第287話 羊玄が朝廷に出ました

時は遡って、伊摯いし子履しり陽城ようじょうから連れ出した翌日。近くの邑の視察を終わらせた羊玄ようげんが、陽城に戻ります。

陽城へは新年のお祝いのために移動していたので、そろそろ斟鄩しんしんに戻りたいところですが、羊玄が動かないのがあまりに不気味すぎて夏后履癸かこうりきはなかなか合図ができません。


そのあとしばらく音沙汰がないと思っていたら、7日後の未明、羊玄は兵士たちに命じて鶏を100匹ほど集めて、後宮の庭に放ちます。すぐに使用人が走ってきて、羊玄に伝えます。


「陛下が鶏の声がうるさいと申しております。お控え下さいますでしょうか」

「天子は鶏鳴けいめいの刻に起き、朝廷へ行かなければならない。陛下こそ、わしがいなくなってからほとんど朝廷を開いていなかったと聞いたがどういう了見か。今すぐ朝廷を開くのだ。家臣はわしが集めておる」


驚いた使用人はそそくさと屋敷に戻って、寝室のベッドで上半身を裸にしている夏后履癸と妺喜ばっきに告げます。妺喜はいつもの調子で「罪人のくせに無礼なことを申す。そんな失礼なやつは殺すのじゃ」とわめきますが、夏后履癸は首を振ります。


「やつの魔法の腕はすば抜けている。殺す以前に捕まえるのも難しいだろう。‥‥そうだ、羊辛ようしんだ、羊玄の子である羊辛なら話を聞いてくれるだろう」

「ま、待て、今の状況で羊辛は危ない。羊辛も人の子だから、親にさがらうことはできないじゃろう」

「むう‥それではおとなしく出るしかないのか」


こうして2人はおとなしく支度を始め、2人一緒に後宮を出て羊玄と対面します。すると羊玄が正面から「待て」と怒鳴ります。


「どうした、じじい」

「女は置いていけ」

「だが、これまでにも妺喜はわしと一緒に朝廷へ出ていたのだ。えんえん(※妺喜が来るより前にいたきさき)もそうであっただろう」

「これまでは黙認していたが、今日はそういうわけにはいかない。五帝、以来の帝、どこを遡っても宮中に女を置くような者はいなかっただろう」


夏后履癸は舌打ちをすると、妺喜に「すまんな」と言い残して歩いていきます。羊玄もそれについていきます。

その2人を見送った妺喜は、妙な胸騒ぎを感じます。‥‥が、しかし妺喜はすぐに「大丈夫じゃ」と自分に言い聞かせます。


◆ ◆ ◆


大広間には、すでに家臣たちが集まっていました。つい最近まで伊摯のために2回も朝廷を開いていましたが、それでもみな緊張していました。なによりここにいる半分以上の人が、羊玄のいる朝廷が初めてなのです。家臣の親を人質にとるようになってから、まともな人はを離れ、代わりを埋めるように数え切れないほどの素人がつとめるようになったのです。「羊玄とはどのようなお方だ」「右相をやっておられる偉い方だ」「それは知っている。厳しいのか」「聞いたことはないが、きっと厳しいだろう」そのような会話が大広間のあちこちにあります。


大広間に羊玄が入ってくると、空気は一変します。羊玄は大広間を一回見回して、見たことのない顔が多すぎると感じます。しかしそれは今すぐ詮索することではありませんし、原因は羊玄にも分かっています。


