第235話 羊玄の恩赦

さて、の国では、2度目の正月だというのに羊辛ようしんがまた連絡もよこさず訪ねてこなかったので、羊玄ようげんはやきもきしていました。


虞庵ぐあん、虞庵、これ、虞庵、おるか?」


巻かれておらずいっぱいに広がった竹簡を掴んで、廊下を歩きながら人の名前を呼びつけます。


「はい、ただいま」


急いで駆けつけた虞庵が、ヨーロッパ式の花模様のある絨毯に不釣り合いなはいを丁寧にします。羊玄は一回怒鳴りかけますが‥「そうじゃのう」と一呼吸置きます。


斟鄩しんしん劉乂りゅうがいから連絡が来た。田芳でんほう妘勝うんしょうはすでに死んだとのことだ。わしが信頼できる人は、もう劉乂しか残っていない」

「それは‥」

「劉乂まで死んでしまうと、わしが斟鄩に戻るのは難しいだろう。それに問題はもう1つある。陛下が大きな宮殿を建てると言い出したのだ。連年の冷害災害をうけてもなお豪華な宮殿を建てるのならば、人心はますますから離れるだろう。以前なら他の部下も使って陛下を説得できたのだが」


そう言って、羊玄は大きなため息をつきました。


「それでは、劉乂という者を通して、師の刑期を短くしてもらうよう取り計らってはどうです。ご自身が決めた刑期とはいえ、劉乂なくしては二度と斟鄩に戻れなくなります」

「その通りだ」


羊玄は早速、劉乂に向けて竹簡を送ります。


◆ ◆ ◆


建午けんごの月(※グレゴリオ暦6月相当)、夏后履癸かこうりきは機嫌をよくしていました。新しい宮殿の建設が順調である、あと少しでできるという報告を受けたのです。妺喜ばっきと腕を組みながら、広大な庭を歩いていました。


「向こうにあるものが何だか分かるか?」

「建設中の宮殿じゃな」

「そうだ、それがもう少しでできるとの報告だ。予定より少し繰り上がるらしい。わしはずっと、この日を楽しみにしていたのだ。ああ、待ち遠しい」

「ふふ、陛下が楽しいとわらわも楽しいぞ」


そう言って妺喜が夏后履癸の胸に頭をこすりつけたところで、一人の家臣がゆっくり歩いてきます。白い髭をはやし、少し背の低い初老の男です。


「申し上げます、陛下」

「どうした、誰かと思えば劉乂か。確か劉累りゅうるい(※過去に夏をおさめていた夏后孔甲かこうこうこうの部下とされる人物)のほうの出来損ないだったな。申してみよ」

「はっ。新しい宮殿の落成も近いとのこと、お慶び申し上げます」

「そうか、そうか、お前も喜んでくれるのか」


夏后履癸はまた上機嫌に笑いますが、妺喜はむすっとした顔でその男を見ていました。


「これは大変めでたいことでございます。ときに8階建ての宮殿を半年足らずで完成させるのは、この夏の400年の歴史、そして五帝の誰もがなし得なかった偉業です。これはひとえに、陛下の人徳があってのことでございます」

「ははは、そうかそうか」

「この歴史的な偉業をたたえるために、恩赦を与えてはどうでしょうか」

「ふむ、何千人を赦せばいいのだ?」

「いいえ、数千人に匹敵する男が1人います。羊玄です」


その名前を聞くと夏后履癸は一気に興奮が冷めてしまったようで、固まります。


「な、なつかしい名だな‥‥」

「羊玄は2年前に竜の襲撃と和弇かかんの反乱の責任を取って巴の国に謹慎なさっておいでです。しかし聞くところによりますと、劣悪な屋敷に入れられながらも常に襟を正し、規則正しく生活を送り、巴の国の内政を手伝い、民を思い慕われ、この斟鄩や陛下を一度も中傷することなく、慎ましく生活を送っております。大赦の対象としては大変申し分ないのです。羊玄を赦さずして、一体誰に恩赦を与えればいいのでしょうか。羊玄ほどの者を赦さず、劣悪な奴隷を赦すようなことをしては、人々は悔い改めることをやめます。新しい宮殿に見合う規模の大赦をお考えくださいませ」

