第242話 子履入牢

ていに通されますが、子履しりは昼からずっと無言でした。最低限の会話もせず、ただ全てを御者に丸投げしていました。


「夕食でございます」


と、女の使用人たちが次々と食事を運んできます。もちろん豪華です。しかし子履の目には、それらは入ってきませんでした。

すぐに役人が部屋に入って、ゆうをします。


「失礼いたします。せつ伯がぜひ食事にご同席したいと」

「‥‥‥‥通してください」


さすがに外国の王様と一緒であれば、断るわけにも、喋らないわけにもいきません。子履は歯痒い思いをしながら椅子から立ち上がり、薛王のぶんの食事が運ばれてくるのを呆然と眺めていました。

すぐに薛王任礼嬦じんれいちゅうが入ってきました。行儀よく、上品に歩いてきていました。風貌は、2人の子を持つ美しい母であり、一国の王でもありました。


しょう伯の子履でございます」

「薛伯任礼嬦じんれいちゅうです」

「‥わたくしの娘から、あなたの話はよく聞いていますよ。歳も一緒ですし、惹かれ合うものがあるでしょう」


あとげなさが残る子履のお手本になるくらいきれいにゆうをして、子履の向かいの椅子に座りました。


「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。確かにわたくしのほうが歳は上ですが、あなたを尊敬しているのです」

「えっ?」


と、子履は顔を上げました。


斟鄩しんしんを襲ってきた竜を1人で倒したことがあったでしょう」

「あれは‥」

「天下に福をもたらす、強い力を持った竜が暴れて都市を襲い害をなしたところを追い返したあなたは、竜より高位の存在だとみなす向きもあるのです」


子履は黙りました。複雑な気持ちでした。子履にとっての主権、妺喜ばっきの身柄、どちらも譲れないものでした。しかしあの時に竜を焼き払った結果、夏の主権は守られましたが、妺喜の親は殺され、妺喜は夏后履癸かこうりきのものになってしまったのです。そのあとの夏の宮中で大きな騒動が続いている話は子履もよく聞いていましたが、あれが妺喜の仕業、ひいては遠因が自分にあると思えてならないのです。しかしそのことを任礼嬦に相談できるはずもなく、返せる言葉がありません。


「夏から多くの家臣が亡命したのだとか」

「それは薛の国も同様ですよね」


子履がそう言い返すと、任礼嬦はきょとんとした顔をして、食事の手を止めます。


「いいえ、半数以上がそちらに集まったとお伺いしましたか?」

「えっ?」

「確かにかなりの人が夏から逃げました。わたくしの国にも3人ほど参りました。でも、半分以上が商の国に集まっているのです。星のように多くの国がある中で、半数が1つの国に集中することの意味はお分かりですか?」

「そんな‥」

「有能な人が集まり、商の市場を発展させているのだとか。商の朝廷にも臨席しているでしょう?」

「はい、最近、2人ほど‥‥」


子履が言葉を選んで小声で答えると、任礼嬦は微笑みます。この世界ではテレビやインターネットとかいう便利なものもなく、隣国ならともかく九州きゅうしゅう(※ここでは中国全土をさす)各地の情報を集めるには、能動的に間諜を放ったりしなければいけないのです。前世の中国では説客ぜいかくといって、周辺の国を旅して各地の情報を集め、それぞれの国の王様に面会して有利な政策をく人がおり、そこから情報を得ることもできたのですが、それは三代さんだい(※夏・商いんしゅうの3つの伝説的な王朝をさして三代という)からさらに時代が下った春秋時代・戦国時代の話であって、この世界には存在しません。たまに食客しょっかく(※それぞれの家臣が有能だと思った民間人、学者などを、有事の際に助けてもらうことを意図して自分の屋敷に住まわせる文化、またはその人)から情報を得る程度です。


子履はてっきり、むらはあれとどこの国にも平等に亡命者がいると思っていました。自分の国は上ぶれしたほうだと思っていました。しかし今思い返すと、夏から亡命してきた家臣の人数に、この九州にある国の数を思いつく限り掛けただけでも、想像もつかない数字になってしまうのです。任礼嬦の言っていることは、もしかしたら本当かもしれません。

