第254話 薛、滅ぶ(6)

嬀穣きじょうの言っていたとおりでした。の兵士とせつの兵士が戦っている間を、そっとすり抜けます。誰もあたしたちのことを気にしません。他の民間人は家から出られず震えているのに、まして兵士たちにとっての敵将にあたる任仲虺じんちゅうきがここにいるのに、まるで誰も気にしないのです。万が一敵に見つかったときのために任仲虺の鎧を着せたままにしていましたが、今は鎧のせいで敵に気づかれるのではないかと心配してしまうほどです。

嬀穣が姿を隠す魔法を使っている間、声を上げず、物音もなるべく立てない約束でした。あたしは前を歩く嬀穣についていきます。

大軍の隙間をすり抜けます。やがて都心部を抜け、建物の並んでいるところを抜け、街を抜け、近くの山のふもとまで着いていました。ああ、この山、姒臾じきを置いていった山ですね。そのまま山に登ります。


いくらか登ったところで、開けた場所まで着きました。はいの様子が気になったので、あたしはふと後ろを振り返って、「‥‥あっ」と声を漏らします。


振り返った瞬間に光だと思っていたものは‥‥やはり、炎でした。沛の中心部にあるあちこちの建物が、勢いよく燃えています。それだけでも、薛の敗北を悟るには十分でした。おそらくあたしが今背負っている任仲虺じんちゅうきは、薛の生き残りとして命を狙われることになるでしょう。


「‥‥!!」


あたしは目を大きく見開きます。あの大きく燃えている建物‥見覚えがあります。あれはまだ学園の1年生だった時、伊水いすい洛水らくすいが合流する場所まで行って神の加護を受けようとした時に見た、目の前の屋敷が燃えている夢(※第74話)のことが、鮮明に脳裏に浮かびます。あの時は商丘しょうきゅうにあるのとはちょっと違うデザインの屋敷が燃えているという感想でしたが‥‥今見ると、あの建物は夢のものと本当に似ているように思えるのです。薛の後宮に入る直前のあの既視感‥‥間違いありません。あの夢は、薛の屋敷のことだったのです。

同時に、あたしはとんでもないことを思い出します。


夢の中でその屋敷が燃えている時、あたしのそばにいた子履はどうなっていたのですか‥‥?

腕も脚もなく‥‥。

あたしは背筋が凍ります。

まさか。

あれは違う。夢だ。信じたくない。


でも‥及隶きゅうたいが確かに言っていました。

子履の体は相当傷めつけられているらしい。もって7日間と。

信じたくない。

あたしの体が、小刻みに震えます。


「‥‥っ」


耳元で舌を打つ音が聞こえました。


「‥なぜわたくしはここにいるのですか?沛に戻らないと‥」


任仲虺があたしの背中から降りましたので、あたしはその腕を掴みます。


「離してください。わたくしは姉上と一緒に戦わないと!」

「落ち着いてください。あれを見て任絶伯じんせっぱく様がまだ生きていると思うのですか?」

「姉上は生きています。絶対に生きています。もしものことがあれば、わたくしは薛とともに死にます!」


任仲虺は目に涙を浮かべて、必死の様相でした。その手首を掴むのがあたしでなければ、きっと今頃逃げられていたでしょう。


「仲虺様は、薛の国の生き残りです。あなたさえ生きていれば、薛はいつか復活します。今ここで命を捨てれば、できることもできなくなってしまいます!それに、仲虺様がいなければ誰がご先祖様の祭祀をするのでしょうか?」


説得って確か、相手にとってメリットになることを主張すればいいのですよね。薛の復活はとっさに出てきてしまった言葉ですが――沛めかけて走ろうとしていた任仲虺が足を止めて、あたしの手が引かれる力もゆるくなっていきます。


