第286話 採血されました

あたしが自分の部屋で本を読んでいると、突然ドアのノックがします。ここはあたし・子履しり及隶きゅうたいのプライベートな部屋で、清掃人以外はあまり人を入れたくない場所ですが、急用でもあるのでしょうか。


「はい、どなたですか」

仲虺ちゅうきです」

「あ、入ってください」


任仲虺じんちゅうきなら大丈夫です。子履との食事の件で何かあったのでしょうか。そう思って気軽に許可を出しましたが、ドアは壊れていたっけと思うくらい恐ろしくゆっくり開きます。そして、任仲虺が「あの‥‥」と、普段の性格から全く想像できない、10キロメートルくらい下から目線で見上げてくる卑下したような目つきで、こっそり入ってきます。


「‥‥どうしましたか?」


あたしが椅子から立ち上がると、任仲虺は「そのままでいいです」と止めてきます。

「あの‥あの‥」とためらう任仲虺は、右や左を何度も見ていました。かと思うと、ばっとあたしの前の地面に張り付いて、おそるおそる話し出します。


「いきなりどうしましたか!?」

「‥‥ごめんなさい。摯さんの血がほしいのです」

「血‥‥なんだ、そういうことでしたか」

「えっ?」


血液検査か何かかな?前世でもありましたが、この世界でもありましたっけ、子履がまたなにか新しいことを始めたのでしょうか。あたしはその程度にしか考えてませんでしたが、任仲虺は地面に座ったまま顔を上げて、目を丸くして呆然としています。


「‥‥で、では、お言葉に甘えます‥‥」


任仲虺は注射器を取り出します。「あっ、この世界にも注射ってあるんですね」「いいえ、これは履さんがこのためだけに何年も前に作ったものらしいです」そんな会話をしてから、任仲虺は持ってきた紙を開きます。「ええと、まずここに指を当てて、脈拍を感じた位置を探して、‥‥」などと読み上げながら、あたしの肘にぷすっと針を刺します。

うわ、痛いです。普通に痛いです。前世で血液検査をやったときの看護婦は、痛みが最小限になるような練習でもしてきたのでしょうか。後で子履に目的でも聞かないと耐えられないくらいの痛さです。少ししたら終わったみたいで、任仲虺はもう一度紙を読んで「ええと‥一度採血したものはすぐ固まってしまうので、時間の勝負‥なるほど」と注射器を軽く揺らしながら、あたしにもう一度頭を下げます。


「本当に申し訳ありません。本当は肉を食べたがっていましたがわたくしが全力で止めました、もう二度と、もう二度とこのようなお願いはしないよう言って聞かせますので!」

「‥‥えっと、何の話をしているのですか?」

「と、とにかく!失礼いたします!」


任仲虺は逃げるようにぴゅるるるっと部屋を出ていきました。今日の任仲虺は慌てていましたね。

あたしの肘から血が流れています。素人がやるのなら前世の血液検査みたいには行かないものですね、まあ必要なら仕方ないかな。自分で包帯を巻いておきます。


◆ ◆ ◆


小皿に入った血を、子履はにおいをかいて、それから飲みます。「これが摯の味ですね‥♡」「私の血より少し赤くて甘いです♡」とかなんだかんだ言って、しまいには小皿を舐め回します。それを見て、任仲虺は今までに感じたことのないような寒気を感じます。


「‥‥ね、ねえ、もういいのではないですか?」

「私と摯がそこまでイチャイチャしているように見えるのですか?確かに愛し合っている自覚はございますが‥‥」

「‥‥‥‥もういいです」


任仲虺は、子履が皿をあますところなく舐め回す水音を聞きながら、おもいっきり首の向きをそらしていました。


「‥‥採血は今回だけですよ。次はありません。他の人に頼むのも禁止です」

「大丈夫です、次からは私がやりますから。むしろ仲虺こそ、どうして私の代わりにやりたかったのでしょうか?採血の経験があるのでしょうか?」


子履がそう平然と言ってしまうと任仲虺は全身の毛の穴を逆立ちさせて、子履の肩を掴みます。


「‥‥‥‥2回目があったら、わたくしは今すぐにでもこのしょうを出ていきます」

「そ、そんなに私と摯が愛し合いすぎているのでしょうか?バカップルと言われるのは心外です」

「‥‥‥‥‥‥‥‥もういいです」


と、任仲虺はもう一度視線をそらします。


◆ ◆ ◆


ある日、あたしと任仲虺が2人きりで部屋にこもって書類の整理をしているとき、任仲虺が聞いてきました。


「摯さん」

「はい、どうしましたか」

「あなたは‥履さんの愛が重いと感じたことはありますか?」


あたしはきょどんとして、作業の手を止めます。


「‥‥そのようなものを感じたことはありませんが‥今は両想いでいられて嬉しいです」

「そうですか‥」


任仲虺は呆れるように言っていました。あの2人、一体何があったんでしょうね。

まあ、確かに子履もあたしが外を出歩いている時に土の中を潜ってストーキングしてるのは嫌ですが、それ以外では特に気になることもないですし。子履はあたしが帰ってきた後に、特にストーキングしたというアピールもしてこないですし、あたしも特に子履に見られて恥ずかしいようなことはしてないですし、忘れていれば気にならないのです。子履は前世で寂しい思いをしてきたようですし、あたしはまだ負い目を感じています。それで子履の気が済むのなら。


◆ ◆ ◆


法芘ほうひは、その日も元気に屋敷の庭で畑仕事をしていました。士大夫たるもの庶民の仕事に手を付けてはいけないと言われますが、実際は身分の低い人はこうして力仕事をすることも多いのです。

季節はもう夏に入っていますが、冷夏が何年も何年も続いており、初春くらいの気温しかありません。それでも体を激しく動かすのは骨が折れるものです。「今日もいい汗をかいたな」と、タオルで頭を拭きます。


農具を片付け屋敷の中に戻ったところで、中にいた法彂ほうはつが出迎えました。


「父上、お疲れさまです。父上がご不在の間に、竹簡が来ていましたよ」

「おう、ありがとう」


と、その竹簡を掴んで、笑顔で軽く振ります。法彂もにっこり笑って礼をします。法芘は思い出したかのように言います。


「そういや女はできたか?」

「いいえ、まだ」

「そろそろ跡継ぎを作ってくれよ。お前が不孝だと言われるのは嫌だ」

「父上がそれをおっしゃいますか」

「ははははは。まあ、そろそろ焦っとけよ。なんなら俺が見合いの席を作ってやる」

「それではお願いしてもよいでしょうか」

「おう」


なんていう会話を済ませた後、法芘は2階の自室に入ります。部屋は前世日本の一般家庭の住宅とサイズは近いですが、それをこの世界では狭いと言います。


机の上に竹簡を広げて、読みます。法芘の弟、鄧苓とうりょうからの久しぶりの手紙でした。

読み進めるにつれて、法芘の顔から笑いは消えていきました。


読み終わると深くため息をついて、竹簡を巻きます。そして、窓の外を見ます。

空には、黒い雲が浮かんでいました。


「嵐が来る」

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