夏のことにとらわれすぎて、周りの国が見えていませんでしたね‥‥子履はそう反省し、小さくため息をつきました。同時に、自分がはくを離れるときからずっと持っていた懸念、根拠のない不安が膨らんでいくのを感じます。


任礼嬦はことりと、ナイフとフォークを皿に置きました。


「‥‥竜を倒しただけであれほど集まるのは想定外でしたが、他に理由がなかったかは気になりますね」

「‥‥亡命してきた人のほとんどは、私が斟鄩で面会した人でした」

「どうしてあれほどの人数と面会を?」

「夏王さまの政治を内側から正せないかと思い、家臣たちに期待したのです。全員に政治の話をしました。私が理想としている国はこうであって、夏は何をすれば現状を正せるかを」


任礼嬦は何度もまばたきしましたが、それから笑いました。今までの上品で落ち着いたものではなく、我慢できずに吹き出しているようでした。


「‥‥わたくしもぜひその面会の場に同席したかったですね。その御高説と竜を倒せるほどの実力が、皆を慕わせているのでしょう。次に王になるのならあなたがいいと言っている人も、わたくしの国におりました。あなたとお会いした夏の家臣のご友人だそうで」

「それは‥‥‥‥」


子履はまた表情を暗くします。


「もしかしたら次の王はあなたかもしれませんね。あなたの国には、それだけの力があります」

「それはありえません。諸侯が服従している相手は、今の夏王さまではありません。五帝ごていから禅譲を受け、徳を受け継いだ(※夏の始祖)に対してです。夏の王朝は、禹の徳そのものです。なので、その子孫がどれだけ無道だとしても、私たちは禹の遺したものを守る義務があります。それが秩序を守ることになり、発展につながるのです」


任礼嬦は何か言いたげに唇を動かしていましたが、「‥そうですね。それは正論だと思います」と言って食べ物を口に運び、それ以降は話を続けませんでした。


◆ ◆ ◆


翌日になりました。ちょうど、伊摯いしが物産展をひらいていた日と重なります。

先に任礼嬦が、それに続いて子履が、陽城ようじょうの宮殿の大広間に入りました。夏后履癸かこうりきの前まで来て、丁寧にはいをし、頭を深く下げます。


「薛伯礼嬦れいちゅうでございます」

「商伯でございます。お呼びにあずかり、参上いたしました」


一方の夏后履癸は、相変わらずではありますが、階段の上に玉座の代わりに置いているベッドで、隣に置いた妺喜と体をくっつけあっていました。そして、頬を真っ赤にしています。今年が始まってからまた半月、きっとつい先程まで酒を飲んでいたのでしょう。友人である妺喜があのような王の傍らにいること自体が子履には不快でしたが、表情に出さないようこらえます。

夏后履癸は、子履・任礼嬦の顔を見ると、急に激しく笑いだします。


「わしにあんなくだらん手紙をよこした奴らが、お前たちのようなメスだったなんてな。人は見かけによらぬものだ」


そして、片手で妺喜をぎゅっと強く抱いて、もう片手で2人を指差します。


「さて、早速と言えば何だが、お前たちは瓊宮けいきゅうの建設に人夫をよこさなかったうえに、祝賀会にも来なかった。それだけならまだいいのだが、あんな手紙をよこし、わしの尊厳を傷つけた。身に覚えがあるだろう」

「それは‥」

「口答えはいらぬ。そこのババアは大辟たいへきだ」


すぐに任礼嬦の周りに何人かの兵士が集まり、肩をすくい上げます。子履は突然のことにただただ右も左もわからぬまま、地面に手をついて、任礼嬦の様子を呆然と眺めていました。

