第290話 中国史上初の革命

前世の雪子ゆきこは、ぼうっと空を見上げて微動もしない子でした。保育園でも誰とも話さず、演劇を習わせても長続きせず、本も読まず、遊びもせず、ただ窓の外ばかり見ていました。

そこで大学教授であり中国の研究者とも深く関わっている父親が、一冊の本を手渡しました。子供向けの三国志の本でした。雪子は人が変わったようにそれを平らげると、次の本を要求するようになりました。そればかりか、大学の研究室にも入り込むようになりました。


たばこのにおい、日差しにあてられて輝く木の椅子と机がとても印象的な部屋でした。


ある時、父がそこで年表を広げていると、雪子がかたわらからにゅっと顔を出しました。


「雪子とこうしていられるのもあとどれくらいだろうな」


父がぼやきますが、雪子はひたすら年表に視線を落としています。父は雪子の耳を向いて人ごとのように話します。


「雪子ももうすぐ小学生だから、あまりここに来れなくなるかもしれないぞ。まあ、放課後なら大丈夫かもしれないけどな、友達くらい作っとけよ」


雪子はまるでそれが全然聞こえていなかったかのように、年表を指差します。


「パパ、ここにあるかん高祖こうそ(※劉邦りゅうほう)が建てた王朝だね」

「ああ、そうだ」

「高祖は、最初から高祖という名前だったの?」

「違う。それはおくりななんだ。姓をりゅういみなほうという。史記は漢の時代に書かれた本だから、邦という字は諱のために使えず、代わりに高祖と書いているんだ」

「ふーん」


そして、幼女はテーブルの上に身を乗り出します。


「漢より前に楚漢そかん戦争、しん、戦国時代、春秋時代があったよね」

「ああ、翻訳とはいえ史記も読んじゃったからな。世家も列伝も全部だろ?あんなのが読める幼稚園児、初めて見たよ。まったく将来はどんな人になるのやら」

「その前はしゅういん‥‥」


と、雪子は年表を左へ向かって遡ります。


「夏より前は五帝ごていがいたんだよね」

「ああ、史記にも書いてあったな」

「その前は三皇さんこうだね。司馬貞しばていの『三皇本紀』に書いてあった」

「ああ」

「三皇より前はないの?」

「ない、ということになっているが、実際は龍山りゅうざん文化とか、石器時代の痕跡が指摘されている。神話は、文字も記録もなく、科学もなく超常現象が信じられていた時代に口伝くでんで伝わってきたものだからね、不正確なことも多いんだ」

「ふーん」


雪子は目を凝らして、年表をじっと見つめていますが‥‥やがて、また顔を上げます。


「ってことは、この夏が史上初の王朝ってこと?」

「そうだね。ああ、五帝と王朝の区別ができるって大したものだよ。いや、この年齢でそんな話ができるのが異常といったとこかな」

「この夏は帝しゅんからへ禅譲することでできたんだよね。そして、殷、周、秦、漢はどれも戦争でできた王朝だけど、禅譲で成立した王朝ってもうないの?」

「いいや、実はもうちょっと後の時代にたくさんある。実は雪子がさっき挙げた漢は前漢、後漢に分かれていて、その間にしんがある。新は前漢から禅譲を受けたんだ。三国時代以降になるともっといっぱいあるのさ。三国志演義では簒奪のように表現されているけど、後漢ごかんからへの譲渡も形式上は禅譲だ。魏からしんも禅譲だし、五胡十六国時代や五代十国時代にはもっとたくさんある。統一王朝としては新のほかに、ずい北周ほくしゅうから、そう後周こうしゅうから禅譲を受けたんだ」

「へえ、五帝や禹のような聖人がたくさんいたんだね」

「違う。禅譲という形式にはなっているが、実際は簒奪だ。最初に簒奪をおこなったのは新の王莽おうもう(※伊尹いいんとする説もある)で、後の時代の人はみんな王莽を真似したんだ。禅譲を受けられるような聖人なんて、後世(※ここでは三皇五帝よりもあとの徳のうすれた時代をさす)にはありゃしない」


