第267話 帰りの馬車で(3)
任仲虺はあれこれ言っているけど、これは毒に決まっています。
妺喜はあたしにこれを投げつけて、反応を面白がっているのです。
今頃、陽城のほうで、死にかけの恋人に薬と勘違いして毒を飲ませて絶望しているあたしを想像して笑っているのでしょう。
でも、もう、それでいいのです。今のあたしに余裕なんてありません。
あたしは反省しています。雪子を残して死んでしまった前世のことを。
今なら、雪子の気持ちが痛いほど分かります。
あたしに、その気持ちに耐えきれる自信はありません。
前世で、雪子はあたしがいないと生きていけないと言っていました。実際、雪子がいじめられているのをあたしは助けました。
しかし実際はその逆でした。虐待でぼろぼろになっていたあたしに、雪子は救いの手をさしのべてくれたのです。
あたしは前世で先に死んでしまって、雪子の気持ちを台無しにしました。
雪子のいない人生なんて、想像ができません。
今は一瞬一瞬を、確実にともにしたい。
あたしは丸を歯で割ります。
「雪子。前世はごめんね。今回は一緒にいてあげるからね」
任仲虺は目の前に残っています。
「仲虺様、
「‥‥言ってください」
「何かあったら
任仲虺は無言で頷きます。あたしが「
止めないんですね。まあ、止められてもやりますけど。
あたしは子履の頬を、両手でしっかりと掴みます。
目玉はえぐり取られ、真っ黒です。
鼻も耳もそがれ、見たこともないような骨をあらわにしています。
舌は切り取られ、歯も全部抜かれています。
頬や額は無数の傷でぼろぼろになっています。激しく叩かれたのでしょう。
医者に見せたら、なぜこの状態で生きているのか不思議と言われるかもしれませんね。
さっき割った丸を自分の口に含めます。
自分の口を、子履のそれに近づけます。
前世では叶わなかった、恋人らしいこと。まさか現世で、それが最初で最後になるとは。
子履の顔が近づいてくるたび、これまでの思い出が全部蘇ります。
走馬灯‥‥とはちょっと違うかもしれませんが、もうそれとしか思えません。
草原で出会ったときのこと。学園に初めて行ったときのこと。一緒に寝たときのこと。
他の同級生たちと一緒に騒いだこと。買い物に行ったこと。文化祭。妺喜がさらわれた時。学園から國へ戻る旅路。
母が死に三年の喪で苦しむ子履と初めて小屋の中で話したときのこと。
あたしは覚悟を決めています。怖い。怖い。怖い。でも、子履のいない人生のほうがもっと恐ろしくて怖い。
唇がぴったりと合います。
子履のそれは、冷えていました。あたしよりもよっぽと硬いです。
今の子履には、歯も舌もありません。意識もほぼ無いでしょう。あたしは半分に割れた丸を、舌で口の奥へ押し込みます。
これが喉を通ったら、子履は死ぬんですね。でもその時は、あたしも一緒に飲み込みます。
子履の目が真っ黒で怖そう。
大丈夫、怖くないからね。
あたしもついているからね。
大丈夫。
その次の瞬間、光が走ります。
真っ白な暖かい光が、あたしと子履を包みます。
前世でも見たことのないくらい、まぶしい光です。真っ白な世界に入ったようなものです。
それで、あたしは自分の薬を飲み込む舌を止めてしまいました。
え、子履だけじゃなくあたしも死んだ?あたしまだ健康で薬を飲んでないのに?
