第207話 夏から亡命した人がいるようです

はくへの引越し作業の途中まで少し話を戻します。


引っ越しの前には、色々な荷物をまとめておかなければいけません。いくら子履しりは王様といえど、女の子ですからね。女の子の荷物は、同じ女の子が運んだほうが都合がいいでしょう。とあたしは簡尤かんゆうをなんとか言いくるめて、及隶きゅうたいと一緒に子履の荷物をまとめていました。やっぱり好きな子の荷物は他の人に触らせたくないものです。好きじゃないけど。それにあたし平民あがりですから、体力はあります。


さすがに家具までは運べませんから、机にある小物を次々と箱に詰めます。うわ、本棚に本がいっぱいありますね。


「本も全部入れるっすか?」

「うん、そうして」

たい、ここまででいいっすか?」

「ああ、下の2段はお願い」


あたしは椅子を持ってきて、踏み台にして高い段にある本を取り出します。子履はどうやってここまでのぼっていたんでしょうね。なんだか難しそうな本がたくさんありますが、歴史に関係するものであることはすぐ分かります。

春秋時代は『春秋』という名前の本があったから名付けられ、戦国時代は『戦国策』という名前の本から名付けられたと以前子履から聞いたことがあります。本の名前で時代が決まるって、なかなか面白い話かもしれません。戦国時代のはじまりには諸説ありますが、いちばん有名なのは、しんという国がかんちょうの3つに分裂し、これをしゅうが諸侯として認めたときからで、合従がっしょう連衡れんこうをはじめ色々な人が策をめぐらした時代だったそうです。そういえばこの前子履が、次に生まれ変わるなら姬鑿きさく(※晋が3国に分裂した時の晋の当主=出公しゅっこうのこと)になって分裂を止めたいって言ってましたね。話を聞く限り無理ゲーらしいですけど。って、あたしまで中国史に毒されてる。


こういうときって作業をさぼって本を読んでしまうのがお約束なんですが、歴史の難しい本ってあたしには合わないのでさっさと箱に入れてしまいます。と、ちょっと向こうの方で及隶が「わあ、こんなのあるっすね」と言って、子履の机の引き出しから布を取り出していました。


「それ、何?」


と及隶から渡されたものは、とてもやわらかくしなやかな布で‥‥というかパンツでした。

実はこの世界にパンツは存在しません。裸の上に直接漢服を着るのが普通です。でも前世の記憶があるとどうしても下に何もつけないというのは受け付けないのです。なのであたしと子履は、裁縫の得意な人にパンツを作らせて穿いています。ていうかパンツ!?うええっ!?いや、これ、及隶が触っていいものじゃないけど、あたしも触っちゃダメですよ。うわ、うわわっ。


「だめですーーー!!!」


思わずパンツを投げつけて‥‥及隶の顔にぺったりくっつきます。うわあああ!!!ちょっと、ちょっと!!!


「何がだめなんすか?」


及隶は不思議そうに首をかしげて、パンツを顔から剥がします。


「だ、だってそれは、履様のパンツですから‥気安く触っていいものじゃ‥‥」

「これ、センパイのパンツっすよ」

「‥‥‥‥‥‥‥‥へ?」


あたしは目を点にしました。机から身を乗り出して、目を凝らしてしっかり確認してみれば‥‥確かにあたしが穿いているパンツです。子履が穿くにはちょっと大きいです。というかこの模様、この前なくしたと思ってたやつです。


「こんなところにあったんだ‥‥でもなぜ履様の引き出しに?」


首を傾げて、そのパンツを及隶から受け取ります。‥‥‥‥あたしのパンツがどこかに落ちてたのを子履が拾って、後で返そうと思って引き出しに入れていたのでしょうか。


「‥‥あっ」


あたしはひとつ、気づいてしまいます。あたしのパンツを子履が触ったってことですよね、これ。

子履が触ったあたしのパンツ。

子履はこのパンツのどこを触ったのでしょうか。それをあたし、穿くんですよね。やばい。急に興奮してしまいます。パンツの模様の一つ一つを目で追って‥‥一体どこを触ったんでしょう。むすがゆい。


