第288話 羊玄が斟鄩を去りました

果たして羊辛ようしんは書斎にいました。羊玄ようげんはドアを壊すかのように激しく壁に叩きつけます。羊辛はまるでそれを何度も何度も経験したかのように、それともまるで最初からこうなるのを分かっていたかのように、肝を据えて微動もしません。


「おい辛。これはどういうことだ」

「何の話ですか?」

「とぼけるな。お前の所業は役人どもから聞いた。民から金を巻き上げて懐に入れているようだな」

「それは私の商品を買ってもらった代金です」

「腐ったニシンが50ほうか?(※朋=この世界での金の単位)」

「冷害で食物が減ってるならそれでも安い方ですよ」

「それでは民が餓え死ぬだろう」

「この価格じゃないと私の資産も目減りするんですよ。施しは國の方策です。私は個人として商売したのですから、施す義務はないですよ」


羊玄はあきらめたのか深くため息を付いて、「次!」と杖を強く地面に叩きつけます。


瓊宮けいきゅうの建設に関わったそうだな」

「はい。その間だけ司空しくう(※建設を請け負う役職)に任命していただきました」

「今でも瓊宮の維持のために、多数の税金を巻き上げているらしいな。しかし宮殿はその分だけ豪華にはなっていない。その差額はどこに消えた?」

「それは経理の人に聞いて下さい」

「ふうむ‥‥お前はまた、あの瓊宮のために近所のむらから人を狩ってるらしいな」

「あれだけの宮殿、維持するのも大変でございますから」

「宮殿は國の威厳を示すために必要だ。だが、それによって多くの民が苦しむことはあってはならない」

「その犠牲に見合う建築であるかは、歴史が証明します。このは三皇五帝から禅譲を受けた唯一の國、あの寒浞かんさくですら完全に奪うことはできなかったのです。武力によって國が覆るなど、ありえないことです。きっとこれからも永遠に、この九州を支配し続けるでしょう。強大な帝国への投資と思えば安いものです」

「寒浞のときはまだが崩じたばかりで、禹の徳が十分に高かったのだ。禹に忠誠を示すために、多くの臣が立ち上がったのだ。今はどうだ?孔甲こうこうの代から暴政が続き、諸侯の心は離れている。さらに今の帝は岷山みんざん氏をはじめ東西南北の諸侯や戎狄じゅうてきを武力によって滅ぼした。明らかに五帝や禹の代とやっていることが違う。それゆえに臣は逆に夏に敵対しているのだ」

「でも帝啓ていけい(※禹のあとをついだ夏の二代目の帝)は有扈氏ゆうこしを滅ぼしたんですよ。あれも武力による討伐と変わらないんじゃないですか?」

「あれは何度も警告してそれでも従わなかったので討伐しただけだ。黄帝こうてい蚩尤しゆう涿鹿たくろくで討ったのと同じで、有扈氏は明らかに徳にもとる行いをしたために、諸侯が夏に同調した。だから難なく討つことができたのだ。岷山氏、有施氏ゆうしし(※妺喜ばっきのいた蒙山もうざんのこと)は特に反抗などしていないのに前触れもなく突然滅ぼしたし、せつに至っては諫言かんげんひとつで滅ぼしたではないか」


羊辛が黙ると、羊玄は「言葉もなくなったか」と、杖を床にこすりつけます。


「このままでは夏はまた一度、誰かに奪われる可能性があるのだ。下手すれば奪われたまま永遠に、夏は再建されず、新しい王朝に替わる」

「その人が禹の徳を上回る必要があるでしょう。誰がいるんですか?この九州に、そんなに目立ちすぎる人がいるのですか?まさかじゅうのことではないですよね?」

「そんなことも分からないのか。昔のお前ならそれくらい簡単に諜報できたはずだ。一体どうしたのだ。金に溺れて周りが見えなくなったのか」


羊玄はそういいながら羊辛に歩み寄ります。そして、耳近くに言葉を入れます。


しょうだ」

「商‥‥ですか?」

「そうだ。商伯は殺さなければいけない。あいつは厄介だ」

「あんな小娘に何ができるんです?あたっ」


羊玄の拳が、羊辛の頬をぶん殴ります。床に倒れた羊辛を見下ろして、羊玄は吐き捨てるように言いました。


「お前は何もかも変わった。民から金を巻き上げ私腹を肥やし、家臣として最低限の仕事もできていない。お前はわしの息子ではない。しょくにでも行っておとなしくしていろ」


羊辛の返事も待たず、そのまま部屋を出ていってしまいます。


◆ ◆ ◆


そのころ、岐踵戎きしょうじゅうは自宅の一室に家臣たちを集めていました。家臣たちといっても、夏后履癸かこうりきが家臣たちの親を人質にとるという法律を作ってから新たに入ってきた人ばかりです。みな、裏で悪行に手を染めていることを岐踵戎は知っていました。


