第266話 帰りの馬車で(2)
そんな
この世界に転生して、あたしに出会えた雪子はどれだけ嬉しかったのでしょうか。
あたしだけ前世の記憶が曖昧で、雪子のことをほとんど忘れてしまっていました。
そのことを知った雪子は、どれだけ悲しかったのでしょうか。
この世界での三年の喪の時、
前世の雪子は、1ヶ月ほどバイトをしてためたお金で買った高いネックレスを、あたしにプレゼントしてきたのです。
あたしも働いて同じものを買って、おそろいと言って雪子に渡しちゃいましたけど。
現世のあたしはそれを忘れたと知った子履は、悲しそうな顔をしていました。
あのときの子履は、雪子は、どれだけつらかったのでしょうか。
記憶を取り戻した翌朝、あたしは雪子と婚約していることを思い出して、とても嬉しかったんです。
あたしの人生で欠けているものが、やっと1つにつながった気がします。
雪子の記憶を取り戻したあたしが、本当の自分のように思えたのです。
せっかくあたし、前世の記憶を取り戻したのに。
やっと雪子と一緒に幸せになれると思ったのに。
はじめて恋人同士になれると思ったのに。
結婚できると思ったのに。
前世で叶わなかった夢の、その先へいけると思ったのに。
「そんなのって、ないよ‥‥」
あたしの膝に転がっているのは、いくら豚の糞を取り除いても、決して取り繕うことのできない変わり果てた姿です。
今日がその7日目です。
竜は使えません。竜より遥かにのろい馬車で、
あたしがもっと早く前世のことを思い出していたら。あの日、子履が陽城へ行こうとするのを全力で止めていたら。
馬車が急に止まります。あたしは膝の上に転がっている『それ』を見ることしかできません。体が石のように動きません。固まっているうちに、ドアが開きます。
「どうしたんだい?そんなに泣いて」
顔をゆっくり上げてみると、知らない男と女が顔をのぞかせていました。
「あんたの泣き声が外からも聞こえてくるもんで、つい声をかけちゃったよ。まあ、これでも食べて元気を出しなさいな」
「‥‥ありがとうございます」
あたしのかよわい湿った手に、男はぽんと林檎を乗せました。
「‥‥うん?その膝の上に転がってるのは何です?ずいぶん汚れているようだが、この先の川で洗えるさ」
「‥‥あたしの恋人です」
「うん?」
「恋人が腕や脚を斬られて、顔もぼろぼろにされて、
もう、どうしようもありません。
ただ、子履が目の前で死ぬのを待つしかありません。
前世の雪子は、あたしが死んだ時、これくらいつらかったのでしょうか。
「どいつがやったんかね?」
「
「ああ‥‥あいつとは関わらんほうがええ。わしらの子も、馬鹿らしい宮殿を建てるために
あたしは思い直します。
こんな、山道を歩いてきただけの一介の庶民に事情を話したところで、目の前の子履が助かるわけではありません。
わらにもすがりたい気持ちでしたが、あたしが非常識なことに期待しすぎたのです。
「まあ、何だ、林檎もうひとつやるから元気を出せよ、な」
林檎をもうひとつくれました。口に出すことはできませんでしたが、心のなかでありがとうございますとお礼します。男女は馬車のドアを閉めます。馬車はまた動き出します。
「止めてください」
あたしの向かいに座っている
「いま来た2人の男女は、商の
膝の上の子履を撫でるしかできなかったあたしは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかりました。兵士の足音が消える頃にあたしははっと我に返って、腰を浮かせます。
「仲虺様、何をしているのですか?や、やめ‥やめさせます!」
子履を椅子の上に置いてドアノブを握ったあたしに、任仲虺は動じることなく、顔の向きすら変えません。
「
「どうにもなりませんよ?別の人に知られたところでどうも思いませんが‥少しつらいですけど」
「あなたはそれでも國を治める立場の人間ですか?体を斬られただけなら同情もされるでしょうが、いたいけな少女が汚物まみれになったのです。世間は美人には優しいですが、一度汚れた女には冷酷です。この商伯が生きている間、ありもしないにおいがするとからかわれ、笑い者になるでしょう。それでは革命も夢のまた夢です。革命ができるほどの人を集め力を蓄えるには、人並み外れたカリスマ性やイメージが必要です。そうでしょう?」
「あっ‥あっ‥」
言い返せる言葉がないわけではありません。しかし、任仲虺の返答には突っ込みどころしかないのです。
「‥‥だっ、だからといって殺していいことにはならないでしょう!」
「あの2人を生かしたとして、他の人にこのことを言わない保証はありますか?」
「頼めば黙ってくれるでしょう、いい人たちですから」
「本当に?噂話というものは、聞いた人の数だけ軽くなるものです。親戚や仕事仲間にしゃべったら、そこからまた広がります。1回でも言ったら終わりですよ?あの2人の命は、商の國と釣り合いますか?」
「
「夏には
あたしはドアノブから手を離して、子履を抱えて長椅子に座ります。ほぼ同時に兵士たちが戻ってきて、ドアを開けます。
「申し上げます、2人の庶民を殺して土に埋めました」
「ご苦労です、馬車を動かしてください」
任仲虺の返事とともにドアは締まり、馬車はまた動き始めました。振動があたしたちを揺らします。
「仲虺様‥もう1つ質問していいでしょうか」
「はい」
「隶の話だと、履様は今日中に死にます。なのに、まるで履様がこれからもしばらく生きていくかのように話していましたが、言い間違いですか?」
「それは
任仲虺はそのまま、懐から真っ黒の
「それは‥」
「馬車に乗る時、
あたしは言い返せませんでした。何も返事しませんでした。
膝の上に寝かせていた子履を立たせて、抱きます。
抱きしめます。子履の体はまだ温かいのですが、これからどんどん冷たくなっていくのでしょう。
冷たくなる子履なんて、想像ができません。
その子履が死ぬなんて。あたしの目の前で死ぬなんて。
前世での雪子の気持ち、今のあたしなら理解できます。
◆ ◆ ◆
あれからどのくらい経ったのでしょうか、少なくとも正午は過ぎたはずです。
あたしは何時間も何時間も、子履を抱き続けていました。
「‥‥もう、いいです」
「ん?」
「その丸をください」
あたしは任仲虺に、手を差し出します。
「履様を殺して、あたしも死にます」
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