第68話 雪子と初めてのお出かけ

「リアル鬼ごっこという映画がありますが、古代中国でも実際に似たような事件があったのを知っていますか?五胡十六国時代に数年だけ存在したという国(※歴史上他の魏と区別するために冉魏ぜんぎと呼ばれる)のことです。もっとも事件が起きたのは、魏が建国されるちょっと前ですが」


デパートの案内板に貼ってあった映画のポスターを見た雪子ゆきこに、何やらスイッチが入ってしまったようです。うわ、また始まったよ、とあたしは思っていました。


「当時の中国では、かん、三国時代、しんの時代を過ごしてきた漢民族と、その周囲の異民族が万里の長城を超えて入ってきた胡人こじんと呼ばれる民族が対立していました(※正確にはえびすは異民族の複数の民族をまとめて指す。五胡は5つの異民族・匈奴きょうど鮮卑せんぴかつていきょうの意)。漢人の中には胡人を漢化(※漢民族の習慣を持たない野蛮な異民族に習慣を持たせ、漢民族と同化させること。一部ではある意味での文化的な勝利とされていた)しようとする考え方もありましたが、排除しようとする考え方もまた根強く、胡人と漢人が争っていました。そんな中、ちょう(※他の趙と区別するため後趙ごちょうという)の石閔せきびんはもともと胡人に恨みがあり、『胡人を殺したら褒美を与える』という決まりを作ります。当時すでに華北において胡人は中国人の一部として日常生活に溶け込んでいましたから、結果として、街中の漢人は胡人を見つけると手当り次第殺すようになり、胡人たちの村も襲い次々と殺していきました。その数は20万人にも及んだといわれ」

「はいストップ、本当にストップ、この前よりひどくなってるじゃない」


なんですかそのディストピア。これはさすがに作り話か何かでしょう。壇ノ浦の戦い?とかより悪質です。


「今日は歴史の話はやめるって約束したでしょ?」

「うう‥そうですが‥」


雪子は肩をすくめて、唇を尖らせてあたしを見上げます。雪子、そんなうるっとした瞳しないでください。あたしは目をそらしますけど、雪子の瞳が妙に頭に引っかかってとれないです。だからといって残酷な話はダメですよね。絶対。


「それよりゲームセンターいこ!このデパートの地下にあるし。行ったことある?」

「い、いいえ‥‥」

「じゃ、行こう!教えてあげるから、ついてきて!」


あたしは雪子の手を握って、くいっと引っ張ります。雪子の手は思ったより温かかったように思います。それでもあたしほどじゃなかったかな。


エスカレーターでちらっと振り返ると、雪子はひたすらあたしを見つめていました。そのまっすぐな目を見ると、あたしの心拍数が上がっていくような変な気持ちになりましたから、すぐ目をそらします。


「‥どうしてあたし見てるの?」

「私をエスコートしてくれますから」

「エスコートくらい誰でもやるよ、雪子は大袈裟ね」


あたしはふふっと笑って返事します。それでもエスカレーターを降りたところで、雪子がまた話し始めました。あたしの後ろで、独り言のように言ってきます。


「中国の話を最後まで聞いてくれるのは、あなただけなんです」

「えっ」


雪子の後ろにも客がいたので、あたしは順路をそれた壁近くまで来て、立ち止まります。


「‥‥他の人はどうしてたの?なんか想像つくんだけど」

「なんだって言われて無視されたり、怒鳴られたりしました」

「そりゃあね‥‥」


知らない人にいきなり長話される上に、戦争とか内乱とか怖い話ばかりするんですものね。そりゃそうなります。


「‥‥だから、あなたは私にとって特別な人なんです」


そうやってあたしを見上げる雪子の目は、きらきらに輝いていました。


「特別って‥まだ会ったばかりでしょう」

「いいえ。あなたは私に2週間を超えて付き合ってくれました。こんなに一緒にいてくれた人は初めてです」

「今まで学校生活どうしてたの‥‥」


そのあまりの期間の短さに、あたしは片手で顔を覆い隠してため息をつきます。でも確かに、初対面の中国史分からない人にいきなり八王の乱の話を始めるんですよね。後で世界史の先生に聞いてみたんですが、もともと知名度の低い事件であるのにくわえ、その前の三国時代で活躍した有名で有能で現代でも人気のある陸遜りくそんのような武将たちの子孫がこの事件によって次々と死んでいくため、中国史に詳しい人のたいていは嫌いな事件の1つに数えるのだそうです。ますます初対面の人に教えたらダメなやつじゃないですかそれ。なに嬉しそうに話してるんですか。そりゃ友達できないですよ。

