第259話 夏后履癸に謁見しました
あたしたちは先に屋敷を出て、ロータリーで使用人と少し雑談をしていましたが、大きな扉を開けて出てきた
「お待たせいたしました」
劉歌がお詫びの
あたしはおそるおそる尋ねます。
「あの‥‥劉歌様は本当に
「父上から、もう二度とここに戻るな、夏の人に怪しまれると言われました。大切なものはすべて身につけています。ここ
「‥分かりました」
ここは劉歌にとって大切な家に違いありません。別れを惜しむ時間も必要でしょう‥‥と思いましたが、劉歌は意外に堂々と屋敷の庭を歩きます。まあ、思い入れの形は人それぞれですね。
「寂しくありませんか?」
「いいえ。父上も後から商丘へ来てくれますから、全く寂しくありません」
本当に仲が良いですね。「そうだ」と、劉歌は立ち止まります。
「一つ伝え忘れていましたが、父上が亭へ大量の宝物を送ると聞きました。明日の夏王さまへの贈り物にお使いくださいとのことです」
「え‥ええっ、それって
「ええ。今は気軽に亡命できるような状況ではありませんのでできるたけ荷物を少なくしたいとのことでした。どうせ捨てるものを有効活用することになりますし」
「あ‥ありがとうございます」
あたしは思わず膝を曲げてしまいますが、「お礼を言うなら父上にしてください」と劉歌が制止するので、その手を固く握るだけにしました。本当にありがとうございます。
◆ ◆ ◆
その劉乂は、2階の自室の窓から、劉歌たちの様子をじっと眺めていました。
劉乂はすぐ背後にある机の上に置かれた竹簡に目を通します。それは、妻から1年前に来た手紙でした。窮状など全く書かれておらず、ただ兵士や監視の人は素晴らしい人ばかり、とてもいい人ばかりで生活には困っていないと書かれていました。劉乂の妻は、人質として夏に供され、
そして、その妻の訃報がつい先程、伊摯たちと話している途中で届きました。
家臣は自分の家族を人質に捧げ夏に忠誠を誓うという法律ができてはや数年。
妻がいなくなった今、劉歌が次の人質になりかねません。
もう劉歌を夏に縛り付ける理由はありません。
劉歌の望みなら何でも聞いてやれます。
その劉歌たちが、門から出ていくのを見届けました。もう二度とこの屋敷には戻ってこないでしょう。
そして、自身は。
「羊玄様、申し訳ございません。私は夏よりも娘を優先しました。合わせる顔がございません」
劉乂はそう言い残して、
◆ ◆ ◆
翌日になりました。
昨日渡しておいた手紙の効果があったようで、亭にいるあたしたちのもとへ使者がやってきました。火急の用があるようだから、お前のためだけに朝廷を開いてやるという内容でした。さすが劉乂、と言いたいところですが、あっさり事が進みすぎると不安になることもあります。
「父上は夏に古くから仕えてきた重臣ですので、発言力もかなりございます。他の者でしたらこうはいきませんでした」
なるほど、法芘が劉乂を選んだのは大正解だったようですね。後で法芘にもお礼を言わなければいけません。
そんなこんなで、あたしたちは今、陽城の宮殿の大広間にいます。宮殿の外観は、それはもうかつて夏の中心部だった陽城に似合うほど立派で豪華で、そして民の死体が大通りに転がっていることを考えるとディストピアすら感じさせるものでした。大広間も外観に負けないほど豪華で、そして家臣たちがすらりと並んでいました。
あたし、
「火急の用だからと来てみれば、見知った顔だな」
夏后履癸の座っているところ、玉座かと思ったらベッドでした。あの寝るために使うベッドです。亡命してきた家臣の言っていたことは本当だったようですね。そして、その隣には
妺喜、友達だと思っていたのですが、本当に友達ならあたしたちにあんな顔はしないでしょう。胸にものすごい霧がかかるような気持ちがします。‥‥だめです。今は
「何しに来た。何か言え」
夏后履癸はそう言いつつも、隣に侍らせている妺喜を抱いています。あのデブ‥‥法芘に言わせてもデブで不衛生な人間が、あたしの大切な友達をこうも気軽に扱っているとイラッときます‥‥が、なるべく顔に出さないようにします。
「‥‥はい。商の國から参りました、伊摯でございます。主人の罪についてお許しをいただきたく、参りました。そのための贈り物も用意しています。お手元にあるのはその目録でございます」
「ふむう‥これはなかなか悪くないな、おい妺喜見てみろ、南の國にある虹色のヘビがいるぞ。おお、透明な宝石もあるぞ」
「おお、美しそうじゃのう」
あたしの友達だと思っていた妺喜が‥‥夏后履癸と一緒に目録を見てはじゃいています。‥‥演技ですよね。あれは演技ですよね?いやでも、そうでなくても珍しい宝物を見ると誰だって心躍りますよね?
ちらりと見ると、周りの家臣たちはざわついています。挙手して一歩前に踏み出る人がいました。
「陛下、お言葉ですが商伯を返してはいけません。夏にとって危険です」
「ははは、分かっている、分かっている」
夏后履癸が冷酷に笑います。と思っていたら次の瞬間、妺喜があくびをします。
「どうした、妺喜。ゆうべが長すぎたのか?」
「いや、なに‥‥足らんのじゃ。わらわの欲しいものがここにないのじゃ」
「どうした、何が欲しいのだ?」
「竜の
あたしはぞっとします。逆鱗とは、竜の喉元にある一つだけ向きが逆になっている鱗で、それを触ると竜は怒り狂い触った人を殺すと言い伝えられています。つまり逆鱗を手に入れるということは、竜を倒すことを意味しているのです。妺喜、まさかそれをあたしたちに取ってこいと言いませんよね?妺喜はあたしの味方ですよね?そうですよね?
「逆鱗は普通の鱗と違う独特で美しい光を放つと言う。普通の鱗もいいのじゃが、逆鱗はこの夏の威信や名声と同等に高価なのものじゃ。そうは思わぬか?商伯は竜を倒したので、何かしら竜と交わりがあるはずなのじゃ。となれば、逆鱗のようなものも当然持っているはずじゃ」
「なるほど、逆鱗といえば相当珍しいからな。おい、お前ら。わしは決めたぞ。竜の逆鱗をくれたら商伯を許してやろう。おい、さっきの奴、逆鱗をくれたら返してもいいだろう?」
夏后履癸は高らかに笑いました。さっき抗議した夏の家臣も、無理だと思っているのか、黙って頷きました。
どうする?いや‥でも、これも子履のためです。
「陛下、お言葉ですがそのようなものは商の國には‥」
ありません、と言いかけたところで妺喜が強めの声で割って入ります。
「竜を倒しているなら手に入れているはずじゃ。のう?」
「で、ですが‥」
「伊摯よ、わらわを失望させるな」
蔑んだような黒い目で、夏后履癸とべたべたになっている妺喜は言いました。あたしは身を震わせます。「あ、あの‥」と食い下がろうとしますが、横にいる任仲虺があたしの太ももをつねります。
あたしは唇を噛み締めました。
「‥‥‥‥はい。必ずや持ってまいります」
それがあたしにできる、精一杯の言葉でした。
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