第268話 帰りの馬車で(4)

「今まで黙っていましたが、前世であなたと出会う前のあたしは、物心ついたときからずっと料理人の親から虐待を受けていました。心も体もぼろぼろになっていたあたしを、あなたは受け入れてくれました。あたしという存在を肯定してくれました。あなたと一緒にいる日々は楽しくて、かけかえがなくて‥夢のような日々でした。この世界に転生したあとも、あなたはことあるごとにあたしに近づいてきました。最初は煙たく思っていましたが、それでも距離を詰めてくるあなたが好きになったのは、前世と変わらず心の底からあたしを必要としてくれるあなたの気持ちに触れ、そして、同じくあなたを求めているという自分の気持ちにも気づいたからです。男女は関係ありません。あたしには、あなたしかいません。すでに婚約していますが、改めて言わせてください。あたしと結婚してください」


「前世では、私は中国史以外に興味がなく、同級生とも話が合わず、いじめられていました。孤独だった私はさらに中国史を勉強して、もっと孤独になっていました。そんな時にあなたが現れました。中国史しか話せない私に、外の世界を教えてくれました。この世界にはいくつもの色があることを教えてくれました。この世界に転生してあなたと初めて出会ってから、私はずっと不安でした。この世界のあなたは私のことを全部忘れてしまったようで、前世とは別人で私のことを愛してくれないのかと思いました。前世の記憶がないあなたを見るたび、胸が張り裂けそうでした。文化祭のあとげんに逃げたとき、おぼろげながら私を慕ってくれることを知りました。三年の喪でも私のために毎晩来てくれて、とても嬉しかったのです。あなたなしに私は生きていけません。あなたを手放すことはできません。前世では愛を確かめ合うことすらできませんでしたが、現世でこうしてそれができて幸せです。絶対に結婚しましょう」


前世のキャンプで雪子にひなげしを渡した時に伝えられなかったこと。それを伝えました。


前世で伝えたかった言葉との違いは、この世界に転生してきたこと、そして、すでに付き合うを通り越して婚約していますから、改めて結婚を求めたことです。


原で再会したときはまだ子履に対する気持ちは曖昧でしたが、今ははっきり言えます。

好きだ、あなたしかいない、と。


あたしより身長の低い子履しりが、腰を浮かしてきます。

顔が、だんだん、近づいてきます。

その頬にそっと触れます。とてもあたたかみのあって、逆にこっちが包みこまれるような、やわらかい頬でした。

あたしも首を突き出します。


子履の鼻息が、ここまで伝わってきます。

あたしの息も子履の顔にあたっているのでしょう。子履の頬が紅潮しています。多分あたしも一緒でしょう。


前世では『友達として』ばかりで、ついにできなかった、お互いの愛を確かめ合う行為。

死を経て、この世界に生まれ変わって、こうして出会って。

出会えたかと思えば、あたしは記憶をなくしていて。

子履のアプローチもあたしには届かず、子履はつらい思いをしていたのでしょう。

同様にあたしも、前世の記憶を取り戻した頃には、子履が目の前からいなくなっていて。

夏台かだいに閉じ込められて、廃人のようになっていて。


大切なものは、失って初めて気づくものです。

お互い、何もかもずれ違う日々が続いていました。

でも、それもあとわずかです。

お互いの長い長い苦しみは、まもなく終わりを告げるのです。


こほんと咳払いが聞こえます。


あたしも子履も肩をすくめて、身が崩れるくらいに後ろに引きます。

おそるおそるそちらを見てみると‥‥向かいの席で、任仲虺じんちゅうきが苛立ったように眉を斜めにして、こちらを見ていました。


「‥‥せめて、キスは人のいないところでやってくれませんか」


あたしも子履も別の意味で顔を真っ赤にするのでした。

そういえば任仲虺、最初からずっといましたね。すっかり忘れていました。


でもその日の夜、きょ(※地名)の宿で2人きりの部屋を借りて、しっかりキスしました。これがファーストキスかというとなんだか締まらないのですが、幸せなのでよしとします。