夏后履癸が階段の上にある玉座代わりのベッドに座ると、羊玄はすぐに怒鳴りつけるように言いました。


の國にいたわしに一言もないのか」

「ご苦労であった」

「それだけか?」


夏后履癸が黙ってしまうと、羊玄は「まあ、そんなことはどうでもいい」と続けます。


「わしはここに来てしばらく、他の家臣どもから事情を聞いた。なんでも、わしのいない間に新しい宮殿を建てたらしいな」

瓊宮けいきゅうのことか?」

「そうだ。諸侯の民を集め、血を流したそうではないか」

「それは‥」


いつも家臣を死刑にする時と明らかに態度が違います。それを見て、新米の家臣たちはすぐにたじたじになります。この夏の國における羊玄の立ち位置を一瞬で理解します。


「それから、鋳腑すふの刑というものも発明したそうではないか」

「わしに逆らうやつがいたから仕方なく作ったのだ」

「死を恐れさせることと弄ぶことは違うだろう」


夏后履癸が少しの間沈黙すると、羊玄は次の話題を振ります。


「そして、妺喜のことだ。新しい妃に迎えただろう」

「ああ、式にはお前も出ただろう」

「聞くところによるとお前はその妺喜に溺れ、政治を乱しているようだな。お前はもとからおかしかったのだが、妺喜が来てから輪にかけておかしくなったという話だ。朝廷でも、返答をする時にいちいち妺喜と相談していたという話を聞く。妺喜が政策に長けていたことがあったか?一介の家臣として参列したことがあったか?そのようなものに夏の今後を問うのは無用である」


夏后履癸はまた沈黙します。羊玄はため息をついて、従者をつとめる虞庵ぐあんに目配せします。虞庵は夏后履癸に近づいて、竹簡を差し出します。それを侍従を通して受け取った夏后履癸は、中身を読んで絶句します。


「そこには、この夏をよりよくするために他の家臣とも繰り合わせたうえで、わしの提言が書いてある。ひとつ、妺喜を死罪にせよ。ひとつ、妺喜をここへ呼んだ岐踵戎きしょうじゅうを死罪にせよ。ひとつ、私利私欲に走る愚息を罰せよ。ひとつ、家臣の親を人質に取るのをやめさせよ。ひとつ、鋳腑の刑を廃止せよ。ひとつ、瓊宮を封印せよ。ひとつ、自らの生活を律し週に三度朝廷を開け。ひとつ、餓え喘ぐ庶民を救済せよ。ひとつ、諸侯を徳で支配せよ。ひとつ、万事の繁栄を考えよ。どうじゃ?できるだろう」


それを何度も何度も読み返していた夏后履癸は困った顔をして、膝の上に置きます。


「な、なあ‥‥8つはできるのだが、最初の2つは検討が必要だ」

「最初の2つとは、妺喜と岐踵戎のことか?」

「そうだ」

「そんなこともできないのか?‥‥まあ、よい。ただし猶予は3ヶ月だ。3ヶ月のうちに必ずやるのだ。これはわしだけでなく家臣どもの希望でもある」


◆ ◆ ◆


斟鄩に戻ってから、夏后履癸はまじめに朝廷を開くようになりました。家臣の半分はこれが正常だと思っていましたので、むしろ安心する‥‥ということもなく、夏后履癸が妃を侍らせないままベッドに座るということはめったにありませんでしたので、それはたいそう不機嫌でした。羊玄がいるから押さえられているものの、少しでも変なことをすると後で死罪にされそうです。常に緊張が走っています。

羊玄は決裁事項が溜まっていることを必要以上に厳しく叱責することもなく淡々と仕事を続けますが、朝廷が終わるたびに夏后履癸に「妺喜と岐踵戎の処刑を忘れぬように」と釘をさします。


羊玄の行動は早く、夏后履癸が左遷を命じるより先にみずから、30人ほどの男を引き連れて羊辛の屋敷へ行きました。


「申し訳ありませんが、主人は不在でございます」


使用人にこう言われますが、羊玄はすぐ反論します。


「いや、辛が確かにこの建物へ入るのをわしの斥候が見ておる。それに、馬車のわだちもない。ここにいるのは明らかだ」

「しかし‥」

「しかしもなにもない。入らせろ」


と言って強引に屋敷に入ったあと、近くの使用人に指示します。


「辛を呼び出せ」

「お言葉ですが、ご主人様はひどく弱っており‥‥」

「その主人の父であるわしと、どちらが偉いかはお前でも分かるだろう」


使用人は困惑気味で歩き出しますが、羊玄は連れてきた30人の男に「おい、この屋敷の勝手口や窓などを全部見張れ」と言い残してから使用人についていきます。

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