子履が死ぬショックが大きすぎてあたしも死んだとか、そんなんでしょうか。
ふと見ると‥‥
子履の真っ黒だったはずのそこに、目玉があります。瞳孔がぴくぴく動いて、光を反射しています。
ありえない見た目をしていた鼻も‥触ってみると耳も‥‥そして、歯も。舌も。
二度と戻らないはずの子履のきれいな顔が、戻っていました。
そっか、ここが天国なんだ。
次の瞬間、子履の口があたしのそれに飛び込んできます。
舌が伸びてきます。
あたしの口の奥にあったそれが、引っ張られます。吸い出されます。
そのまま、口の中を、もう半分の丸が滑っていきます。
それを奪った子履は‥もう一度、体を光らせます。
聞いたこともないような呪文を唱えます。運命の糸に操られているかのように。
光が子履の無惨な肩に集まります。
比喩ではなく、本当に光が粉になって、集まって、腕の形を作ります。その腕に色がつきます。
子履はもう一度呪文を唱えます。残りの光が、股間に集まります。
あたしは無意識に、子履から距離を取っていました。
光が脚になって、あたしのところまで伸びてきて、そして‥色に変わります。
馬車の揺れが体を伝わります。
子履の背後にある窓から、揺れ動く風景が見えます。
「‥‥履様」
これは夢じゃない。天国じゃない。現実だ。
‥‥‥‥やっぱり夢だ。
夢だ。こんなの、夢だ。あの子履が戻ってくるなんて、そんなことがあるはずない。
「
湯のように熱くなった子履の体が、あたしの腹を茹でます。
言葉が出ません。体も動きません。子履の泣き声が、馬車の中に響きます。
狭い馬車での音の反射、馬車の振動、揺れ動く景色、子履の体温、椅子の感触。それら全部が虚構にしか思えません。あたしはまだ夢の中で揺れ動いでいました。
「‥履様」
「摯」
その子履の声を聞いた途端、あたしはその華奢な体をもう一度きつく抱きしめて、わけもわからず叫んでいました。
◆ ◆ ◆
「私は
子履がそれを言い出したのは、あたしがようやく抱擁をやめてからでした。
「‥えっ?何を言っているのですか、履様」
「
「履様はあの仕打ちをもう一回経験したいと言ってるのですか?」
「商もあなたも無事でいるためには、そうするしかありません」
くすぶる子履を見て、あたしはため息をつきます。自分の懐から、一輪の花を取り出しました。
「それは‥」
「履様が商丘を出発する時に、あたしにくれた造花です」
造花とはいえ、これはひなげしです。その花は、真っ赤に燃えています。
あたしは、その花びらを1つ1つ、子履の目の前で丁寧にちぎります。
この花を子履が作ったのか、子履が誰かに言って作らせたのかはわかりませんが‥‥その花びらが1枚減るたびに、子履は目を大きく見開いていました。
「この花は、前世で
「どうして、それを‥」
「ひなげし。別名、コクリコ。そして、
固まる子履の目の前で、花びらが1つ1つ、散っていきます。
「あたしは前世で、雪子にこの花を送りました。初めてデートした時に1回目。誕生日の時に2回目。そして、キャンプの時に3回目。この花を送ったあとに、あたしは花言葉通りに死にました。だから履様」
花びらはのこり5枚、4枚‥‥数えられるほどの枚数になります。
残り3枚。
残り2枚。
残り1枚。
「あたしは前世で雪子が味わった苦しみを垣間見ました。それを覆せるよう、仲間を集めて苦心しました。そしてやっと履様を助け出しました。そのあとに、さっきの履様の言葉です。履様はあたしを助けたいのでしょうか、それとも前世であなたが味わったのと同じ苦しみをあたしにも味わってほしいのでしょうか?たとえ商が滅ぶことになっても、あたしはどこまでも履様についていきます。履様が死ぬなら、あたしも一緒に死にます。その覚悟は、もうできています。もしあたしの気持ちを受け止めてくれるなら‥最後の1枚は、履様がちぎってください」
子履は目を丸くしていましたが‥‥やがてそれは、やわらかな微笑みに変わります。
手を伸ばして、指でそれをそっとつまみます。
最後の1枚がぷちっと切れます。
「私たちの間に、この花はもういりません」
その一言を添えて。
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