第253話 薛、滅ぶ(5)
あたしが料理を運ぼうとしたらさすがに使用人に止められたので、着替えて食事室に行ったはいいのですが、そこで待ち構えていた使用人に案内されて、食事室の代わりにおそるおそる
あたしはぎょっとして、部屋の入り口で立ち止まります。質素ながらも上品さを感じさせるデザインの西洋風家具、整理整頓された部屋の中央に大きな楕円のテーブルが置かれてあって、そこに座っていた2人の少女は、いずれも鎧を身に着けていました。任絶伯のほうは額から血を流しています。
「武装のままで失礼します」
あたしが挨拶するより先に、任絶伯はさみしげに微笑みました。
あたしと
「いいえ、あたしの間が悪いのが原因で‥」
「それでもあなたをここに無理やり留めたのはわたくしです」
「でも‥」
こちらにとっても利益になることなので、と言いかけましたがこらえます。と、間にいる任仲虺が割り込んできます。
「姉上、食べましょう。早く食べて指揮に戻るべきです」
「‥指揮って‥」
「はい。
なんとなく予感はしていました。貴族向けのしっかり窓の閉められた部屋にいた時はともかく、平民向けの粗末な作りの厨房にいると外からの声がたまに入ってくるのです。料理の途中、外で何かがぶつかる音、倒れる音がかすかに聞こえてきました。あたしはぞくっと身を震わせます。
これが戦争。あたしの今いるそばで、人の命のやり取りが行われているのです。現に2人も、身に鎧をつけています。少しずつ、少しずつ、
‥‥でも、諦めたくない。
「
「徹底抗戦します」
「もし夏に負けてしまったら?」
「その時は、薛のために喜んで死にます」
任仲虺は真顔で、しっかりとあたしの目を見て、はっきりした声で答えました。その眉間にどれだけの覚悟がこめられているか――いえ。
「わたくしは、この薛の国で生まれ育ちました。素晴らしい母上や姉上、そして薛の民とともに生きるのがわたくしの王族としての使命です。わたくしは、この薛そのものです。なので薛が滅ぶのなら、それは自分の死でもあります。覚悟はできています」
それから任仲虺は、金属のこすりつけ合う音を立てながら、あたしの手を握ります。
「
「その履様が‥‥、」
あたしは反動的に唇を噛み締めました。ごめんなさい、今この場で言っても話がややこしくなるだけですね。ぷいっと顔を背けて早食いする任仲虺を見て、あたしはすぐに後悔しました。遠慮すべきではありませんでした。今言えないと、一生後悔します。大きく息を吸って、「実は‥」と言いかけます。
と、その向こうにいる任絶伯が小さく手招きしているのに気づきます。あたしかと思いましたが、任仲虺の方でした。
「どうしましたか、姉上」
「これを飲んでください」
「これは‥でも‥」
「どの食事が最後になるかは、分かり切っていることでしょう」
任絶伯はグラスにジュースを注ぎます。そして、任仲虺の前に突き出します。
「飲みなさい。あっ、伊摯さん、これは林檎のジュースです。仲虺が子供の時から好きだったものです。覚えてくださいね」
そういえば厨房にいたとき、料理人の1人がこれを作っていたような気がします。任仲虺はつばを飲み込んで、「それではいただきます」とグラスを高く掲げ、それから一気に飲みます。
後戻りしない、その覚悟を示すかのように。
仕方ありません。ここまできたらあたしも強硬手段です。今日の午前に
‥‥ん?
任仲虺の頭が、くらくらと振れ始めます。
「姉上、こ、これっ‥」
何かをごまかすようにどんとテーブルを叩いて立ち上がりますが‥すぐに腰が曲がって、膝が曲がって、ふらふらと崩れるように後ろに倒れます。
「仲虺様!?」
あたしがその体をゆすりますが、反応はありません。林檎のジュースを飲んだ直後に倒れて、つまりあのジュースには毒が‥‥。
「‥‥任絶伯様、あなたは‥」
しかし任絶伯の反応は、あたしの思ったものではありませんでした。任絶伯は確かに笑っていましたが、その目元からは儚さ、寂しさを感じ取りました。そして、あたしの目を見ていません。ずっと任仲虺を見下ろして、そして地面に膝をついてあたしと目線の高さを合わせます。
「伊摯さん」
「毒を盛ったのですか‥?」
「極度に効き目のすごい睡眠薬と説明されました。伊摯さん、あなたは仲虺をここから連れ出しに来たのですよね?」
「えっ‥‥?」
あたしは目を丸くして、「どうしてそれを‥」と口に出します。
「仲虺を連れて、ここから逃げてください」
迷いのない、はっきりした声でした。
あたしは手を握りしめます。
任仲虺も任絶伯も覚悟を持っているのに、あたしが今更怖気つくことはできません。
「‥‥分かりました」
そう言ってあたしは立ち上がります。
「
「お任せください」
「あたしも嬀穣様についていっても?」
「もちろんです」
その一往復のやり取りで決めた後、あたしははっと思い出して、後ろを向きます。任絶伯はまだ佇んでいて、任仲虺の顔を見つめていました。「大きくなりましたね、仲虺」と、頬を撫でています。
「任絶伯様、あなたはこれからどうなさるのですか?」
「私は食べ終わった後、戦場の指揮に戻ります」
「もし負けたらどうなさるのですか‥‥?」
あたしの質問に任絶伯は微笑んで、口の前に人差し指を立てます。「それは言わない約束にしましょう」と。
直感しました。あたしと任絶伯はほとんど交流がありませんが、この笑顔を見られるのは、きっとこれが最後です。
今のあたしに必要なのは任仲虺です。任絶伯ではありません。
それなのに、自分の体が動きません。
きっと任絶伯を説得しても、任仲虺と同じ返事をするでしょう。任仲虺ですら説得できなかったのに、その任絶伯を説得できるのは一体誰なのでしょうか。
「伊摯様、行きましょう」
嬀穣が見かねたのか、後ろから声をかけてきます。
「そうですね、敵は早ければ深夜にはこの屋敷までたどり着くでしょう」
「時間はありません、伊摯様」
そこまで言われてようやくあたしは「はい」とうなずきます。かける言葉も分かりません。ぷいっと任絶伯に背中を向けると嬀穣が「ご武運をお祈り申し上げます」と丁寧に頭を下げたので、あたしも慌てて「ご武運をお祈りします」と言い残します。
任仲虺の鎧は重いですが、平民あがりのあたしには体力があります。ひょいっとあたしの背中に乗せます。うわ、重い。でも、任仲虺を運べないと、子履が死んでしまうかもしれません。運べる運べないじゃないです。運びます。これはあたしの覚悟です。
あたしは後ろを振り返らないように、その部屋を出ました。
ただ1人、部屋に取り残された任絶伯はふうっとため息をついて、それから微笑みます。
「‥これでよかったんですよね?
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