん小さく、遠くなっていきます。


全身を、冷たい水が襲いました。

冷たく、濁って、浅くて、深い。


あたしは、はっと目を見開きます。

眼の前にあるのは、に照らされた水面です。黄土色に染まっています。少しずつ暗くなっていきます。

あたし、この景色を覚えています。今まで一度も見たはずがないのに、この景色をとてもよく覚えています。まるで遠い昔、実際にこれを見ていたかのように。


思い出した。


どうして忘れていたんだろう。

あたしの名前は秋野美樹。19歳。

あたしは柏原雪子が好き。

自分もいじめられていたのに、親の虐待から逃げたあたしの心に陽をともしてくれた。

あたしの全てを肯定してくれた。かけがえのない時間を作ってくれた。

あたしにとって、この世界でなくてはならない人間。絶対大切にしなければいけない人間。

命に代えてでも守りたい人間。


「雪子!今度は絶対に守るから!!」


沈みゆく中で、流されて岩に何度もぶつかる中で、あたしは精一杯の声を張り上げて、訴えました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る