「センパイ、自分のパンツ見つめて何してるっすか?」


気がつくと及隶は荷物の入った小さい箱を運んでいる最中でした。


「あ、うわ、何でもないよ」


あたしはそのパンツを雑に畳んで、漢服の袖の中のポケットに入れます。


◆ ◆ ◆


そんなこんなで廊下を及隶と2人で歩いていると、簡尤が走ってきます。


「片付けは終わりましたか?」

「はい。箱に詰めましたので、もう運んでいいですよ」

「ありがとうございます。‥‥それと、あなたへお客様です」

「あたしに?」


応接室はもう大方空っぽにしてしまいましたので、宮殿にある適当な部屋を借りて、お茶も持ってきてもらいます。テーブルを挟んであたしの向かいに座っているのは、から来たという終芹しゅうきんでした。あたしと終芹は初対面ではありません。斟鄩しんしんで子履が法芘ほうひに色々な家臣と会わせてくれと頼んでいた時に出会ったうちの1人です。

終芹は、夏后履癸かこうりきの正妻である礼終らいしゅう伯父おじにあたり、とても身分の高い人です。白髪交じりの髪の毛からも、なんとなく威厳を感じさせます。


「終芹様、お久しぶりです。弟様はご一緒ではないのですね。どうしてはるばるこちらへ?」

「夏には見切りをつけたのですよ」


終芹は苦笑していました。ん、見切り?確かに夏后履癸についてはあまりいい話を聞かないのですが、その夏后履癸の外戚がいせきがこんなことを言うなんて。一体何があったのでしょう。


「もう夏には仕えないという意味ですか?」

「もちろんですよ」

「一体何があったのですか?」


終芹は言い淀みます。ちらちらと窓を見たり、茶を飲んだりで少し間が空きます。


「殺されたのです」

「え?」

「私の弟と、弟の子が殺されたのです」


ん?


「弟の子って、礼終さまのことでは‥‥ないですよね?」

「礼終のことです」

「は?」


言われたことが信じられませんでした。いくら夏后履癸が愚鈍だろうと、正妻を殺すまで落ちぶれてはいないと思っていましたが。


「夏王さまが、正妻をお殺しになったのですか?」

「はい」

「一体どのような罪を犯したのでしょうか?」

「名目はありますが、無実です」

「夏王さまはそんな簡単に人をお殺しになるようなお方ではありませんよね」

「いいえ。変わってしまったのです。妺喜ばっき様をきさきにしてから毎日部屋にこもって妺喜様を愛するようになりました。まだ朝廷をさぼっているという話は聞きませんが、時間の問題でしょう」


そう言って、ふうっとため息をつきます。


いろいろ聞きました。終芹の話を聞く限り、夏后履癸が妺喜のことをひどく気に入って自分の部屋に閉じ込めたようです。すごい溺愛っぷりですね。琬琰えんえんの時より激しいのだとか。病気かと思ってしまうほどです。

ていうか琬琰だけでは足りないのか、それとも琬琰に飽きてしまったのか。しかしこうなった以上、夏后履癸は簡単に妺喜を手放すことはしないでしょう。妺喜を救いたいあたしと子履にとってよくないニュースであることは確かですし、折を見て子履にも伝えるべきですね。


◆ ◆ ◆


あたしが終芹の姿を見たのはこれが最後でした。終芹はこのまましょうの家臣になりたいと言っていましたが、その翌日にやまいを得たようで、そのまま一週間で急死してしまいました。幸い、終芹は愚痴を吐き出す相手を探していたのでしょう、あたしに殴り込むように話してくれたので情報が極端に少ないわけではありません。しかし、夏后履癸と妺喜の関係はあたしを強烈に不安にさせるものでもありました。

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