第260話 竜の逆鱗を求めて(1)

本当に妺喜ばっき、どうしちゃったのかな‥‥。あたしにはそのことばかり考えていました。

妺喜はいやいや夏后履癸の後ろについているだけだと思っていました。それがあんなに積極的になって、竜の逆鱗げきりんという人間だとおおよそ手に入らないようなものまで求めてしまって。妺喜は一体何を考えているのでしょうか。


そんなことを考えているあたしの気持ちを全く見ていないのか、亭にいた劉歌りゅうかはさらりと言ってのけました。


「私のご先祖様に頼めば、なんとかなるかもしれません」

「‥‥えっ?」


低いテーブルを挟んで向かい合ったソファーに座っている隣の任仲虺じんちゅうきが身を乗り出しました。


「それは本当ですか?」

「あくまで可能性の話ですが‥」

「それでもいいです!」


あたしも任仲虺といっしょに声を荒げました。子履しりのいない今、ここにいる人間には到底入手不可能なものが手に入る可能性が少しあるだけでも奇跡です。


「‥でも、なぜ劉歌様のご先祖様がお持ちになっているかもしれないのでしょうか‥‥?」

伊摯いし様、ご存知でしょうか?過去にを治めていた孔甲こうこうの有名な重臣の名前を」

「‥‥えっと‥劉累りゅうるいでしょうか?」

「劉累が何をしていたのかは知っていますか?」

「確か、竜の世話をする仕事をしていましたが死なせてしまい(※竜は幸運、善政、吉祥の象徴とされ、荒れた世にはなじまない。その竜が死ぬほど政治が荒廃していたことが強調されている)、その肉を孔甲に献上したところさらに肉を求められたため逃亡した‥‥と聞いています」

「はい。実は父上と私は、その劉累の家督を受け継いだ、直系の末裔なのです」

「えっ!?」


劉歌は胸に手を当てて、自慢げに微笑みます。


「なので墓の場所も分かります。ご先祖様は屋敷のびょうにいますが、劉累だけは竜に最も近い場所でお詫びしたいと言ったので、嵩山すうざんに埋められているのです。その墓に竜の死骸の一部も置いてあるいるので、もしかしたらそこにあるかもしれません」

「でも、ご先祖様の墓を荒らすなんて‥」

「ちょっと拝借するだけですよ」


劉歌はまるで幼児のいたずらのように笑います。

崇山といえば、この陽城ようじょうのすぐ近くにある山なので移動時間もあまりかかりません。確かにこの作戦はただ1つの点を除いて、理にかなっているのです。


「俺は行かねえ」


姒臾じきが床に転がります。


「いくら末裔がそう言ってもな、先祖の廟を荒らすなんて俺にはできない。劉歌、お前こそ何か思わないのか?ご先祖様を尊敬するのは当然じゃないのか?劉家の名が汚れるぞ」

「確かに私にもためらいはあります。でも、すでに死んだ人よりも今生きている人のほうがよっぽと大切です。まして夏帝のために死ぬ人を見過ごしたくないのです」

「そして他人の廟を荒らして生きながらえたのが今や一国の王ですってか。そんなのに家臣は従うのか?家臣の廟も荒らされるかもしれないんだぞ?反乱が起きても文句は言えないぞ。仮に俺の女だとしても、守りきれる自信がない」


この世界では、先祖のことは大切にされていて、軽蔑するような人は社会的制裁を受けることも珍しくありません。前世の記憶や常識が身にしみているあたしにとっては、悪いことをさせてもらってすみません程度にしか思わないのですが、この世界の人にとってはかなり深刻なことのようです。


「‥わたくしは行きます」


任仲虺が手を挙げました。


「わたくしには、せつの国を復興させる使命があります。そのためなら、どんな汚れたことにも手を染める覚悟があります。姒臾さんは真面目すぎます。ばれなければ問題はないでしょう」

「ふーん、勝手にすれば」


姒臾は寝転がって、あたしたちに背を向けます。


「‥あたしも行きます」


と、立ち上がりました。姒臾は上半身を起こして、「お前、正気か?」と呆れます。


「あたしは遠い昔、雪子ゆきこの‥‥いえ、様のために命を捨てた‥‥捨てかけたことがあります。その時の履様の悲しみがどの程度のものだったか、今のあたしなら分かる気がします。今、履様の人生は、あたし自身の人生だと思っています。どんな事情があろうと、自分の気持ちに嘘はつきたくありません」


姒臾は「ちっ」と舌打ちをして、近くのテーブルに捕まって立ち上がります。結局姒臾も一緒に行くようです。


◆ ◆ ◆


馬を借りて崇山のふもとまで到着した頃には、もう午後も夕方の手前になっていました。


「日程を考えると、徹夜で行くしかありませんね」


任仲虺がそんなことを言っていました。でも、ここまで来て今更怯むことはありません。


「山頂へ行くには険しい道を通る必要がありますが、廟はそうではないので安心してください。道も違います。こちらから入ります」


と、劉歌はすすんで先頭を取って、広い道からそれた小路に入ります。あたしたちもついていきます。

劉累の子孫って士大夫ですよね。士大夫にいちいち、修行者が通るような険しい道を通らせるわけにもいきませんから、これで最大限に妥協したつもりでしょう。

思った通り、士大夫でもかろうじて通れるようなゆるやかな山道が続きます。もともとこの道に慣れていた劉歌、なんだかんだで商の厨房での魔法でこき使うこともあった姒臾、そして庶民あがりのあたしは平然としていましたが、任仲虺は杖をつきながらで、息もあがっています。


「大丈夫ですか?」


あたしの差し出した手を、任仲虺は引っ張るように掴みます。


「はい、大丈夫です」

「無理ならちょっと先に休憩所があるらしいですが、そこで待ちますか?」

「いいえ。せつの民の災難に比べれば、わたくしはこの程度で止まれません。次で少し休んで、それからまた参ります」


姒臾が「おい、足手まどいにならんか?」と心配そうに覗きこんできますが、劉歌が「いいえ、休憩所を超えた先は坂も緩やかになりますので案外大丈夫かと」と言ってきました。


休憩所は小屋のようなもので、屋根も壁もありました。古そうなベンチに腰掛けて、任仲虺はため息をつきます。


「冬だからと気を抜いてましたが、水も持ってこればよかったですね」

「それでしたら、この先に川がありますよ」

「ああ、それなら姒臾、後で水を加熱してあげて」

「分かった」


そんなあたしと姒臾のやり取りを見て、任仲虺がふと尋ねてきます。


「失礼ですが‥さんと姒臾さんはどういう関係でしょうか?摯さんは他人を様付けで呼ぶのに、姒臾さんだけは呼び捨てですよね」

「えっと、ちょっと複雑な事情が絡んでいるっていうか‥‥いろいろあってあたしは上司、姒臾は部下という関係になりました」


まさか姒臾が、子履のいる屋敷の厨房で働いているなんて言ってしまったら、子履の親友である任仲虺はどんな顔をするんでしょうか。


「姒臾さんは商の国に仕えたのですか?」

「あ‥‥うーん‥‥」


あたしが答えに詰まっていると、姒臾は腕を組んで「いや、しんの人だ」と大声で言いました。


「そうですか?それならいいのですが‥‥」


任仲虺は首を傾げますが、それ以上は聞いてきませんでした。

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