「さあ、寝ましょう」とベッドの上であたしが布団をかぶると、子履は「あの‥」としばらくあたしの前で正座していました。「どうしましたか?」と聞くと、「なんでもありません」と言って子履も横になりました。


◆ ◆ ◆


翌日の馬車の中で、あたしと任仲虺はあらためて、子履が陽城をってから今までに何があったかを説明しました。今日は姒臾じきの代わりに劉歌りゅうかが座っています。


昨日、あたしが子履に薬を飲ませる直前に降りた姒臾じきはどこに行ったか分かりません。てっきり劉歌と一緒に外を歩いていると思っていましたが、森の茂みの中に入るのを見たと衛兵が言っていました。衛兵は追いかけましたが、もう追うな、あいつらには夜までこのことを言うな、ときつく言われたのだそうです。

しかし姒臾をどうしようか悩んでいたところで、あたしと子履が許の宿の部屋に入った時、どこに隠れていたのか、テーブルの上に嬀穣きじょうの署名付きの手紙がありました。嬀穣が代わりに一緒にいます、姒臾は生きてしんまで戻ります、あたしたちはこのまま帰って欲しい、とのことでした。嬀穣、本当にどこにいるのでしょうね。


「‥はいは滅んだのですね。薛伯が陽城ようじょうで処断されましたので、悪い予感はしていました」


子履は暗い顔をしていました。あたしも、復活した直後にこんな話はしたくないです。でも、これを話さないと、任仲虺も劉歌も自分の話ができないのです。


「わたくしをしばらくしょうでかくまってもらえませんか?」

「はい、もちろんです」

「あの‥私もから逃げてきました。父上もまもなく参ります。体力には自信があり、兵の訓練などできます。私も雇ってください!」

「はい、いいですよ。たちと一緒に私を助けてくれた恩があります」


子履はあっさり2人とも承諾しました。


◆ ◆ ◆


そのころ、姒臾はどこにいたかというと。


「くそっ!」


森の中で、木の幹を殴っていました。


姒臾は、誰よりも子履を愛している自信がありました。その子履が伊摯を愛する素振りを見せましたから、姒臾は伊摯とも戦いはしましたが(※第14話)結局は陰から黙って見守ることにしていました。

伊摯のようなばったり偶然出会った人ではなく自分のほうが愛していると思っていました。


しかし、陽城の宮殿の大広間で、手足を斬られ糞まみれになり廃人のようになった子履をすかさず抱いたのは、伊摯でした。

姒臾はあのとき、変わり果てた姿になった子履に腰を抜かして、近づくことすらできませんでした。

そんな子履を、みずからも汚物まみれになりながら抱いた伊摯。

超えられない一線。格の違い。何もかも、見せつけられました。


「‥‥もういい。子履はお前にやる。料理の仕事は、父上を殴ってでも、何としてもやめてやる」


姒臾はもう一度、木の幹を殴って荒い息をつきます。

それを近くの木の枝に乗って、嬀穣は眺めていました。


「‥予定通り」


◆ ◆ ◆


商の西にかつという國があります。その葛を通りすぎればもう商です。葛に入る前に、任仲虺が声をかけてきました。


「この道を通ると葛の國に入ります。葛はに絶対服従を誓っていますから、夏から逃げるなら通らないほうがいいでしょう」

「そうですね、北に迂回しましょう」

「南のほうがよくないですか?北は少し遠回りになりますが‥」


あたしが口を挟むと、任仲虺は「南はの國が‥」と言ってきます。あれ、虞の國に一体何があるのでしょう。姚不憺ようふたんはいましたが、変なものはありませんでしたよね。


「南にしましょう」


子履はあたしの手を握って、「信じていますからね」と声をかけてきます。え、あたしと虞の國に変な因縁とかありましたっけ?