「知ってのとおり、このたび戻られた羊右相のやり方はとても厳しい。あのようなやり方では、夏についてくる家臣はいなくなるだろう。わしらのあとは、お前たちもこの夏から追い出される運命だ。このままでは夏が終わる」


それを聞いて、家臣たちは顔を見合わせます。


「お前たちも夏を追い出されたら生活が苦しくなるだろう。羊右相をここから追い出さなければならない」

「でも岐さま、それを知ったところで一体私達に何ができるのでしょうか?」

「こちらはとっておきの情報を握っている。あさってこそがあいつの最後だ。にもかかわらず、わし、羊辛はあの日から謹慎を申し付けられていて動けない。そこでみなの協力が必要だ。耳を貸してくれ‥‥」


そうやって岐踵戎は、家臣たちに策を授けます。


◆ ◆ ◆


果たしてそのあさっての朝廷になりました。相変わらず家臣たちが先に大広間に詰めてから、夏后履癸があくびをしながら不機嫌そうに入ってきます。妺喜ばっきを侍らせていないだけまだましです。

羊玄がこつんと杖で床を叩きます。


「それでは朝廷を始めようか。南の邑で川の橋が壊れた件について‥‥」

「いいえ、それよりも先に陛下のお耳に入れなければいけないことがございます」


と、ある無名の家臣が手を上げました。


じょの國(※東南方面にある國。現代中国の山東省臨沂市郯城県付近)が反乱を起こしたという情報が入っています。それも、えつ(※現代中国の浙江省付近。呉越同舟の語源にもなった。この世界では異民族扱いされている)と手を組んでいるようです」

「まさか。そんな大切な情報は、まずわしのところへ入ってくるはずだ。お前らが知っているわけもなかろう」

「いいえ、確かな情報でございます」

「やめだやめ、無い敵にやる兵はない。しかも相手は遠方にいる。われわれ夏はただでさえ長年の平和のために将兵も少ないし、頑健な者は天水周辺でじゅうと戦っている。虚報にかまう余裕はないのだ」

「ですが‥!」

「もうよい。他の質問なら受け付ける」


こうして朝廷はつつがなく進みましたが、家臣たちは落胆するどころか、逆ににやにや笑っています。


翌日、朝廷はお休みの日でしたが、羊玄が慌てて私邸に家臣たちを集めます。


「あれから遅れてわしのところにも斥候が戻ってきた。お前たちの言う通り、徐、越が反乱の準備をいいところまで進めたという話だ。遠方にある国だから、斥候がここに戻ってくる頃にはすでに行動を起こしているだろう。そこで討伐に誰が行くかだが‥」

「もちろん、羊右相ですよね」


家臣の1人がすかさず返事します。


「なに?帝丘ていきゅうの兵を動かさぬのか」

「徐と越は僻地にみえて平野があり、多くの人員を養うことができます。帝丘の兵力程度では倒せないでしょう。この斟鄩しんしんから軍を出さなければいけません」

「それでは公孫猇こうそんこうは」

「罪を持ち謹慎中です」

「早く呼び戻さんか。非常時だ」


そこで家臣たちは顔を見合わせて、1人が提言します。


「お言葉ですが、御存知の通りこの夏は長い間大規模な戦争を経験していません。よって、これほどの反乱に対応できる将軍は2人しかいません。公孫大将軍、そして右相です。公孫大将軍は罪を得たため簡単に兵を預けられません。まして遠方であれば大勢の兵や物資を持っていくことになるでしょうが、それは反乱を起こすに十分すぎるのでもってのほかです。となると、残るのは1人しかいませんね」


羊玄が不機嫌そうにテーブルを殴ると、また別の家臣がささやいてきます。


「朝廷でわれわれが提案しようとした話をなかったことにした手前、面倒な役を私どもに押し付ける気ですか」


羊玄は何度かテーブルを殴ります。知ってて謀ったのか、それを抜きにしてもこの夏で戦えるような将軍が極端に少ないのは明らかです。


「わかった、わしが行く」


こうして羊玄は十数万の兵を引き連れて、斟鄩を出発してしまいました。

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