第206話 亳に遷都しました
子履を屋敷に送った後、あたしは葬式の片付けのためにいったん屋敷を出ることにしますが‥‥あたしと一緒に子履を運んでいた家臣の子の女の子もついてきます。
「
「はい」
ツインテールをおさげにした、おとなしそうな顔の子でした。もしこの世界にメガネがあれば、間違いなくかけていそうな子です。
「私は姓を
「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
こんな場ですからあまり込み入った話はできません。
ちなみに
「先生たち、もう
「いいえ。
「えっ‥学園の仕事はされないんですか?」
「辞めます」
「なぜ‥‥」
2人は返事しませんでした。ただ、あたしに目を合わせないように顔をぷいっとそむけているのは伝わりました。2人とも、何か人には言えないような深い悩みでも持っているように見えました。
あたしはこの時に2人を引き止めなかったことを、遠い将来後悔することになります。
◆ ◆ ◆
事務仕事が押し寄せています。
子履は新しい商王になるのですが、それを
相談も一段落して徐範が従者を連れて斟鄩に向かいましたので、あたしは簡尤からアドバイスをもらいながら仕事することになりました。
簡尤はニコニコ顔のおじさんというイメージでしたが、仕事に対する情熱は人一倍です。「文字は読めますか?」と聞かれ「多少は‥」と答えると、「では練習かてら、ひとつ仕事を頼んだほうがいいですね」と、ある部屋に案内されます。何人かの役人が大量の竹簡をチェックしているところでした。
「これは何をしているのですか?」
「新しい陛下が立ちましたね」
「はい」
「
「ああ‥‥」
この世界では、王様と同じ名前は子供につけてはいけないし、すでに同じ名前だった人は名前を変えなければいけません。それだけではなく、本、小説や歴史書などにも使ってはいけません。例えば前世の『史記』という本は
この世界ではさすがに昔の本にまで遡って諱の含まれる本を発禁にするほど厳しくはありませんが、それは民間の話です。宮殿に保存されている過去の記録や行政文書から、子履の「履」という字を消さなければいけないのです。この世界には消しゴムなんてないんですがどうするんでしょう。
「竹簡をこのナイフで薄く削って、代わりの字を書くのです」
「ああ‥‥」
そういえば竹簡って分厚いんでしたね。
「代わりに使う字は隣の役人に聞いてください。勉強になりますから」
「分かりました‥」
正直、この作業は骨が折れるだけでなく、つらいです。子履はあたしの大切な人でもあります。そんな子の名前を書類から全部消さなければいけないなんて。前世の感覚だと、キャンセルカルチャーって言うんでしたっけ?何か悪いことをした人や悪目立ちした言葉がこうなるものでしたから。子履は何も悪いことをしてないし、ただ即位しただけなのに、このように字を消すのは子履の存在を否定しているような気になります。実際は諱は尊敬の念を示すためにやるものなのに、前世の記憶のあるあたしにとっては子履の存在が消える‥‥あたしの前から消えるような気持ちにさせられるのです。価値観が真逆ですね。
消える‥消えるといえば‥‥あれ?
あたし、ずっと前に”消え”なかったっけ?
あれ?
いつのことだろう。
なんだか‥水‥水というところまでは覚えてる。
でもその先が思い出せない。
何か大切なものを失ったような気がする。
何だっけ。
思い出せない。
「手が止まってますよ」
隣の役人から声がかかると、あたしははっと気づいて背筋を伸ばします。
「そ‥そうですね、すみません、ははは」
あたしは竹簡を削る作業を再開します。
◆ ◆ ◆
家臣たちに取り囲まれた易者が、亀のこうらを焼きます。何か変なことを叫んで、くっと力を入れて踊るように動きます。こうらが割れましたので、易者はそれを取り出して、板の上に丁寧に並べます。
「南東‥南西の方角がよい」
「南東とは‥
家臣の1人がつぶやきました。次の王がつくので、心機一転、縁起のいい場所へ遷都しようという話になったのです。何もそこまですることないでしょうとあたしは思ったのですが、どうやら王が代わるたびにこの
一応、簡尤がちゃんと聞いてみます。
「南東とは、亳のことか?」
「そうです」
「なんと。かの
亳とは、この商の国がある
商丘から亳はすぐそこです。そして亳もそれなりに栄えていますので、貴族向けの屋敷は大半が亳の住民の家をもらって居抜きでいけます。宮殿はそうはいかず新しく建て直さなければいけないようでしたが、そのあいだ政務を休むわけにも行きません。宮殿の近くに、遠い昔に
もともとそこに住んでいた人もいるんですが、実は案外、ちょっと離れてるけど商丘のきれいに整理整頓・清掃された家と交換してもいいという裕福な人がわりといるのです。貴族の元々住んでいた家と聞くと箔もつきますね。
宮殿・王族の寝所の工事現場と行宮に一番近い、でも商丘にいたときと比べると少し離れている、そんな位置にある屋敷を借りて、あたしと子履たちはそこに住むことになりました。そしてその時から、本格的な三年の喪の期間が始まりました。
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