第289話 薛の遺臣

さて、あたしが夏台かだいから子履しりを連れ帰った時、一緒に任仲虺じんちゅうき劉歌りゅうかしょうに身を寄せることになりました。劉歌はともかく、罪を着せられてせつを滅ぼされた任仲虺が商にいることが公になるといろいろまずいのです。任仲虺は朝廷に出席して子履に助言することはありますが、外国や民間からの客が来る時には休んでいますし、街へ出歩くことも控えています。任仲虺が商にいることを知る人はあまりいませんし、他に商にいる薛出身の家臣もいないはずです。

しかしどこからこの話を聞きつけたのか、滅んだはいから運良く逃げ延びた家臣が1人、1人、また1人、商に集まってきているのです。中には2,30人程度の兵士を引き連れてくる人も何人かいました。


ある日、任仲虺は使用人が着るような、明らかに安っぽくで場違いな格好をして朝廷に出席しました。朝廷を終わらせて家臣が散っていく時、あたしは任仲虺を追いかけました。


仲虺ちゅうき様、履様がお呼びです」

「陛下が?」


あたしと一緒に子履の椅子の前まで戻ってきた任仲虺に、子履は尋ねました。


「どうして今日はそのような格好をしているのですか?」

「はい。知り合いが今日の朝早くに服を汚したので、貸しました」

「その知り合いとは、薛から亡命してきた人ですか?」

「はい」


あたしと子履は顔を見合わせました。任仲虺には確かにそこそこの大きさの屋敷を与えましたが、薛から商へ来た人に与えられるものはもうぼろぼろの家しかないので、代わりに任仲虺がそれらを自分の屋敷に住まわせているのです。しかし薛から来た家臣も人が多く、このままでは屋敷がバンクしてしまうのも、子履や伊摯にとって想像にかたいものではありませんでした。


「代わりの服は他になかったのですか?」

「はい。ご給金では食事や身の回りのことで精一杯で、とても服までは」


あたしも子履もまた困った顔をしました。確かにこの商では亡命してきた人も多くいますが、役人といってもぴんからきりで、その半数以上は下っ端になりました。商にもとからいた役人の身分を下げてでも適材適所を推し進めようとすると逆に亡命者への反感が高まります。そういうこともあって、能力が高いのに身分が低いままの人も多くいます。薛ももれなくそれで、本来なら一国をまとめられるような優秀な人も今では下っ端に埋もれて任仲虺の屋敷に身を寄せています。

優秀な人は多くいても困らないと言いますが、商のような小さい國には多すぎるのです。ただでさえから来た家臣がほとんどの椅子を持っていったというのに。


「分かりました、新しい服を持ってこさせましょう」

「陛下、それは困ります。陛下が薛を特別扱いすると、夏の人の顰蹙を買います」

「仲虺。私が服を分け与えるのは、仲虺が薛で唯一残った公子だからです。奚仲けいちゅうの家督を代々受け継いだ正当な子孫であり、薛を立て直せるのは仲虺しかいないのです。だから薛の遺臣もここに集まっているのでしょう。仲虺がみっともない姿でいると、気高さを失ったと思って薛の人は絶望します。仲虺はみなの前に立つ人ですから、立ちふるまいには気をつけて下さい。はい、来ましたから受け取って下さい」


替えの服を持った役人がやってきましたので、任仲虺は涙を流しながら言葉も出さずにそれを受け取って地面に膝をつき、高くかかげました。


◆ ◆ ◆


この話がどこからか漏れ出てしまったのか、また薛の方面から人が集まってきます。そうなると様々な問題が出てくるものです。朝廷でこの話をされるのも、もう慣れたようなものです。


「食料の備蓄が残り少なくなっています。このままだと来年にはこの商でも飢餓が始まります。食料目当てに外国から引っ越してくる庶民もいますので、動向次第ではさらに早まると思われます。来年は暖かいといいのですが」

