第205話 母の死
「大きく‥なりましたね‥
「はい。陛下」
間近で見てみると、顔の動きがおかしい以外は、ただの風邪で寝込んでいるかのように、しょぼしょぼの老人のようにひどく衰弱しているようには思えませんでした。死の病と言われるくらいですから、これから弱っていくのでしょう。そう思うと切ないのですが‥‥生まれた頃からずっと子主癸の間近にいた子履にとってのつらさはきっとあたしの想像を超えるものでしょう。もう考えるのはやめましょう、涙が出てきそうです。
「私は‥履を‥教育した‥つもりです。至らぬ‥ところがあれば‥今度は‥あなたが‥止めなければいけない‥」
「はい。分かっています」
「これから‥履のそばにいるのは‥私ではなく‥あなた」
「はい」
「履を‥支えて‥」
「はい、もちろんです」
あたしはできるだけ大きめの声で答えました。子主癸の顔がまたぎこちなく動きます。笑ってはいけない場面で我慢できず笑っているような、引きつった笑いでした。あたし何かまずいことを言ったかと一瞬思いましたが、これももしかしたら病気のせいなのでしょうか。分かっていても、身分の差もあって緊張します。あたしは
◆ ◆ ◆
一段落付いた後、子履を部屋に残して、あたしは廊下で
「なぜ
「看病に参りました。医術の心得がございますので」
「それはありがたいのですが‥なぜ学園の仕事を放り出して、商のような、一介の小国の人を診るのでしょうか?」
「‥‥縁がございましたので」
卞隨先生はあたしから目をそらします。学園の仕事はどうなったのかと聞いてみたかったのですが、とても聞けるような雰囲気ではありません。聞かれると困るような顔をしています。何がそんなにまずいのかさっぱり分かりませんが、あたしは口をつぐみます。
頭を下げて軽くお礼を言ってからあたしがその場を離れると、すぐに務光先生が部屋から顔を出しました。何やら2人が話しているようですので、あたしはなんとなくわりとゆっくり歩きながら、2人の会話に耳を傾けてみます。
「どうしよう‥こうなるのは全くの想定外だったわ。子履が
「落ち着きなさい。こうなった以上は絶対に死なせてはいけません。絶対に‥」
うーん‥‥?どうやら、あの2人は子主癸の病気に関して何か事情を知っていそうです。でも、ちらりと振り返ってみると2人とも顔が暗いです。気になるといえばなるのですが、とても聞けそうな雰囲気ではありません。ていうか子主癸の死はあの2人の間でも決定事項なのでしょう。いくら名高い魔法使いであろうと、無理なものは無理です。この世界に、怪我や病気を治す魔法は存在しません。魔法といえば万能なイメージがありますが、この世界では五行に沿った魔法しか使えません。
それがあたしにとってはもとかしいように思えました。きっとあの2人も、あたしの何倍も強く、同じことを思っているのでしょう。
◆ ◆ ◆
夜の子主癸の部屋では、
子主癸と同じ部屋で恋人と膝枕するのは、いくら部屋が薄暗くてよく見通せないとはいえさすがにまずいので、頭をぽんぽんと叩きます。それでも起きませんので、あたしは気まずそうに、そっと近くにいる
「どうしたっすか。病人の前でイチャイチャしてるセンパイ」
「そ、そんなんじゃないよ‥‥履様を運びたいから、誰か呼んできて」
「分かったっす」
そういって部屋を出ていきました。まったく、及隶にもからかわれてしまいました。開けっ放しの窓から差し込んでくる月のあかりに子履の頬が照らされます。つい出来心で、子履の頭を傾けてみます。顔全体がよく見えます。前世の記憶を持っているとはいえ、まだ11歳くらいの少女です。前世基準だと10歳です。精神は大人でも、看病するだけの体力が足りないのでしょう。あたし子履より年下なんですけどね。体力かな?
