第252話 薛、滅ぶ(4)
この厨房で唯一、外国の貴族なうえに、髪の毛を頭巾で隠してマスクを付けているあたしは、やっぱり周囲の料理人からしても浮いています。情報過多です。薛の王族の大切なお客様ですから、そういう意味でも浮いています。隅っこのテーブルを借りたのに、周りの料理人たちがしろしろあたしを見ています。
いちいち気にしても仕方ありません。包丁の握り心地は‥悪くはないですね。ただ、重心が少し手元側に偏っているように見えます。刃はわずかに欠けています。普通の料理人なら気にしないレベルでしょう。
これまではまな板の状態など細かいところは確認してませんでしたが、前世の記憶が鮮明になってくると視点も変わってきます。
「あ、あのっ、私はどうすれば‥‥?」
あ、
おとといまでのあたしだったら、料理しながら平気で会話できていました。でも今のあたしは‥‥料理は集中して真摯にやらなければいけないという謎の意思を感じています。これも前世から受け継いできたものでしょうか。‥‥いやいや、今は時間がありません。そんな場合ではありません。
「嬀穣様、まずあたしみたいにタオルで口を巻いてください。‥‥巻けましたか?それなら質問しますけど」
あたしは人参の皮を手付きよく包丁で剥がしながら聞きます。
「嬀穣様は山におられたんですよね?どうやってここまで来たのですか?」
「あわわ、
「そういうことができるのですか?」
「あっ、はい、じ、実は私、生まれつき気配を消すことができるようで‥‥」
ん、気配を消す?生まれつき?
あたしは人参を大根と入れ替えて、皮を剥き始めます。
「いくら気配を消すことができても、さすがに軍隊の中を通ることはできないでしょう」
「あっ‥あの、魔法です」
「そういう魔法は、五行のどれにも属しないと思います」
「あっ、あ、あっ‥‥そうですよね‥‥」
嬀穣は肩を落としてしょんぼりしていました。それを一瞥したあたしは、
「どの属性の魔法か分かりますか?」
「それが‥私にも分かりません」
沈黙が流れます。自分の魔法の属性を言えないなんて‥‥と思ったあたしは、考え直しました。何年か前、
「嬀穣様が使うことのできる魔法は、どの属性のものが多いですか?」
「分かりません」
あたしは手際よく人参を切りながら、しばらく考えていました。これは追及に時間がかかると直感しました。今わかっていることは、嬀穣は気配を消すという『魔法』が使えること。今はもう、それで十分ではないでしょうか。
ここは薛の国。あたしは任仲虺を連れ出すかどうかの判断を迫られているのです。この薛の国に残された時間はもうそんなにありません。それを考えるのが先です。
‥‥相談。嬀穣をどこまで信用していいかは分かりませんが、聞ける相手はもうこの人しかいません。
「嬀穣様、せっかくですから相談に乗ってもらえませんか?」
「は、はいっ、私でよければ‥‥!」
あたしは包丁を新しいものと取り替えて、肉を切りながら一連の事情を説明します。そういえば
「連れ出すべきです。
あたしは思わず包丁を止めました。さっきまでおどおどしていた嬀穣が、急に語気を強めてきたのです。
「‥‥あ、あっ、あの、わ、私、普段から恋愛小説を読んでいて、涙もろくて‥‥っ」
あ、いつもの嬀穣に戻りましたね。あたしは野菜を鍋に入れます。
◆ ◆ ◆
ともかくこれでふんぎりがつきました。鍋の中をかき混ぜます。ふと周りの様子を見ていると‥‥料理人たちが総員、ぽかーんとあたしに視線を集めています。もちろん料理は進んでいるようですが、明らかに遅れています。
「みなさん、料理はされないのでしょうか?」
「あ、いえ‥なんでもありません」
と言って料理人たちが慌てて持ち場に戻って作業を続けます。
鍋を見ていると、後ろから小声が漏れます。
「あの人は何者なんだ、包丁さばきが神がかっている」
「本当に貴族なのか?」
「平民でもあんなのは見たことがないぞ」
‥‥ああ、前世の記憶がきれいに戻ってしまったから料理の手付きも無意識に変わってしまったかもしれません。
‥‥ん、そういえば自分で作った鍋の味をまだ見ていません。無意識とはいえ調味料の配合をからりと変えてしまったので、味も気になります。小皿をとって、羹の汁を掬って軽く飲みます。
‥‥えっ。自分でもはっきり分かるくらい、明らかに味が変わっていました。これ、本当にあたしの味ですか?いえ、勘違いの可能性も。
あたしはひとつゆっくりまばたきして、小皿を近くにいた料理人に突き出します。
「飲んでみますか?」
「はっ、はい」
言われるがままにその人はあたしの鍋の汁を飲んで‥‥それから土下座して「弟子にしてください!」と大声で叫びます。えっ、そこまでですか‥‥?料理人が何度も地面に頭をぶつけるので、あたしはため息をつきます。
「まず、床のゴミが料理に入ったら困るのでそこまでにしてください」
「は、はいっ‥!」
「えっと、あたしに弟子入りって‥‥ここの仕事もありますよね‥‥?」
「お言葉ですが、我々はもうすぐここでの仕事を失うでしょう。殺されるかもしれません。せめて、あなたのような素晴らしいお方の弟子として死にたいのです。素晴らしいお方に弟子として認められることは、我々にとっても名誉でございます。今ここで出会えたのは
厨房を見回して、他の料理人たちとも目を合わせてみます。他の人たちももれなく、この人と同じ目つきをしていました。あたしにとって迷惑であることは相手にも分かっていると思います。それを含めて考えても、少しでも刺激したら爆発しそうな目つきです。困ったな‥‥。
と思っていると、廊下の方からばたばた足音が聞こえてきます。何種類かの声も聞こえてきます。
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