「朝貢のための財物を差し引くと、役人に出せる俸禄が足りません」

「庶民が増えすぎて、農地や商店のための土地が足りません。森を大量に開発しないと割りに合いません」


そのほかにも、川の汚染、ごみ、治安、騒音、火事の消火体制など。思いつく限り全部の問題が降ってかかります。朝廷ではもともとこの問題は以前から何度も話し合われてきたものでしたが、薛から人が来るようになった今、それらは顕著になっています。


「大量の人を受け入れるには、この商はあまりに小さすぎます。隣国に分配できないでしょうか?」

「しかしこの商の隣りにあるそうしんも飢饉で苦しんでいます。果たしてそのような國へ行ってくれる人がいるのでしょうか」

「それでもやらなければいけません」

「じゃああなたは行けるんですか?」


などと、悩ましいやり取りがいくつも出てきます。そんなおり、ある人が手を挙げました。


「周囲から人が集まっています。先日の調査では、5年以内に外国から来た人間が商の人口全体の4割に迫っています。調査しきれていないだけで、またいるかもしれません。短期間でこれほど極度の人口変動があると大量の問題に直面するのは当然ですが、小手先の対策では効果はたかが知れています。しかしこれを克服できる妙案があります。戦争です。戦争で土地を増やすことで、諸問題は解決します。土地が広くなると必然的に人口密度も下がり、ゆとりができます」

「戦争をしないという話は、散々してきたはずです」


確かにあれはあたしから見ても極論ですよね。子履は当然のように一蹴しましたが、他の家臣たちも次々と発言を求めます。


「恐れ入りながら申し上げます。いま商に人が集まるのは、元を辿れば夏に深刻な問題があるのです。民が、夏ではいけないと言っているのです。天は変革を求めているのです」

「その夏が他の國と同じようにこの商にある日突然攻め込んでくる可能性は高いですし、仮に攻めてこなくても領土に対して人口が多すぎます。今の状態を放置すれば、商の未来は暗いです」

「諸侯も夏を嫌っています。大義名分は腐るほどあるでしょう」

「諸侯も商のために支援してくれるでしょう。商は見かけよりも強いのです」

「商へ集まるのは、人々が陛下に期待しているからです」

「期待できる人はもうほかにいないんじゃないでしょうか」

「商が夏のために潰されるまでに、早めに決断して下さい」


などと、やいのやいの騒ぎ立てます。みな今まで黙っていただけで、本当は戦争を推進したいのか、それとも戦争に対して抵抗がそれほどないのか。


「戦争をすると多くの人民が殺傷されます。それは誰かの親だったり、誰かの子だったり、誰かにとって大切な人だったりします。戦争は悲劇しか生みません。そのようなものを、民が望むはずなどありません。大夫が勝手に決めたことに、常に民は巻き込まれるものです。夏の問題は、外交や工作で解決できるはずです。いま商がむやみに領土を拡大することよりも、夏の内政を改めさせるほうが、民の犠牲もなく平和的です」


その言葉で家臣たちは発言をやめました。子履の言葉に突っ込みたそうな表情をしている人も、あたしの視界に入るだけで複数人いるようでしたが、まあ、これまでの朝廷でも同じ話を何度も繰り返してきたので家臣たちも分かっているのでしょう。‥‥諦めているのでしょう。

実際、夏から来た家臣の中には、「商伯は期待外れだった」とかいう言葉を並べて下野した人も出てき始めているそうです。

確かにあたしも戦争は嫌いです。でもこればかりは‥‥本当に大丈夫なのでしょうか。言葉にできない漠然とした不安が強くなっているような気がします。


あたしも街を歩いている時、物陰で家臣たちが「陛下は綺麗事ばかり並べる」「あの理想を実現できれば苦労はしない」「あんな人で本当に大丈夫か」「情が身を滅ぼすというが、まさにそれだ」などと話しているのを聞いたことがあります。戦争を当たり前だと思っている人たちに一から教えるのは難しいです。でも、子履が伯である限り、戦争はないはずです。‥‥本当にそうでしょうか?

言葉にできない違和感を抱えながら、あたしは今日も「苦しいっす、出してくれっす」としゃべる及隶きゅうたいを思いっきり強く抱いて、ベッドで横になっていました。

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