父は雪子の体を引っ張って、自分の膝の上に置くと、めいっぱい椅子にもたれます。


「じゃあ、三代以降の禅譲は全部、戦争で奪うのと変わらないってこと?」

「そういうことだ。まあ、俺の考えだけどな」


父はズボンのポケットからたばこを取り出しますが‥すぐに「ああ、学生と話していると思ってしまった。これが過読症かどくしょうってやつか、雪子もたまには本から離れろよ」とそれを押し込みます。そして雪子の頭をなでます。‥‥が、雪子はすぐに振り返ります。


「戦争で王朝を乗っ取るのが当たり前なの?」

「ああ、そうだ」

「それは誰が最初に考えたの?」

「考古学的には誰が考えたもないのだが‥‥まあ、史書の中で強いて言うなら、この五帝時代に黄帝こうていと戦った蚩尤しゆうだな。蚩尤は中国歴史上で初めての反乱を起こしたと言われる。そのあとは夏の時代に、年表には書かれてないけど后羿こうげいというやつがいて、それが一時的に夏を乗っ取ったけどすぐ追い出された。最初に戦争に勝って王朝を入れ替えたのは、この殷王朝を創始した湯王とうおうだな」


と、父は微妙に手の届かない殷の時代の方を指さします。


「じゃあ、この湯王は悪い人なの?」

「突然どうした」

「だって、簒奪を発明したのは王莽で、後の時代の人がみんなそれを真似したんだったら、この戦争で王朝を入れ替えることを発明した湯王も悪い人でしょ?」


その言葉に父は苦笑して、「まあ、湯王が考えてなくてもきっと誰かが考えていただろうがな、禅譲のほうがよっぽとましだよ」と、また雪子の頭をなでます。


「王朝が入れ替わることを易姓革命えきせいかくめい、または単に革命というんだ。その革命を史上初めておこなったのは、殷の湯王だね。ただ、革命という発想は周が始まってから一度うすれることになる。春秋時代には覇者はしゃというシステムがあって、これは諸侯が交代で周王室を補佐して警察のようなことをやるという建前だった。諸侯はあくまで周の存在を前提としていたんだ。そのあとは戦国時代に入るが、みなあくまで自分の領土を広げることしか考えておらず、統一なんて考えてたのは秦の商鞅しょうおうくらいじゃなかったかな。まあ、王朝を入れ替えることを目的とした野心的な戦争を発明したのは商鞅で、湯王の役割はそんなになかったというのが俺の考えさ。なんなら五胡十六国時代ももっと勉強しろよ、いやその前に友達作れよ」

「でも、もし‥‥」


と、雪子は言葉を絞ります。


「『戦争』をして王朝が入れ替わるという前例がないとしたら、成功しないと分かっていたら、誰もが戦争のことを考えなくなるのかな?」

「まあ、そうかもしれんな」

「戦争自体はすでに黄帝がしてしまっているから概念をなくすことはできないけど‥‥やらないようにすることはできるよね?いくら王が愚かであっても、戦争をして勝ててしまったという前例を作らなければ――‥‥」


◆ ◆ ◆


子履しりは今日も、自室の下にある書斎代わりに使っている図書室で、竹簡を書いていました。その竹簡があまりに床に転がっているものでしたから、あたしはそれをひとつ拾って読んでみます。


様、これは夏帝にあてる手紙ですか?」

「はい。戦争をなくすためには、夏帝の行動をあらためるしかありません」

「夏台に入れられたのにまだこりていないんですか?」

。これは、この時代の人間だけでなく、今後数千年にわたって戦争によって大量の血が流れるのを防ぐことができる手段かもしれないんですよ。私はこの世界から戦争をなくしたいのです」


どうやら子履はあれだけのことをされておいて、またもう一度同じことをされたいようです。どうしても戦争をしたくないという子履の気持ちはわかりますが、信念と狂気はもしかしたら紙一重なのかもしれないと思いました。

あたしはふうっとため息をついて、その竹簡を巻き直します。他にもいくつか竹簡を拾ってまとめてから、子履にこう告げます。


仲虺ちゅうき様とも相談しましたが、今後このような手紙を出すのは禁止です。いくら履様でも許可はできません。どうしても出したいなら、あたしを殺してからにして下さい」

「でも‥‥」


あたしはぷいっと子履に背を向けます。あたしだって子履の要望を拒絶するのはつらいんですが、こればかりは仕方ありません。

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