第206話 亳に遷都しました

子主癸ししゅきが崩御したあとは慌ただしい日が続きました。葬式では、子履しりはわずか11歳ながら喪主をつとめ、朝は誰よりも早く会場となる宮殿の大広間へ行って棺を抱いて泣き、皆が集まって葬式が始まると声をあげてき、昼食も抜いてひたすら棺にくっつき、夕方になるころにはもうふらふらになって、あたしと家臣の子供の2人に肩を持たれながら、ふらふらと歩いていました。さすがに1日中も泣き続けるのは普通ではないので多少の演技も入ってるでしょうけど、悲しいのは本心でしょう。あたしが一瞬だけ見た子主癸の発作と暴走を、あたしよりも子主癸を愛している子履は何回も何回も見ているのです。そう思うと、あたしまでいたたまれない気持ちになります。


子履を屋敷に送った後、あたしは葬式の片付けのためにいったん屋敷を出ることにしますが‥‥あたしと一緒に子履を運んでいた家臣の子の女の子もついてきます。


伊摯いし様でしょうか?」

「はい」


ツインテールをおさげにした、おとなしそうな顔の子でした。もしこの世界にメガネがあれば、間違いなくかけていそうな子です。


「私は姓を、名をじょうといいます。また将来、朝廷でお会いするかもしれませんのでお見知り置きを」

「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」


こんな場ですからあまり込み入った話はできません。嬀穣きじょうもまた言いたいことがあるようで何かこらえてましたが、小さく首を振って後にさがります。あたしもこんな場でなければいくつか聞いておきたいところですが、今はひとまず名前だけでも覚えておきましょう。嬀という姓を持つ家臣は何人かいるので、誰の子なのかも分かりませんが。


ちなみに務光むこう先生と卞隨べんずい先生は葬式にも出席しましたが、涙くんでいました。何か縁があったのでしょうか。少し話そうと思ったのですが、その前に2人が帰り支度を始めてしまいました。


「先生たち、もう斟鄩しんしんに行かれるのですか?」

「いいえ。の国に戻ります。私達の故郷です」

「えっ‥学園の仕事はされないんですか?」

「辞めます」

「なぜ‥‥」


2人は返事しませんでした。ただ、あたしに目を合わせないように顔をぷいっとそむけているのは伝わりました。2人とも、何か人には言えないような深い悩みでも持っているように見えました。

あたしはこの時に2人を引き止めなかったことを、遠い将来後悔することになります。


◆ ◆ ◆


事務仕事が押し寄せています。


子履は新しい商王になるのですが、それをに認証してもらうために使者と贈り物を出さなければいけません。夏のために何を献上するか、先輩であり子履の相談役でもある徐範じょはん簡尤かんゆうと相談します。

相談も一段落して徐範が従者を連れて斟鄩に向かいましたので、あたしは簡尤からアドバイスをもらいながら仕事することになりました。


簡尤はニコニコ顔のおじさんというイメージでしたが、仕事に対する情熱は人一倍です。「文字は読めますか?」と聞かれ「多少は‥」と答えると、「では練習かてら、ひとつ仕事を頼んだほうがいいですね」と、ある部屋に案内されます。何人かの役人が大量の竹簡をチェックしているところでした。


「これは何をしているのですか?」

「新しい陛下が立ちましたね」

「はい」

いみなが増えますよね」

「ああ‥‥」


この世界では、王様と同じ名前は子供につけてはいけないし、すでに同じ名前だった人は名前を変えなければいけません。それだけではなく、本、小説や歴史書などにも使ってはいけません。例えば前世の『史記』という本はかんの時代に書かれたので、漢の始祖である劉邦りゅうほうの「邦」は諱にあたるため使えず、代わりに高祖こうそと書いているという話は有名です。この時代には相国しょうこくという名前の役職がありましたが、もともとは相邦しょうほうだったのが劉邦のために役職の名前まで変わったという話もあります。中国では本が発掘されるたび、その本で不自然に使われていない字がないか調べることで、本の書かれた年代を推定するということまで行われているのだとか。子履からの又聞きですけどね。