そうです。体力です。少しでも子履を楽させたくなるものです。丸まってぷっくり膨らんでいる唇を見て、あたしはそう思うのでした。
◆ ◆ ◆
というわけで翌日の朝、厨房を借りて作った
子主癸の腕が震えています。うめき声も出ていて、苦しそうです。
「‥‥あっ、そんなに急いで食べさせないでください」
後ろから子履が走ってきます。運んでいった先の部屋で起きたようです。
「おはようございます、履様。何かまずいことをしましたか?」
「破傷風の症状として、食べ物を飲み込みづらくなります。飲み終わったか確認しながら入れてください」
そう言って子履はあたしから粥を奪うと、子主癸の口に入れ始めます。奪われてしまいました。あたしは「タオルをお持ちしますね」と言って部屋から出ましたが、すれ違って部屋に入ってきた子亘がタオルを持っていました。じゃあ薬草を、と思ったら務光先生が薬を持って部屋に入りました。そ、そうですよね。せめて全員分の食事を作ってあげようと思ってあたしは厨房にこもりますが、子履を少しでも楽にさせるのって難しいですね。
看病してる人たちの分の食事が終わった後、あたしはあいも変わらず廊下をぶらぶらしていると、
「どうなさいましたか」
簡尤が優しい顔でそう尋ねてくるので、あたしは聞いてみます。
「履様を少しでも楽にさせようと手伝っていたのですが、結局仕事を他の人に全部取られて、何をすればいいか分からず‥‥」
「料理をお作りになったではありませんか」
「えっ?」
「おいしい料理を作れるのは
「センパイの料理、みんなおいしいって言ってたっすよ」
下から及隶も言ってきます。あたしの頬がちょっとだけゆるくなります。及隶を抱き上げて「はい、ありがとうございます」と言うと、その足で厨房へ走ります。
子主癸が死ぬのは避けられないでしょうけど、生きているうちに少しでもおいしいものを。看病を頑張っている子履たちにも、元気の出るようなものを。そう思って、昼食の仕込みの真っ最中の厨房に駆け込むのでした。
◆ ◆ ◆
懸命に看病していて、それでも日に日に子主癸は弱って行っています。あたしはあまり子主癸の顔を見ていませんが、子履や子亘の顔が少しずつ暗くなっていくので、それで察します。あたしが子履の頭を撫でようとしても、子履はふいっと無視して歩いて行ってしまいます。その背中はきっとあたしが思っている以上に脆く、重くて、絶望を体現しているようなものでした。
あたしに子履を慰める権利はあるのでしょうか?傲慢だったのでしょうか?あたしまで少しずつ暗い気分にさせられます。でも及隶も落ち込んでいるように見えたので、たまに頬をつねって遊んであげたりしましたが、心のどこかに暗いものがこびりついて、少しずつ膨らんでいくような気分がします。
毎日のように部屋から響くうめき声は、少しずつ大きくなっていました。激痛と痙攣のせいで夜も眠れず、ついに徹夜が3日も続いたのだとか。子主癸は日に日に苛立って精神が錯乱していると、務光先生と卞隨先生が話しているのが聞こえました。
あたしは粥を持って部屋に入ろうとしたことがありますが、部屋の入り口近くにいた子履に止められました。
「みんなに配って‥あと、陛下にも一言挨拶しないと‥」
「母上は‥錯乱してて、まともではなくて‥‥その‥‥私が何とかしますので」
顔を見上げる子履の頬に引っかき傷がついていたので、あたしは首を振ります。
「履様の頼みでも聞けません。あたしが持っていきますね」
「でも‥‥」
無理に部屋に足を踏み入れたあたしは‥‥奥にあるベッドを見て、全身が石のように硬直します。あたしが入った瞬間に発作が出たようで、仰向けに寝ていた子主癸が背中をそらして、声にならない声で何かを訴えています。体が動いて、布団がずれます。ベッドから落ちそうになるので、子亘と子履が駆け寄って支えます。頭を何度もベッドにぶつけます。体がずれて別の方向から落ちそうになると、使用人が足を引っ張ります。
近くにいた使用人があたしの持っていたお盆を取ってくると、あたしは床にへたりこみます。子主癸の顔がちらりと見えました。鬼のような形相でした。人間ではないようでした。あれが子主癸ですか?あたしと違って、実の子である子履や子亘は毎日看病してるんですよね?あんな子主癸に、毎日つきっきりで看病して。実の母が日に日に弱って錯乱して暴れていくのを、あたしよりも間近で見て。それでもあたしに代わってほしくなくて、必死で頑張っていたのでしょうか。
「聞き慣れない足音が聞こえたので発作が出たと思います。一旦離れて、もう入らないでください」
使用人に耳打ちされると、あたしは「は、はい‥」とかすれ声で言って、部屋を出ます。
あたし、間違っていたのですか?子履たちは母をあれだけ懸命に看病していたのです。なのにあたしのような人が、看病してる子履たちを少しでも楽にさせたいと考えるのは‥‥おこがましいのでしょうか?子履は子主癸のあんな姿を見て、それでも懸命に看病してるのに。料理を作るのは、それよりも遥かに楽なことではないでしょうか。
「センパイ‥」
一緒に歩いていた及隶が声をかけてきましたので、あたしは「‥‥そうだね。おいしい食事を作らないとね」と思い出したように、声を絞り出しました。
◆ ◆ ◆
子履が
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