第5章 稀代の悪女・妺喜の誕生(上)

第153話 妺喜が連れ去られました

その男は姓を、名を踵戎しょうじゅうと言いました。名前にじゅうという字が入っていますが、これは異民族の部族の1つをさします。しょうという字には、きびす、かかとの他にも「追随する」「継承する」という意味があることからも分かる通り、この男はもと戎の出身で、それからたびたび周辺民族を武力で討伐する夏后履癸かこうりきに押し負けて、名前を風のものに変えて(※異民族がこれまでの習慣を捨て漢民族の文化に合わせることで服従の意思を示す)、夏に帰順(※敵だったものに降伏し、服従を誓うこと)しました(※人名以外はすべて本作の創作)。

岐踵戎きしょうじゅうは夏后履癸に帰順した立場ですが、夏后履癸や夏に対して特段これといった感情はありません。そればかりか、富や権力を求める佞臣ねいしんでありました。何かにつけ夏后履癸の喜びそうなニュースを探しては、我先にと報告して、耳触りの良いことを言うのです。これで岐踵戎は自分の身分を上げ、ついに夏后履癸が食事中に自由に話しかける許しをもらいました。といっても夏后履癸が女とべたべたしている間にいきなり部屋に入って話しかけても怒られるだけなので、そこまでがっつり夏后履癸とくっついているわけではありません。


最近の夏后履癸の様子がおかしいのは、誰の目に見ても明らかでした。朝廷(※朝の会議)をしているときにも、夏后履癸はなぜか右と左にえんえんを置きながら怏々おうおうとして楽しまず、不機嫌そうに床を見ています。そんな様子に琬、琰も戸惑っているようで、夏后履癸の両横で正座して固まっていました。この2人に飽きたかと思えばそうでもないようで、たまに太ももを引っ張って揉みますが、それだけです。いえ、朝廷でそばに女を置くだけでも異常ですが、家臣たちの目の前で軽い情事に及ばないその様子は、普段と比較して明らかに異常でした。

家臣たちは落ち着いたを通り越してそわそわしていて足取りもおぼつかない様子で、朝廷の終わりとともに早足で大広間を離れました。しかしその中で岐踵戎は、その原因に感づいていました。


岐踵戎は夏后履癸の部屋に行きます。さいわい、いつも横にいる女はなく、夏后履癸は1人きりで椅子に座ってぼうっとしていました。岐踵戎がはいします。


「陛下、ご心配事がおありとお見受けします」

「ああ‥‥」

妺喜ばっきのことでございますか?」


夏后履癸は目を大きく見開きます。図星だったのでしょう。それから「‥ああ、お前はなぜすぐに分かるんだ。女と喧嘩したとか、朝食が美味しくなかったとか、他の理由を考えるだろうと思っていたのに」とぼやきます。


「私も並の家臣ではございません。ここ最近、陛下はお悩みでおいでです。それまでは他の女でごまかしてきましたが、ついに我慢できなくなったとお見受けします。これは、そう、先月の祭りの日に偶然その姿を見たためでしょう」

「うむ。他の男と一緒にいたのだ」


そう言って夏后履癸はため息をつきます。妺喜と終古しゅうこが一緒にいるところを、女に囲まれながら歩いていた夏后履癸は偶然見つけてしまったのです。


「わしはあの男を殺さねばならぬのか」

「いいえ、殺すべきではありません。私がかたわらで見た限りですと、あの男は終古しゅうこでございます。代々史令をついできたしゅう氏の跡継ぎで、将来は夏の家臣になるのでしょう」

「なんということだ。終氏は名士のひとつだ。その後継ぎを殺してしまっては、どうしようもないだろう」


そこで岐踵戎はにやりと笑います。


うらなってみたところ、終古や妺喜に恋愛感情はございません。性別こそ違えと、ただの友人でございます」

「おお、それでは男を殺さずにめとれるのか」

「いいえ、これも卜いでございますが、彼女には殺人の罪がございます」

「な、なに!?」


夏后履癸が慌てて椅子を立ち上がります。卜いの結果と言えば何でも信じられた時代です。


「殺人といえば重罪だぞ。大辟だいへき(※五刑のひとつ。死罪をさす)ではないのか?」

「幸い、殺したのは奴隷のようです。情状酌量次第では大辟を回避できるでしょう」

「いや、しかし‥‥」

「陛下の心情、拝察いたします。しかし、大罪を犯しながらこれを減刑できる方策がただ1つございます」

「それは‥‥?」

「陛下の恩赦でございます」


夏后履癸はまた椅子にもたれます。


「して、殺した理由は?わしも殺されてはかなわぬ」

「奴隷は妺喜の母に毒を盛ったのでございます。妺喜の母は精神を病み部屋にこもっておりますが、その元凶がくだんの奴隷なのです。蒙山もうざんを逃れ斟鄩しんしんに至った奴隷に、妺喜は復讐したのです」

