第9章 子履、葛を滅ぼす

第269話 子履が甘えてきます

その日は、あの日の前日のように激しく雨が降りしきっていました。

黒髪の少女の少し後ろには、開いたままの傘が転がっていました。

少女は、砂の混じった激しい濁流を見下ろしていました。


美樹みき、聞こえる?


あのあと警察が調べて分かったことだけど。

あの有名な東条とうじょうシェフの娘だったんだね。どうりで料理もうまいと思ったよ。

でもあれは、東条家としての味じゃない。美樹としての味だったよ。

どこを探しても、高いお金を払っても、美樹の料理はもう食べられない。


あの日からもう1年だね。

時が経つのって、早いね。

美樹がいなくて、私、寂しい。


私ね、この1年で初めて美樹以外の友達を作ったんだよ。

偉いでしょ?褒めて。

大学で同じ講義を受けていた子だよ。

その子、高いものばかり欲しがるの。

私、友達を逃がしたくなくて、頑張ってお金を作ってプレゼントしたの。

でもある日、もうお金がないと言ったら、その子は私から離れていった。


こんなとき、美樹がいてくれたら。

美樹なら、何もいらないからここにいていいと言ってくれるよね。

私はそれが欲しい。でも、この世界にそんなものはない。


現実は非情で残酷で、美樹のいない世界を受け入れられない。

私には、もう美樹しかいない。


美樹、いるんでしょ。

返事してよ。

勝手にいなくならないてよ。


私も今からそっちへ行くね。


また前みたいに遊ぼうね。


黒髪の少女はそのまま、濁流の上の虚無へ足を踏み出しました。


◆ ◆ ◆


あたしは呆れています。


ここは商丘しょうきゅうにある宮殿の大広間です。

あたしは、玉座に座っている子履しりのすぐ隣に立っています。

子履はずっとあたしの腕をぎゅっと抱いて離しません。

頬をこすりつけながら話しています。


今、会議中ですよね。


「‥‥陛下、そろそろやめてくれませんか」

「嫌です、がそばにいないと寂しい‥いなくなりそうで怖いです」


子履は目に涙を浮かべながらあたしを見上げます。うん、そんな顔を見てしまうと断れなくなるんですが今は会議中です。


夏帝かていと同じことをしてるって、のほうから来た家臣も呆れてますよ」

「でも私には摯しかいないのです‥」

「こんなことをしていると、逆に別れの時が早まります」


別れの時が早まるというのは、このしょうが滅んでしまうということです。さすがにそこまでなる可能性は高くないと思いますが、子履が夏台かだいから逃げたあと、この商は夏から目をつけられることになるかもしれないと任仲虺じんちゅうきも言っていましたし、夏に変な口実を与えないために素行に気をつけるのは最低限やるべきことでしょう。


「本当に私の前からいなくなりませんか?」

「いなくなりませんよ」

「本当の本当に?」

「はい。夜に会いましょう」


子履はぷくーっと頬を膨らませて、やっとあたしの腕を離してくれます。あたしはすかさず階段を下りて、臣下の列におさまります。視線が集まってます。恥ずかしいです。


商丘しょうきゅうに戻ってはや数日、子履はこんな感じなのです。食事の席でもずっとあたしの腕に頬をこすりつけます。あたしが外出するときもついていこうとするので、さすがにこの姿を民には見せられないと外出自体をやめてしまったり。それでいて、なぜか風呂とだけは別々なのです。

今日は復帰して初めての朝廷でしたが、まあ予想はしていました。恋人って、告白して成就したらこうして甘えん坊になるんでしょうか。あたしはなりませんでしたけど。ベッドの上でも、猫みたいにあたしに抱きつきます。ま、まあ、あたしが死んでしまって1年も1人ぽっちでしたし、この世界でしんの國で会うまでも姒臾じきにいじめられて寂しい思いをしていたんですよね、そこは申し訳ないと思いますけど、さすがに朝廷でやるのは違います。


