第255話 広萌真人の薬

あたしたち4人を乗せた竜が山を出発し、陽城ようじょうへ向かいます。一日半かかるらしいです。ということは、陽城に到着した時点で残り3日半です。商丘しょうきゅうへ戻って及隶きゅうたいに見てもらう時間も考えると、実際の猶予は3日もありません。

ふと、任仲虺じんちゅうきがあたしに尋ねます。任仲虺も竜の上ではさすがに重い鎧は着れないので、竜に乗る前に鎧を脱いで山の中に隠しています。


「手土産はありますか?」

「えっ?」

「これから帝に、さんの罪を許してもらうようお願いしに行くのです。何か宝物を贈るのが自然でしょう」

「え?そういうものなのですか‥?」


任仲虺が目を細めます。あたしはたらたら冷や汗を流します。


「‥‥考えてなかったのですか?」

「あ、いや、あ、あの、えっと‥‥」

「はぁ‥‥いったん商丘に戻って贈り物をまとめますか?」


どうしましょう。でもそうすると時間のロスが、と思っていた矢先に竜が少しだけこちらを振り向きました。


『その必要はない。劉乂りゅうがいへ渡す手紙を持っているのだろう?それで十分だ』

「えっ‥?」

「本当ですか?」


とっさに任仲虺が割り込んできます。


「なぜそう言い切れるのですか?」

広萌こうぼう真人がそう言っていた』

「広萌真人とは誰ですか?」

たい山におられる真人だ。2人の弟子を持ち、九州に多数の協力者を持ち、俺を含めて72頭の竜を養い、この世界のすべてを知っておられ、あらゆる魔法を誰よりも巧みに操る、神に近い存在だ。お前たちも近いうちに会うことになるだろう』

「‥信じていいのですか?」

『もちろん』


任仲虺は「分かりました」と、体を引っ込めます。「食いつきますね‥」とあたしが思わずこぼしてしまうと、「履さんを助けることは、せつの国の運命も左右しかねませんので」と返してきます。それはそうでした。失礼なことを言ってしまいました。


◆ ◆ ◆


陽城ようじょうの大通りを、また馬車が通ります。その馬車の前に、ふらふらと2人の、棒のようになった男が立ちはだかります。それで馬車が止められます。


「どうした」


馬車の主である羊玄ようげんが御者に尋ねます。


「それが、2人の物乞いが馬車の前に立ちはだかっております」

「追い払え、無理なら切り捨てろ」


その主の言葉に、慌てて隣りに座っている虞庵ぐあんが言います。


、それはまずいです。夏の右相うしょうともあろうお方が乞食を切り捨てると、のちのち問題になります」

「わしは乞食を見捨てるとは言っていない。あの2人を今助けるなら、その周りにおる無数の病人も助けなければならない。そのためには莫大な食料が必要だ。今、手元にそのようなものはない。宮殿に戻ってそれらを一通り用意してから、改めて施すべきだ」

「2人だけでも助けられるのなら、そうすべきではありませんか?」

「いいや、政治というものは常に平等であるべきだ。あの2人を助けるとそれ以外全員を見捨てることになる。そもそも先に助けるべきは、立ち上がる力が残っているあの2人ではない。餓死寸前で道に横たわっている大量の人々だ。目先のものにとらわれ、優先順位を間違っているということだ。気の毒だがここは無視して、わしが宮殿に戻り全員に行き届く大量の物資を用意し、万民に平等に施すのが正解である」


そして、「十分な物資もないのにわずかな食べ物をばらまくことこそ、愚かというものだ。貧民同士の争いを生み、後年のわざわいになる。分かったら追い払え」と付け加えました。御者や、馬車の後ろを歩いていた何人かの従者たちが出てきて「今施すものはない、道を開けろ」と言いますが、乞食は「ああ‥」と、ろれつの回らないかすれかすれの声で返事します。


「まえ‥きた‥馬車‥‥、米‥くれた‥‥」

「うちの馬車にそのようなものはない」

「く‥れ‥‥」

「邪魔だ」


従者はその腹を殴ります。物乞いの片方が胃液を吐いて倒れ、もう1人はふらふらと横によけて、ばたりと倒れます。

馬車はそのまま進みます。羊玄は「気の毒だが、待ってもらうより他にない」と、持っていた杖を固く握りしめます。


◆ ◆ ◆


そのころ、後宮の一室に閉じこもって、必死に薬草をすりつぶしている人がいました。妺喜ばっきでした。汗をたらたら流して、「はぁっ、はぁっ‥」と荒い息をつきながら、とにかく木でできた棒を使って、大きな皿の上の薬草を細かくすりつぶします。