「なるほど。復讐であればわしも減刑がやりやすくなるだろう。だが妺喜はあんの魔法を扱うという」

「そんなもの、恩赦のご恩でどうにかなるでしょう。むしろ命を助けてもらった陛下に心服し、結婚を望むというものでしょう。心配はございません」

「そうか、そうか。今すぐ召し出してまいれ」

「ははっ」


岐踵戎は深々と頭を下げ、その部屋を後にします。こうして意中の女をくっつけることに成功すれば、岐踵戎の立場もさそあがることでしょう。岐踵戎は、蒙山の国や妺喜に恨みを持っているわけではありません。ただ自分の身分が上がれば、それでいいのです。夏后履癸に背を向けた岐踵戎は、これまでこらえていた黒い笑みを顔にたたえます。

先程までおとなしくしていた夏后履癸は一転して、どこか浮足立ったように、落ち着かないように、鼻歌を歌っていました。


◆ ◆ ◆


それは、伊摯いしを追って子履しり任仲虺じんちゅうきげんに向かっている最中で、3人とも不在でした。妺喜は終古しゅうこの部屋まで行って、ベッドに座って2人で肩を寄せ合って一冊の本を読んでいました。終古はまだ妺喜が隣りにいるのに慣れないのか、心臓がパクパクしてますし、ずっと妺喜から目をそらしています。妺喜は少しいらっときたのか、手のひらを思いっきり終古の股間にぱんとぶつけます。

股間を押さえて飛び上がるように立ち上がった終古を見て、妺喜は腹を抱えて笑います。


「ははは、愉快じゃ」

「‥‥っ、喜珠きしゅ様、これは反則です‥‥!」

「こんな身体、後でどうとでもの好きにできるのじゃ。遠慮はするな。今はおぬしと本を読んで語り合いたい」


終古はちょっとすねたようにゆっくり慎重に座ります。妺喜がすぐ抱きつきます。


「わらわは幼少の時から家の外に友人がいなかったのじゃ。少しは甘えさせてくれ」


妺喜と一緒に本のページを読んでいた終古は何も言葉を発しませんでしたが、それでも妺喜の向こう側の肩に手を伸ばして、軽くなでます。それが妺喜にとってはなんともいえない幸福でした。


にわかに廊下のほうが騒がしくなります。2人とも本を閉じてドアを見ますが、足音がどんどん近づいてきます。そしてドアが開きます。何人もの兵士たちがどんどん部屋に入ってきます。


「ど、どうしましたか‥‥!」


と終古は妺喜を隠すように立ち上がりますが、兵士の1人が言います。


「その後ろにいるのは蒙山国公子・喜珠で間違いないな?」

「はい」

「そいつを殺人の罪で連行する」


寝耳に水でした。終古はぽかんと口を開けて石のように硬直していますが、妺喜も同様でした。兵士たちはかまわず終古をどけて妺喜の身体を持ち上げます。


「違うのじゃ、わらわは人をあやめてなどおらぬ!」

(※軍事・警察を管理する役職。なお警察という言葉は日本で作られて中国に逆輸入されたもので、この世界には存在しない)の命令である。言い訳は尉に言え」


そうやって兵士たちは暴れる妺喜を捕まえてうつぶせにさせ、まず(※足につけるかせ。商周期は輪が2つに割れたもので足頸あしくびを挟んでから結んでくっつけ、また前後に棘がついていたという)を取り付け、桎に結んだ縄で引っ張ります。それから両手にこく(※手につけるかせ。棒状で、手に縛り付けたうえで紐を結びつけ、引っ張るのに使う)をつけ、きょう(※木の板に2つの穴をくりぬいて作ったもので、手錠として使う)で結びます。妺喜は「わらわは何もやってない!」と荒い息をつきながら、ようやく身体はおとなしくなります。

兵士が梏に結んだ縄を無理やり引っ張ると、妺喜は「ああっ、はぁっ、はぁっ」と、よろけるように立ち上がります。


「‥‥っ、古っ、古‥」

「妺喜‥‥!!」


兵士に無理やり引きすられていく妺喜は、涙をぼろぼろと散らしながら、見えなくなるまで何度も後ろを振り向いて叫んでいました。

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