「‥伊摯いしさんも、さんも協力してくれるのですか?」

「あたしは大丈夫ですが‥いえ、あたしは協力します!」

「歯切れの悪い返事ですね。‥‥でも履さんならば、昔からの付き合いですしきっと助けてくださるでしょう。信じますからね」


あー‥‥。あたしとすれ違う形で山道を登った任仲虺は、「それで、どこへ向かうのですか?」と振り返ってきます。

言わなければいけません。伝えなければいけません。明日の朝には竜が来ますから、伝えるなら――今夜でしょう。


◆ ◆ ◆


山の中腹にまた開けた場所があって、そこで姒臾がひとり焚き火していました。あたし、任仲虺、嬀穣がまとめて姿を現すと、姒臾はすぐそこを指差しました。いのししが何頭か転がっていました。


「狩りのときに体を中から燃やしてやった。こう見えて中は変わっているかもしれん」

「ありがとう、姒臾」


貴族も道楽として狩りをたしなみます。その経験が生きたのでしょう。の魔法を使って、動物の体の中だけを燃やしたようです。確かに体表を燃やすよりも山火事のリスクがなく安全に見えます。


あたしたちは焚き火を囲んで座ります。肉を刺した棒を地面に突き刺して焼きます。


「仲虺様、嬀穣様、そして姒臾。あたしは一週間ほど商丘しょうきゅうを離れると言いましたが、この旅の目的を話します。大切な話ですが、落ち着いて聞いてください」


あたしは片っ端から説明しました。

子履しり陽城ようじょうまで行き、夏台かだいに幽閉されたこと。

子履の体は傷めつけられ、命はもって7日‥明日の朝から数えると5日であること。

それを泰皇たいこうから告げられたこと。

商丘からここまで竜に乗って移動したし、明日もここに竜がやってきて陽城まで運んでくれること。


及隶が泰皇ということは伝えませんでしたが、商丘に戻ったら相談してみましょう。


「なぜ朝まで待たなければいけないんだ!今すぐ竜を呼んでこい!時間がないのだろう!」


案の定、姒臾があたしの肩を掴んできます。

もちろん、あたしもそうしたいです。でも竜の上で眠ってしまうと落ちるかもしれないこと、過去にそういう人が何人もいたと竜から聞かされたことを伝えると、しぶしぶ黙って戻りました。

それよりも任仲虺は‥‥。任仲虺は確かに薛の復活への望みをあたしたちに託しましたが、それは子履が健在であることが前提でした。おそるおそる振り向いてみると‥‥火を見つめてなにか考え込んでいる様子でした。


「‥さん」

「は、はいっ」


任仲虺は真剣な顔で、顔の半分を火に照らされながら、眉間に力を込めて話しました。


「わたくしは薛の国のために命を捨てるつもりでした。あなたの覚悟がそれに釣り合わないと感じたら、すぐにでも夏の人を殺してわたくしも死にます」

「あたしにも覚悟があります。‥‥実はあたし、この旅に出る前に泰皇から教えてもらって、前世のことを思い出しました。前世からずっと、あたしと履様は強い力で結ばれていました。仲虺様と同じように、履様のために全てを捨てる覚悟はあります」


本当は任仲虺と任絶伯も見て学んだことです。

あたしは雪子ゆきこ‥‥そして、子履が好き。子履はあたしの人生そのものです。子履があたしのために命を捨てようとしているのなら、あたしは全力で抗います。どんな手を使ってでも。

そして――全てが終わったあとで、あたしは子履に伝えなければいけないことがあります。前世で雪子に伝えられなかった、大切な言葉。長い苦しみの時間に終わりを告げ、これまでにない幸福の時間を紡ぎ出すための、唯一にして最大の関門になる言葉を。


前世と夏台の苦難を乗り越え、二人で新しい人生を歩むために必要な言葉を。




★近況ノートにも記載した通り、一部用語や設定を第1話から全部見直します。当面の間、過去の話と整合性が取れない状態になります。作業には数ヶ月かかります。

https://kakuyomu.jp/users/kmycode/news/16818093074579306522

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