そんなこんなで、2日くらいあとに姚不憺と一緒に食事の席を持ちました。事情を知らない姚不憺になるべくちらつかせないように話すのは少し大変でしたが、しかし、姚不憺と久しぶりに話すのは楽しいです。子履はずっとあたしと姚不憺の間に座って食べていましたが、ちらちらとあたしの様子を何度も伺っているのが少し気になりました。


「僕、婚約しました。許嫁いいなずけですが‥」

「それでもおめでたいことですよ。女のことで困ったらあたしに言ってくださいね」


姚不憺も、あたしと同じように婚約していたらしいです。


「実はあたしも履様と婚約しました」

「噂はかねかねから聞いていますよ。おめでとうございます」


姚不憺は言葉には出しませんが、ため息をついてしばらくしゃべるのを止めてしまいました。うん‥‥?残念そうですね。どこに残念な要素があったのでしょうか。あたしは首をかしげました。代わりに子履が急に元気になって、なにか嬉しそうな笑顔であたしを見ていました。


翌日、商の國に着きました。あらかじめ衛兵の1人が早馬に乗って商丘しょうきゅうに向かいました。しばらくして、商の将軍の林衍りんえんが軍を率いて、あたしたちを迎えてくれました。商丘の入り口では、家臣たちが集まって、揃って千歳せんざいをしてくれました(※帝に対しては万歳ばんざいといい、諸侯に対しては千歳という)。

帰ってこれました。子履と一緒に。窓を開けて手を振る子履の後ろ姿を見て、あたしは涙を漏らしていました。


◆ ◆ ◆


せつの北に、すいという國があります。この遂にすごい料理人がいるという噂を聞きつけ、何人もの料理人の集団がその女性のもとへ行きました。都心部から離れた、山のふもとにある少し古い家でした。


「私は生涯弟子をとらないと誓っています」


女性はあっさり断りましたが、それでも料理人たちは食い下がります。


「薛が滅ぶ最後の日に商から来た料理人は、今まで見たことのない優れた包丁さばきで、ありふれた食材を使っているはずなのに食べたこともない味のしたあつものや肉料理を作りました。あの味を見ると、もう自分たちの料理が信じられないのです。自分たちの世界の狭さを感じました」

「では、その人に弟子入りすれば?」

「断られたのです。あの味を見た後に師と仰げるお方は、この九州でも限られているのです。どうか‥‥」

「私は弟子を取ることができません。昔のような思いは、もう二度としたくないのです」

「そこを何とか‥」


その女性は「ダメです」と言って、ため息をつきます。しかし、ぼんやりと斜め上を見上げます。


「‥その人の味は、どのようなものでしたか?」

「普段の料理とどこが違っていましたか?」

「その人の料理の様子はどのようなものでしたか?」


いくつか質問をかぶせます。料理人たちはその質問に丁寧に答えます。最後に、こう尋ねます。


「その人の名前は?」

「姓を伊、名を摯という者です。商の大夫で、子供ながらに朝廷に出るような偉い人なのだとか。あっあっ、後でわかったのですが、斟鄩しんしん饂飩うんどん炒飯ちゃーはんを作って話題になったのも同じ人です」

「そう‥伊摯ね‥あの饂飩を作った人‥どうりで、水が少し多いと思ったわ」


料理人たちを家から追い出したところで、女性は、遂伯から押し付けられた使用人を2人呼び出します。


「荷物をまとめてください。これから商の國に行きます。あなたたちともお別れですね」

「ですが、陛下(※遂伯)のお許しなく勝手に引っ越してしまうのは‥」

「陛下は何度もここへ直接足を運んできているのです。私が遠慮することはないでしょう(※この世界では、王や目上の人は下の身分の者を呼びつけ来てもらうのが一般的で、それがみずから目下の人の家へ足を運ぶのは強い尊敬の念を表すものであった)」


使用人が部屋から飛び出したあとで、女性は机の上のものを片付けながら、独り言を言います。


「‥ようやく見つけたわ。爽歌さやか

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る