「ならぬ!」


妺喜が突如として割り込んできます。


「やつはこの斟鄩をあの益獣といわれる竜に襲わせたのじゃ。すでに人民は羊玄を嫌っているということじゃ」

「妺喜様は、羊玄を恨んでおいででしょうか。羊玄は蒙山もうざん伯(※妺喜の父にあたる喜鵵きつ)の助命を岐踵戎きしょうじゅうに命じたのでございます。蒙山伯が自らの強い意志で命を落とすことがなければ(※喜鵵がみずから食事を拒み死んだことになっている。第170話参照)羊玄は蒙山伯、そして妺喜様の恩人になっていたはずです。そのような方をむさむさ厳しく罰するのは、妺喜様の道理にあわないでしょう」


その劉乂の返事を聞いて、妺喜は舌打ちをして首をひねってしまいます。


「どうした、妺喜は不服か?」


夏后履癸が心配してきますが、妺喜はまた首をぶんと動かして、顔を上げます。


「分かった。そこまで言うのなら受けて立ってやろう」


◆ ◆ ◆


斟鄩から巴の国まで、片道3ヶ月、運が良くても2ヶ月かかります。えきで馬の交換ができるとはいえ、巴のまわりは山に囲まれ、隘路も多く、僻地は駅も整備されていません。

瓊宮けいきゅうが完成したのは建申けんしんの月(※グレゴリオ暦8月相当)のはじめでした。そこから劉乂は巴の国まで急使をとばしましたが、それでも巴の国に到着したのは建戌けんぼの月のおわりでした。巴の国は高山地帯に見合わず温暖湿潤で、これまで降ったこともないはずの雪が大量に積もっていました。その積もりようは最近の冷害の影響で片付けることができないほどで、まるで冬国でした。今から行くなら4ヶ月、下手すれば5ヶ月も覚悟しなければいけないでしょう。しかも桟道さんどう(※切り立った崖の途中につけられた道幅の細い通路)も、雪が積もっては滑りやすく、通ることができません。それでも羊玄は勅使が来るまでにあらかじめ準備を整え、勅使の来た翌日に巴の国を出発しました。


こんな隘路では馬車も通りませんから、虞庵や複数の従者とともに馬に乗ります。屋敷からいったん近くのむらまで降り邑人と軽く挨拶した後、すぐ山登りです。しかし、崖に挟まれた道を大きな雪の塊が塞いでいました。羊玄は近くの人に聞きました。


「これ、あの大きな塊のせいで先に進めないのだろう。いつからあったのか?」

「へえ、昨日まではなかったはずで」

「ふむ、わしが溶かしてやろう。木を集めてくれ」


魔法を使うには媒体が必要です。数人の従者に木を集めに行かせた後、自分は馬から降りて雪の塊を触ってみます。

相当固くなっています。晴れの日ですら全然雪が溶けない中で、これほど巨大な球ができて、硬くなるのは不自然に思えます。ふと、球の表面に文字が彫られているのに気づきます。白い表面に白い文字が書かれているので読みづらいのですが、羊玄はなんとなく目を凝らして読んでみます。


『羊玄、老丘ろうきゅうにて死す』


たちまち羊玄はその岩のような雪を殴ります。「何事ですか?」と虞庵が慌てますが、羊玄はすぐに振り返ります。


「この落書きを書いた人に心当たりは?」


それを見た虞庵はたじろいて、あわてるように首を振ります。


「私は何も知りません」

「そうか。まあ、わしをここから出したくないやつが巴にいるのだろう。褒め言葉だと受け取って、今回だけは許してやろう。今回だけはな」


羊玄はため息をつきます。


しばらくして、岩のような雪は従者の持ってきた木材と羊玄の魔法による激しい炎で、焼かれました。

真っ二つに割れた岩の間を通って、羊玄たちは斟鄩に向かって進みます。


巴の人は羊玄の出発を惜しみ、そして精一杯に祝いました。

約3年間にわたり巴の国で眠っていた重鎮が、夏后履癸の暴挙を止めるべく動き出したのです。

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