そう、あたしがこうやって雪子を連れ出した裏の目的は、雪子に友達ができるよう更正させることです。雪子と2人きりでいるのが嫌なわけじゃないですが、あたし以外の友達がいないことを知ると、雪子のことを妙に意識してしまって疲れてしまうような気がするのです。あたしには雪子以外の友達ももちろんいますけど、雪子はあたしの隣にしか居場所がないようなのです。


「音ゲやる?」

「はい、やります」


雪子はあまり元気がないように見えました。そりゃ、普段インドアな人がいきなりゲームセンターですもんね。運動不足の度合いによっては、ここに来るまでの道程ですでに疲れてしまったりしてるかもしれません。まあ、音ゲは画面叩くだけですし大丈夫でしょう。


「音楽に合わせてここを叩くゲームだよ、やったことある?」

「いいえ」

「やってみなよ、新鮮だから」

「はい」


雪子は疲れを見せながらも、半ば興味津々な様子で画面を覗き込みます。あたしにレクチャされながら、画面を丁寧に叩きます。もっと強くとあたしは言いましたが、それが雪子に出せる精一杯の力のようでした。ぺちぺちという音が出るたび、得点が入っていきます。まだまだ初心者向けの難易度ですが、あたしの思っていた以上に正確に雪子は叩いていました。


◆ ◆ ◆


上の階のフードコートで八宝菜を食べている雪子に、アップルパイを食べているあたしは隣から声をかけます。


「うまいじゃん、雪子。初めてでほとんどミスしない人、初めて見たよ」

「ありがとうございます。昔から動体視力だけはいいのです。運動はダメですが‥‥」

「すごいって」


雪子は照れて、幸せそうに口角を上げて、頬を赤らめていました。中国の話をしている時の雪子もいいですが、こっちの雪子もいいものです。

「そうだ」とあたしは言います。


「あたし行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれるかな?」

「はい、喜んで」


◆ ◆ ◆


あたしは雪子を連れて、屋上の一つ下の階にある菜園に来ました。屋内にかかわらず、色取り取りの花が所狭しと咲いています。

少し季節遅れのチューリップのほか、ヒヤシンス、スズランなどが咲いています。雪子も花を1つ1つ見て、楽しんでいる様子でした。こうしてみると雪子も普通の女の子です。中国好きを否定はしませんが、きっと他にも好きなものが見つかるはずです。


ふと、あたしの視界にオレンジ色の花が入ります。オレンジ色の花が他になかったせいかもしれないのですが、それが妙に目に焼き付いて離れないのです。それは小ぶりながらも美しい花でした。あたし、花の知識は人並みにあるつもりでしたが、その花の名前はすぐには出てきませんでした。最初に見た時はオレンジ色に見えましたが、あたしがその花に近づいて照明を遮ると、赤色にも見えました。

雪子の様子を見ます。雪子はあたしを置いて、いろいろな花を見ています。横顔から、楽しそうな表情が伺えます。あたしはつばを飲みます。全然そんなつもりではなかったのですが、なぜか雪子にプレゼントしたいという衝動が出てきたのです。まあ、雪子にとってあたしは初めての友達らしいですし、その記念があってもいいでしょう。

値札を見ると、「ひなげし」と書いてありました。花言葉は「いたわり、思いやり」らしいです。あたしはその黒いゴムのような小さい鉢を持ち上げます。


その店を出るときに、あたしは買ったそのひなげしを雪子に渡します。


「はい、これあげる。雪子、花好きみたいだったから」

「ありが‥‥」


雪子はそう言いかけて、あたしの渡してきた花を見てぴたっと固まりました。目を丸くして、震えて、何か怖いものを見ているようです。

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