この世界ではさすがに昔の本にまで遡って諱の含まれる本を発禁にするほど厳しくはありませんが、それは民間の話です。宮殿に保存されている過去の記録や行政文書から、子履の「履」という字を消さなければいけないのです。この世界には消しゴムなんてないんですがどうするんでしょう。


「竹簡をこのナイフで薄く削って、代わりの字を書くのです」

「ああ‥‥」


そういえば竹簡って分厚いんでしたね。


「代わりに使う字は隣の役人に聞いてください。勉強になりますから」

「分かりました‥」


正直、この作業は骨が折れるだけでなく、つらいです。子履はあたしの大切な人でもあります。そんな子の名前を書類から全部消さなければいけないなんて。前世の感覚だと、キャンセルカルチャーって言うんでしたっけ?何か悪いことをした人や悪目立ちした言葉がこうなるものでしたから。子履は何も悪いことをしてないし、ただ即位しただけなのに、このように字を消すのは子履の存在を否定しているような気になります。実際は諱は尊敬の念を示すためにやるものなのに、前世の記憶のあるあたしにとっては子履の存在が消える‥‥あたしの前から消えるような気持ちにさせられるのです。価値観が真逆ですね。


消える‥消えるといえば‥‥あれ?

あたし、ずっと前に”消え”なかったっけ?


あれ?

いつのことだろう。

なんだか‥水‥水というところまでは覚えてる。

でもその先が思い出せない。

(※黄河こうが)?河ではない。もっと小さいところ。

何か大切なものを失ったような気がする。

何だっけ。

思い出せない。


「手が止まってますよ」


隣の役人から声がかかると、あたしははっと気づいて背筋を伸ばします。


「そ‥そうですね、すみません、ははは」


あたしは竹簡を削る作業を再開します。


◆ ◆ ◆


家臣たちに取り囲まれた易者が、亀のこうらを焼きます。何か変なことを叫んで、くっと力を入れて踊るように動きます。こうらが割れましたので、易者はそれを取り出して、板の上に丁寧に並べます。


「南東‥南西の方角がよい」

「南東とは‥はくにあたるな」


家臣の1人がつぶやきました。次の王がつくので、心機一転、縁起のいい場所へ遷都しようという話になったのです。何もそこまですることないでしょうとあたしは思ったのですが、どうやら王が代わるたびにこのうらないをやることになっているようです。この世界の人達って引っ越しが好きなんですね。でも引っ越すべきという結果が出る確率はあまり高くないのだとか。

一応、簡尤がちゃんと聞いてみます。


「南東とは、亳のことか?」

「そうです」

「なんと。かのせつ(※商の始祖で子主癸・子履の先祖にあたる)が帝しゅんから授かった地ではないか。これは縁起がいい」


亳とは、この商の国がある商丘しょうきゅうのすぐ南東にあるむらです。商の国の領地ですので、近隣の国に迷惑もかかりません。隣の国の領土に遷都すべきという占いの結果を信じて過去に戦争が起きたこともいくらかありましたが、今回は大丈夫っぽいです。ていうかそんな理由で戦争起こすなよ。


商丘から亳はすぐそこです。そして亳もそれなりに栄えていますので、貴族向けの屋敷は大半が亳の住民の家をもらって居抜きでいけます。宮殿はそうはいかず新しく建て直さなければいけないようでしたが、そのあいだ政務を休むわけにも行きません。宮殿の近くに、遠い昔に少康しょうこう(※夏の過去の王で、寒浞かんさくなどを討ち政治の実権を取り戻した。商丘の近くにあるりんという場所に都していた)が一時期住んでいたらしい大きくぼろい建物がありました。それが行宮あんぐうになります。寝所は別に作りますが、これも王族に一瞬でも粗末な建物は用意できないということで、行宮に近いけどちょっと距離のある適当な建物を居抜きします。

もともとそこに住んでいた人もいるんですが、実は案外、ちょっと離れてるけど商丘のきれいに整理整頓・清掃された家と交換してもいいという裕福な人がわりといるのです。貴族の元々住んでいた家と聞くと箔もつきますね。


宮殿・王族の寝所の工事現場と行宮に一番近い、でも商丘にいたときと比べると少し離れている、そんな位置にある屋敷を借りて、あたしと子履たちはそこに住むことになりました。そしてその時から、本格的な三年の喪の期間が始まりました。

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