上品でおとなしいと思っていた任礼嬦は、子履が目を疑うくらい手足をばたばたさせて、兵士の頬をはたいたりしますが、すぐに追加の兵士がそれすらも押さえてしまいます。


「陛下、待ってください!この子は見ての通りまだ幼いのです、あなたに忠誠を誓っています。きっと改心するでしょう、ですからこの子の命は‥‥!」


任礼嬦が何を言っているか、当の子履にはわかりませんでした。赤の他人の命乞いをする意味が、にわかには分かりませんでした。夏后履癸は、妺喜の頭を自分の肩に擦り付けながら笑います。


「もちろん、そのつもりだ。こいつは祝賀会に来なかったとは言え、三年の喪という大義名分がある。聖人ごっこは少々むかつくが、まあよかろう。釣台ちょうだいの牢獄で済ましてやる」


子履は血の気が引きます。この釣台は別名を夏台かだいといいます。これは五帝ごていしゅんより受け継がれ、の子のけいが諸侯をもてなし重要な政策の決定を行うために使っていたもので、啓の代より夏王朝が世襲によって受け継がれていくことが決定づけられた象徴でもあります(※当時は帝位は禅譲によって受け継ぐことが当たり前で、禹はえきに帝位を譲ろうとしたものの益が辞退して啓に譲った経緯もあり(異説あり)、啓が帝位を太康たいこうに譲ることで、中国史上初の世襲王朝となることが示された)。夏台は、陽城のすぐ西側(※現代中国の河南省かなんしょう禹州市うしゅうし付近か)にあります。

そこで、今まで黙っていた妺喜が口を開きます。小悪魔というよりは、階段の下にいる子履を文字とおり見下したような笑いでした。


「釣台に入れるだけでは足りぬのう。そうじゃろう、陛下?こやつは百叩きにして‥‥」

「妺喜もつまらぬことを言うのう」

「‥‥む?打ち合わせでは百叩きだったじゃろう?」

「わしもそう思っていたが、百叩きは他の奴も受けているだろう。貴人も貧民と同様の刑を受ける以上の話にはならぬ。こいつはわしを直接侮辱したのだ、それで足りるわけがないだろう」


夏后履癸は酔った勢いで大笑いします。それから、そこにいた家臣たちを指差します。


「おい、お前ら、もっと楽しい刑を考えろ。わしを楽しませたやつの人質を特別に解放してやる」


そう言われると家臣たちは案を出さないわけには行きません。あれや、これや、次々と耳を覆いたくなるような言葉が集まります。1つ1つ、すべて百叩きを軽く超えるような肉刑です。それを子履、そして、なぜか身を震わせ、目を大きく見開き、顔を真っ白にさせている妺喜が聞いていました。


「どれもこれもいいな。よし決めた、その案全部いっぺんにやってやろうじゃないか!」

「まっ、ま、待つのじゃ、陛下‥‥!」

「どうした、妺喜。全部やったからといって別にあのガキが死ぬわけではないぞ。ああ、お前も女だからグロいのは苦手なんだろう」

「ち、違うのじゃ、陛下は酔っておられるのじゃ、刑罰は後で決めるのがよかろう‥‥?」

「はっはっは、妺喜もかわいいのよう、よし、そいつらを連れて行け!」


兵士が、地面に座って石のように固まっている子履の腕を引っ張ります。子履が後ろに引きずられていきます。そのあとに黄色い液体が残っているのを見て、夏后履癸は指差して「わしの悪口を言うのに、自分のケアもできぬ愚か者ほど哀れなものはない」と大笑いしました。


そして次に、顔を真っ青にしている妺喜を見ます。妺喜は冷や汗を垂らしながらもぶつぶつと何かを唱えていましたが、同じことを繰り返し言っているようにも聞こえます。呪文を所々間違って言い直しているのでしょう。それが夏后履癸に理解できたかは定かでありませんが、すぐに自らの唇でそれを塞ぎ、ベッドに押し倒してしまいます。


「妺喜よ、恐怖で震えていたか?あれは重罪の人だ、罪を犯していないお前が気にすることなど何もない。わしは罪を犯さぬ人には優しい王だ、安心しろ」


こう言って、夏后履癸は家臣たちの目の前で、何度も何度も妺喜の口をみずからのそれでふさぎます。


この日、任礼嬦は斬首され、子履は夏台に閉じ込められました。

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