第67話 子履の怒り(3)

机の椅子に座っている子履しりを見ると、あたしの体が自然に動きます。地面に頭を叩きつけて、とにかく土下座します。


「謝らせてください、様‥‥」

「誰が下の名前で呼んでいいと言ったのですか」


今までの子履はどこへやら、これまでの関係にひびが入ってしまうような気がして、あたしの内臓が全部縮んでしまうような底知れない恐怖に襲われます。


「許してもらえませんか。今後のことはわたくしからもよく言って聞かせますので」


頭上から任仲虺じんちゅうきの声が聞こえます。子履の返事がなかなかないせいか、任仲虺が子履のほうへ向かう足音が聞こえます。どうやら小さい声で何かをささやいているようでした。説得か何かだと思いましたが、意外とそれは長くなく、体感5秒くらいで終わってしまいます。‥‥‥‥いえ、こういう時は1秒が長く感じられますからきっとそのせいでしょう。


伊摯いし。面を上げなさい」


子履の声です。子履があたしを姓付きで呼ぶのは何ヶ月ぶりでしょうか。あたしは片手をグーの形に握りながら、おそるおそる顔をあげます。頬が冷たく感じられたので、おそらく自分は涙を流しているのでしょう。それすら気づかないくらいの寒気があたしを襲っていました。

遠くの椅子に座っている子履は唇を噛んで、鋭い目であたしを睨んでいました。泣きそうには見えません。ただ、怒っているのは確かですが悲しそうにも見えません。子履が何を考えているのか全く分かりません。


「今から明日の夜まで、私の奴隷になってください。それで許してあげます」

「はい、ありがたきお言葉‥‥!」


子履の奴隷になることになりました。子履は何かを続けようとしますがなぜか言葉が詰まったようでそっぽを向いてしまったので、任仲虺が続きを話します。


「早速ですが、自分の寝間着と荷物を持ってきてください。ここに戻ってきた瞬間から、さんと離れることは許されません。(※トイレ)の中でも一緒です」

「‥‥‥‥厠はちょっと‥」


子履が小声を挟んでくるので、任仲虺はこほんと咳をして言い直します。


「‥‥厠意外は、たとえ体を拭く(※お風呂の代わりにタオルで全身を拭く)ときであっても一緒です」

「‥‥‥‥あの、それもちょっと‥‥」


また子履が小声を挟んできます。こういう場面でなければコントに見えたかもしれません。


「‥‥‥‥寝る時も一緒です」

「‥‥‥‥あの、それもちょっと‥‥」

「我慢してください」


任仲虺が子履にそう言います。あれ、何で子履が我慢する必要があるんでしょうか‥‥?と聞きたかったのですがこの境遇です。黙って聞き入るしかないです、と思っていたら任仲虺がまたとんでもないことを言い出します。


「2人は恋人らしく、常にべたべたくっつかなければいけません」

「えっ」


あたしより先に声を上げて驚いたのは子履です。子履は慌てて椅子から立ち上がって任仲虺に何かささやきますが、任仲虺は首を振ります。えっと何ですかこれ、どう考えても子履ではなく任仲虺が罰を決めたように見えますけど‥‥。えっと、任仲虺ってあたしの味方ですよね‥‥?少々雲行きが怪しくなってきました。

任仲虺はそんなあたしを見て取ると、いったん子履から離れてしゃかんで、小声であたしに説明してきます。


「ただ奴隷になっただけでは形だけでしか許してもらえず、のちのち別の罪を犯したときにこれを掘り起こされて刑が余計に重くなりかねません。心の底から許してほしければ、摯さんの行動が履さんの想定を上回る必要があります」

「‥‥‥‥はい‥‥」


あたしはそれで任仲虺の行動に妙に納得してしまいます。確かに心の底から許してもらうには、これしかないかもしれません。恥ずかしいですが、これも自分の身のためです。もとはといえば、立ち回りに失敗したあたしの責任です。やってやるしかありません。


