第243話 最期の夢(1)

あたしは物心ついた頃から、料理していました。

一日中、野菜の切り方、包丁の扱い、材料の理解、そして様々な料理をさせられていました。

あたしの母は有名ホテルのシェフ、父は海外で高級料理店を営んでおり、会うこともめったにありませんでした。家でずっと一人でした。


小学生になるころには毎日、とてつもない数のトレーニング項目が書かれたメモを見ながら、1人でキッチンにこもって練習していました。

火や刃物の扱い方はあらかじめ厳しく仕込まれていたので、子供でも大丈夫だと思われたのでしょう。

母が帰ってくるまでに1つでもできていないことがあると、殴られました。

1つでも出来の悪いものがあれば、頬をはたかれました。

食事を抜かれたこともありました。

生きるためには、ひたすら料理するしかありませんでした。


自分が作った料理を学校の同級生に振る舞ったこともありましたが、すぐ母から殴られました。

誇りを持って作った料理は、食べる人からお金を貰わなければいけないのです。


そんなこと、間違っています。

絶対に間違っています。


小学校や中学校の同級生は、あたしの境遇を理解し、慰めてくれました。

あたしの境遇を警察や相談所に訴えたこともありました。そのたびに家に帰され、母から殴られました。

同級生は、そんなあたしを支えてくれました。

あたしがここまで生きてこれたのは、まともな精神でいられたのは、同級生のおかげです。

でも両親は、都会に料理に特化した高専があるから、それを見据えて今から引っ越そうと言っていました。


中学3年生になる頃にはもう身も心もぼろぼろになって、ふらふらと家を出ました。

あてもなくヒッチハイクして、事情も話さずとにかく遠くへ連れて行ってもらいました。

子供1人をこんなに遠くまで乗せられるのは自分くらいだから、帰りたければここに連絡しなさいと言われ、メモを渡されました。あたしはそれを破り捨てました。


あたしは元の名前を捨てました。

身分が分かるものをすべて捨てました。


そうして、食べるものもなく道端にうずくまっていたのを、老夫婦に見つかりました。

老夫婦は身分証を偽造し、あたしの名前と過去を作ってくれました。

後でわかったのですが、その老夫婦は昔にヤクザをやっており、その繋がりが今もあったようです。

でもあたしに選択の余地はありませんでした。


料理も、親も、同級生も、今までの思い出も、全てを失ったあたしに、老夫婦は新しい名前をくれました。


あたしの新しい名前は、美樹。

秋野あきの美樹みき


◆ ◆ ◆


目覚まし時計が鳴ります。

あたしは慌てて、それを止めます。

いけません、遅れてはいけません。


今のあたしは大学2年生です。

今日はとても大切な日。

あたしにとって大切な人に、想いを伝えると決めた日です。


見知らぬ場所の高校に入って右も左もわからないあたしに、初めて料理をおいしいと言ってくれたのは誰でしたか。

あたしと同じようにつらい記憶を持っているのに、健気に生きてあたしに勇気をくれたのは誰でしたか。

高校で一人ぽっちだったあたしに、ずっと付き添ってくれたのは誰でしたか。


あたしには、もうその人しかいません。

その人なしでは生きていけません。


あたしは高校の時、よくその子のために弁当を作りました。

つらい記憶を、その子は消してくれました。

あたしが今も料理を続けられるのは、その子なしでは説明できません。

あたしの存在意義そのものですし、生きる価値です。

何があっても、その子のそばにいて、全力で守ります。


それを伝えるために、ここまで準備してきました。


◆ ◆ ◆


「パパ、ママ、いってきます!」


元ヤクザとは言え、老夫婦はあたしを大切に育ててくれました。本当はあたしと同じ年、同じ月、数日ほど早く生まれた長女がいたらしいのですが、すぐに死んでしまいました。美樹はその長女の名前らしいです。誕生日が近かったから書類の偽造も楽にできたらしくて。誕生日が数日変わるのは、あたしのつらい思い出と比べれば平気なことでしたし、老夫婦も本当の誕生日にあたしを祝ってくれました。

本当の親のことをパパ、ママと呼んだことはありません。大学生にもなってこの呼び方をするのは幼いと自分でも思いますが、絶対に手に入らないと思っていたものが目の前にあるのは、とても耐えきれないくらい素晴らしいことです。父親は車椅子に、母親は立っていますがもう年老いてまともに歩けません。老夫婦には若めの知り合い(どちらかといえば子分で、主従関係があるらしい)も多いですが、あたしもできるだけ助けてやりたいです。実際、あたしの作る料理は、あの老夫婦がどれだけ知り合いをかき集めても作れないくらい上手いらしいのです。つらい思い出はあるけど、誰かのために料理できる。誰かのために生きられる。それだけで幸せを感じていました。


でも、あたしの料理を食べて欲しい相手はもう1人います。今から、その大切な人と一緒にキャンプに行くのです。一晩泊まります。

そう思ってバス停へ歩いている途中で、近所の、やけに品揃えの古い電気屋の店前たなさきにある古いテレビが、ニュースを映し出していました。


『超有名シェフ夫妻の一人娘が6年前に行方不明になった事件について、夫妻は名古屋駅前でビラを配り情報提供を呼びかけました。行方不明になった東条とうじょう爽歌さやかちゃんは茶髪で、黄色にウサギのロゴが入ったトレーナー、青の長ズボンを着用していました。今生きていれば大学2年生くらいで‥‥』


あたしは少しの間立ち止まってしまいましたが、すぐにまた、早足でその場を去りました。念のため、かばんから取り出した帽子をかぶります。


あたしはバスに乗ります。この揺れる感じも心地良いものです。あたしはふと、窓を見ます。田舎町の風景、そしてあたしの顔がかすかに映っていました。あたしの顔には、あの『超有名シェフ夫妻』の面影が残っていますが、それももう済んだことです。

あたし、これからあの子に告白します。最初はここにいられるだけで贅沢だと思っていましたが、年月がたつうちに次第に慣れてしまいます。こうなると、本来の欲求が次々と出てしまうものです。


あたし、あの子とずっと一緒にいたい。


窓の背景に混ざる自分の顔にその想いを再確認して、あたしは小さくうなずきます。


緑色が少しずつ減っていき、建物が増えます。ある交差点の前で、バスが止まります。

ドアが開き、少女が入ってきました。

黒髪ロングで、身長は低く、おとなしそうな女の子。

あたしと同じ、大学2年生。

たまたま同じ大学に料理と世界史の学科が同居していたので、軽率に同じ場所を選んでしまいました。

学年も一緒。サークルや学科こそ違えと、共通の講義の時は一緒。そして、オフのときも一緒。

その名前は、柏原かしわら雪子ゆきこ


雪子は、あたしを見つけると笑顔になって、すぐ隣りに座ってきました。


「おはようございます、美樹」

「おはよう、雪子」


隣りに座ってくるだけで、心がぽかぽかしてきます。

‥‥あれ?今日の雪子はなんだか様子がおかしいです。頬がいつもより赤いです。


「ね‥熱でもあるの?」

「いえ、大丈夫です。少し緊張してしまって‥」

「そ、そう」


キャンプとはいえ2人で泊まるのは初めてです。あたしも緊張しています。

でもなぜか、バスを乗り換えてキャンプ場に到着するまで、あたしも雪子も不思議と何もしゃべっていませんでした。

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