早く薬を作らないと、助けないと、と妺喜はうわごとのようにつぶやいていました。


「そんなものでしょう伯が助かるはずないだろう」


妺喜はとっさに振り向きます。背後には‥1人の白髪の老人が、杖をついて立っていました。


「誰じゃ、おぬしは‥?」

「貸せ」

「あっ」


老人はしゃがんでその道具を横取りすると、「ふむ、この材料は良くはないが悪くもない」とつぶやくと、それの上に手をかざします。淡い白い光が現れたかと思うとすぐに棒を掴み、慣れた手付きでそれをくるくる回して、薬草をどんどん汁と破片だけにしていきます。

妺喜が割り込む隙もなく、まるでそれが当たり前化のように、老人はぶつぶつと呪文を唱えて魔力を込めながら薬を作ります。


「おぬしは何者じゃ‥?」


しかし老人は無視して、袖からひとつの瓶を取り出すとその中身を皿の中にぶちまけ、ひとつかみ掴んで丸めます。

黒い大きいがん(※漢方薬の一種で、薬を蜂蜜などを用いて小さいボールのように固めたもの。薬の成分に揮発しやすいものが含まれる時によく使われる)が3つできました。


「いいか、この3つのうち1つは‥」

「だからおぬしは何者じゃ!質問に答えろ!」


そばから何度も声をかけては無視されてきた妺喜が、ひとぎわ大きい声を張り上げます。そこでやっと、老人は名乗ります。


「わしはたい山の広萌真人だ」

「‥本当に真人なのか?わらわの大切な薬をこんなにしよって‥」

「お前こそ、自分が何をしたのか分かってるのか?まあ、しょうの恨みを買って反乱を起こさせる作戦としてはいい線をいっているのだがな。お前が今作っていたのは商伯向けの薬だろう。この世界にあるものだけを使って商伯が元に戻るわけがないだろう。だからわしが少々手を入れてやった」

「おぬしの言う事など信じられるか!また子履しりを傷め付けるのか!?」


妺喜が吠えます。広萌真人は長い溜息をつきます。


「やれやれ、まだ商伯のことで気が動転しているのか。この薬を使えば必ず助かる‥というのは、聞いてくれなさそうだな」

「そうじゃ、これが毒でない根拠を示すのだ!」

「‥‥昔のよしみだ。特別に姿を見せてやろうか」

「わらわがおぬしと会ったことがあるのか?」

「そうだ」


広萌真人は「やれやれ」とぼやきながら、ゆっくり立ち上がります。そしてひとたび呪文を唱えます。

その体のジルエットが揺れて‥一気に変わって‥


その姿を見た妺喜は、口をぽっかり開けて目を丸くして、「おぬしは偽物か‥?」と尋ねます。

広萌真人だったその姿は、妺喜にいくらかことの説明をします。

妺喜もしばらくは固まっていましたが、説明が終わるとけらけらと笑いだします。さっきまでの真剣な顔はどこへやら、地面を文字通り笑い転げます。そして、「久々に愉快なものを見たのじゃ」と身を起こします。

姿を元に戻した広萌真人は特に咎めもせず、妺喜の一部始終を眺めていました。


「これは他言無用だ。1人にでも話すと、お前の目的である革命に差し障ってしまうのでな」

「おぬしも飽きない人じゃ。口調を元に戻してくれ、笑ってしまうのじゃ」

「素を出すのに慣れると、他でぼろを出してしまうのだ」

「そういうものなのか」


ようやく落ち着いたようで呼吸が整い始めた妺喜は、改めて座り直します。広萌真人は、皿の中を転がっている3個の丸を指差します。


「ここに3個の薬がある。だが、うち2個は役目を果たすことなく捨てられるだろう。最後の1個を、確実に伊摯いしに届けるのだ」

「伊摯がここに来るのか?」

「そうだ。明日到着し、あさってまみえる。商伯を助けるために」

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