「履様」

「どうしましたか?」

「あたしにぺったりくっついて甘えていいのはこの屋敷にいる時だけにしませんか?」

「どうしてですか?」

「あの‥外でやられると、仕事どころか今後の商の國にも支障を及ぼしかねませんし‥履様も前世で散々言ってましたよね、女を溺愛する乱れた王様のいる国は滅ぶって(※儒教観によって歴史が創作または改変されたという説もある)」


それを言うと子履はまたむすっと不満そうに頬を膨らませます。うーん、ちょっと今思いついたことを試してみましょうか。あたしはその頬を捕まえて、自分の唇をくっつけます。頬がはじけて真っ赤になる子履に、あたしは上目遣いでそっとお願いします。


「ねえ、お・ね・が・い?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥っ、わ、わ、わ、わ、わかりまひた‥」


この屋敷の中だけ、と言ったはずなのに、子履はあたしからいくらか距離を取ります。うわ、ものすごく効いています。


「そ、それなら‥私からも1ついいですか?」

「はい」

「2人きりでいるときは、様をつけないで‥呼び捨てにしてください。ついでに敬語も使わないで、前世みたいにしゃべってください。その‥距離を感じます」


今、子履のほうから距離を作ったばかりなんだけどな。呼び捨てにするのは‥あたしもちょっと恥ずかしいです。でもこの前一歩を踏み出したばかりですし、今までのままじゃいられないですよね。


「‥‥履」

「あひゃ、あ、ああっ!!」


子履は顔を手で隠したままベッドから転がり落ちます。


「だ、大丈夫ですか、履様、じゃない、履!大丈夫?」

「あ、あひっ‥や、やっぱり今のは無しで!呼ぶときは様をつけてください!!敬語も使ってください!!」


子履はばたばたと裸足のまま部屋を抜け出してしまいます。何だったんだ今の。何で頼んだんだよ。


で、その一件があった翌日から子履はいつも通りに戻りました。べたべたくっついてきません。さすがに屋敷の中では甘えてくるだろうと思っていたらそれもなく、しかも以前のように、あたしと子履が2人しかいない時に恥ずかしがって距離を取るようになりました。三年の喪の前に逆戻りです。一体何だったんだ。


◆ ◆ ◆


任仲虺じんちゅうきは、そこそこ大きめの屋敷をもらいました。夏から亡命してきた家臣が多すぎて配る屋敷が足りなくて困っているという事情を商に来たばかりの任仲虺は知るよしもありませんでしたが、子履の幼馴染でせつの國の公族だろうということで周りの家臣たちは納得しました。


そんな任仲虺は今、屋敷の玄関前まで来ていた斥候からの情報を聞いていました。薛の國を復興させるためにまず必要なのは情報収集です。その一環として、はいの地に残された人々のその後を探らせるために、帝丘ていきゅうへ行かせていたのです。


「陛下(※薛伯)はやはり、斬首されたようです」

「‥‥そうですか‥」


薛伯は任仲虺の母にあたります。「やはり、そうでしたか」と任仲虺は同じ言葉を2回繰り返し、目からにじみ出る涙を袖で拭います。


「そして、絶伯せっぱく殿下ですが、沛最後の日に炎上する屋敷の中で自殺を図ろうとしたものの失敗し」

「えっ?」

「夏の兵士に連行されました」

「ということは、姉上は生きているのですか!?」


思わずしゃかんで、斥候の肩を掴みます。


「いいえ、1週間ほど拷問されたあと‥」

「生きているのですね?生きているのですね!?」

「斬首されました」


任仲虺の手がわなわなと震えます。斥候の肩からそっと離したそれは、次は地面を掴みます。


奚仲けいちゅう(※薛の始祖)がの治水事業への功を認められ薛候に封じられてから、代々薛の國を守ってまいりました。夏帝に忠誠を誓い、誤った行いがあれば改め、夏の事業に協力してまいりました。母上の諫言かんげんも、夏のことを思ってしたものだったはずです。それなのに母上も姉上も殺され、沛は根こそぎ燃やされました。母のおこないに何か不足があったのでしょうか?間違いがありましたか?夏に従っていたはずなのに、この仕打ちです。こんなことが許されるのでしょうか!?」


斥候をよそに、任仲虺はそのまま一晩中、夜が明けるまで泣きながら地面を殴り続けていました。

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