◆ ◆ ◆


この世界に歯磨きという習慣はありません。全くありません。歯医者も存在しません。つまり虫歯なんて当たり前で、歯が全部欠けているか無くなっている高齢者、時には中年の人もたくさんいます。三国時代の曹操そうそうなど、どんなに有名な人であっても例外ではありません。

もちろん前世の記憶がある子履もあたしも、そんなものは許容できません。虫歯の恐ろしさはよく知っています。あたしは強靭そうな草を歯の間に入れたり、水で念入りに口をすすいたりしていますが、水の入った桶を囲むようにしてあたしの隣りにいる子履は商の国で特注したらしい歯ブラシを使っていました。子履は以前、入浴のほかに歯磨きの習慣も、せめてしょうの国の中だけでも広めたいと言っていました。

突然、子履があたしに歯ブラシを差し出してきました。


「私の歯ブラシを使いますか?」

「えっ、でも‥」

「大丈夫です、これはまだ使ったことのない新品ですから」

「でも店で売ってるわけではありませんし、履様の大切な歯ブラシを使うわけには‥」

「奴 隷 で す よ ね ?」

「ははーっ、ありがたく頂戴いたします」


なんていうやり取りがあって、もちろん歯磨き粉はありませんから水に浸してそのまま磨きます。この感触、まるで前世の歯ブラシそのものです。一体何を使って作ったのでしょう、と思うくらいには前世の感触そのものでした。

歯を磨いて思い出します。恋人らしくべたべたくっつかなければいけないと任仲虺から言われています。でも今のところ子履から近寄ってくる様子はありません。このままでいいでしょうか、いいえ‥‥子履の想像を上回ってくださいとも言われています。結局、くっつくしかないでしょうか。

あたしは子履へ近寄ります。子履がちょっとだけ遠ざかっていく感じがしましたが、構わずえいっと肩をくっつけ合います。子履は「んっ」と声を出しましたが、そのうち少しずつ体温と体重をこちらへ預けてくるような気がしました。子履の匂いがぶわっと伝わってきて、なぜかあたし恥ずかしくなってきます。


それはいいとしても‥‥離れるタイミングが分かりません。子履もあたしも、歯磨きが止まりません。いつまで磨いているんでしょうか、というくらいには続いています。「いつまで続けるんですかぁ‥‥?」という眠たそうな姒泌じひつの一言でやっと止まりました。

歯ブラシは自分で責任を持って保管しようと思いましたが、子履の持っている歯ブラシ専用のケースが1つの箱の中に複数の歯ブラシを入れる設計だったらしくて、子履に預けることにしました。


無人のベッドを目の前に、子履とあたしは並んで立っています。


「‥‥お、おさきにどうぞ、履様」

「摯が先にどうぞ」

「ですが、履様が外側で寝ると、転がって落ち『奴隷ですよね』アッハイ」


奴隷の定義ってなんでしたっけと思いながら、あたしはベッドの奥で横になります。相変わらず子履は、ベッドの端の今すぐにでも落ちてしまいそうなほどギリギリのところで、あたしに背を向けていました。

ここでまた、子履の想像を上回ってという言葉が頭をよぎります。‥‥本当は嫌なんですけど、宮刑のためなら仕方ありません。あたしはえいっと尻を動かして、子履のすぐ隣まで来ます。子履もそれに気づいたのか、ばっと身を起こして、あたしを見下ろして赤面します。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」

「‥あの‥普通に寝ませんか?」


あたしの提案に子履はしおらしく「‥‥はい」と返答して、ベッドの端から少しばかり離れた位置で横になりました。そんな子履の手を、あたしは布団の中で軽く握ろうとしますが、子履はすぐばっと離します。


「‥今日は積極的ですね、摯」


そりゃあたしも任仲虺にあんなことを言われなければここまでやりませんから。あたしだって宮刑がかかってるんですよ、本当に。切実なんです。

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