第2話 婚約相手の召使いになりました
あたしは厨房の壁近くの椅子に座って、しばらく呆然としていました。
あの黒髪の士大夫の子はきれいだったけど、結婚するって言われても女同士ですし、身分の違いもありますし、そもそもこの世界に同性愛はあれと同性同士の結婚って存在しましたっけ?あの結婚の話自体も
だとしたら、あたしはまんまと騙されたことになります。子履にとってはしてやったりでしょう。仕返しされたということにしましょう。
何より、あたしは
と、私の隣の椅子に別の子が座ってきました。
「センパイ、何か悩みっすか?」
明るい声で質問してくれるその後輩は、
「ああー‥‥」
あたしはわざとらしく頭の後ろに腕を組んで、ぽんと壁にぶつけました。
「あたし、求婚されちゃったんだよ」
「ええーっ!えーっ!えーっ!お相手は誰っすか!?」
「士大夫の小さい子供だよ!」
最初にインパクトのある言葉をぶつけて、反応を楽しんでからオチをつけます。及隶は大袈裟なくらい食いついてくれるので楽しいのです。身分の違いもあるし、さすがに冗談か何かだと受け取ってくれるでしょう。
と思いましたが、及隶は目を丸くしていました。
「どうしたの?さすがに冗談だよ?」
「センパイ、それはもしかして今日のお客様、商伯の子ではないっすか?」
「え、知ってるの?」
「いいっすよ、センパイ、玉の輿っすよ」
「まあ、子供の言うことなんて誰も相手にしないでしょ」
子供の冗談に動揺していると後から恥ずかしくなってくるでしょう。あたしも子供だけどな。
ふうっとため息をついて、近くのテーブルにあった水に手を伸ばしました。それでも及隶が興奮しているようだったので、自分が飲もうと思って取った水でしたが、及隶にあげました。
及隶はそれを乱暴に飲んでから少しむせたようで、あたしに空のカップを突き出すとしばらく手で口を押さえていました。あたしがその背中をなでてあげると、及隶は小さい声で言いました。
「商伯の子の子履さまは御主人様(※
「うん、情報が早いね、それがどうしたの?」
「子履さまは分別のついた年頃っすよ?冗談で求婚するようなお方ではないっす!」
「ははは、まさか」
あたしの前世の9歳、いや
子供の冗談に慌てることはありません。あたしが椅子から立ち上がって、少し遠くにあるカップへ手を伸ばそうとしたところで、突然使用人が血相を変えて厨房に入ってきました。
「
「はい、あたしですが」
あたしがそっと手を上げると、使用人は激しく手招きをしました。
「御主人様がお呼びになっています!」
「えっ、あたしを、ですか?」
「とにかく、早く来なさい!」
「は、はい?」
あたしは言われるがままに、その侍女についていって早足で進みました。
◆ ◆ ◆
この屋敷の2階に、御主人様のお住まいになっている部屋などのほか、お客様をお招きする部屋もあります。あたしはその応接室へ通されました。庶民ですから
「伊摯でございます。ただいま参上いたしました」
「顔をあげよ」
顔を上げてみると、ローテーブルの向こう側のソファーに御主人様、あたしから見て右側のソファーに御主人様の息子様、左側にお客様と思われる女性とさっき会った子履が座っていました。後ろには大量の付き人が控えています。
普段温厚な御主人様は、この時ばかりは険しい顔でした。
「お嬢様がお気に入りになったのはこの方で間違いないでしょうか?」
御主人様がそう言うと、左側のソファーに座っている女性の大人が、子履に話しかけます。
「
「はい」
子履は何のためらいもなく、はきはきと答えていました。
あたしは背筋が凍ったような気がしました。この短いやり取りで、あたしは事の重大さに気づいてしまったかもしれません。
御主人様は少し申し訳無さそうに頭を下げつつ、女性に話していました。
「この者の料理は、家内が
「履直々の指名なので、何とかできないでしょうか?」
様子を見るに、この女性はどうやら子履の母親のようです。やり取りを見ていると、あたしを結婚相手ではなくあくまで料理人として連れて帰ろうとしているようです。おそらく子履が母親に『この料理人が気に入った』と言ったのでしょう。商の國に囲い込んでから、今度は恋人としてアプローチしてくるかもしれません。
女同士の結婚なんて‥‥あたしには興味ないです。ただ冗談で言っただけなのに。しかしそこは士大夫同士の話し合いの場、庶民のあたしは口出しもできないまま、どんどん話が進んでしまいます。
最後に御主人様が、あたしに最後の命令を下しました。
「息子がしばらく
「ははーっ」
あたしは深く礼をして、応接室を出ていきました。
◆ ◆ ◆
なーんて思っていましたが、やっぱり冷静に考えてみれば士大夫の令嬢が簡単に庶民の同性と結婚したいと言うはずがありません。そもそもこの世界の考え方だと結婚とは子孫を残すためのもので、子供の作れない夫婦はそれだけで離婚させられることにもなっていますから、同性同士の結婚自体がまずありえないのです。なので仮に子履が本気でそう思っていたとしてもまず周りが止めるでしょうし、本人も
とはいっても、商丘へ行くことになったのは事実です。あたしはリーダーとして、部下を何人か連れて行かなければいけません。
「センパイ、大変なことになったっすね‥」
あたしが前から面倒を見ていた及隶は絶対入れるとして、他のメンバーにも声をかけたところ何人か応募してくれました。
これから夕食を作りつつ荷造りしなければいけません。少し慌ただしくなったところで、また使用人が厨房に入ってきました。
「お客様から
「ありがとうございます」
あたしはその竹の束を受け取りました。子主癸からのものでしょう。この世界に紙というものは存在しますし普通に流通していますが、格の高いした有は代わりに竹を割ったものに文字を書いて紐を通して束にして使っています。
「うわ、竹簡っすね、初めて見ました‥‥!」
「あたしも初めて触るよ」
「触らせてください、センパイ!」
「いいよ、はい」
そうやって及隶と少し遊んだところで、あたしはテーブルの上でその竹簡を開きました。
その内容を見て、竹簡で軽薄に遊んでしまったことを後悔しました。
『履と婚約したことを聞きました。世間体がありますのではじめは料理人という格好ですが、いずれ結ばせますのでよろしく。この話を旦那は知っていますが、莘伯とその息子はまだ知りませんので、決して粗相のないように。子主癸』
あたしは今度こそ本当に背筋が凍りつきました。一介の召使いとして平穏な暮らしを送るという夢が崩れていく気がしました。隣で覗き見していた及隶も、これ以上無い微妙な表情をしていました。
おい止めろよおい。親だろ自分。
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