第208話 商の朝廷に出ました

しょう王が代替わりとなって囚人に大赦が出された他に、新しい人事も発表されました。あたしは正式に商の家臣となって、簡尤かんゆうのお手伝い役として朝廷に出席することになりました。及隶きゅうたいはこれまで名目上はそうの国の家臣でしたが、これを機に曹に官位を返上して正式に商の家臣になりました。さすがに見た目も中身も幼女なので、身分はあたしよりずっと低くて、主に雑用のためあたしと子履の住む屋敷で勉強することになりました。及隶と昼間ずっと離れ離れになるのも寂しいので、毎朝及隶のほっぺをこねこねすることにしました。どうして及隶のほっぺってこんなにやわらかいんでしょう。


子履しりは三年の喪が始まったばかりです。家臣が三年の喪に服すときは職を辞して故郷に帰るものですが、子履は王様なので政務を投げ出すことも、一時的に休むこともできません。調停に出る代わりに、人から話しかけられたときにしか話すことができないというルールがあります。派手な振る舞いもよくないとされ、常に落ち着いた感じで行動しなければいけません。

子履はあたしとは別の部屋で1人だけで暮らしています。屋敷の奥にある、小さめの部屋だそうです。あたしもその部屋に挨拶に行こうとしたのですが、使用人に止められたので一度も行けていません。


曹の国の王様は家臣よりも遅く出勤するのがお決まりだとこの前姜莭きょうせつ趙旻ちょうびんが言っていましたが、商の国は子主癸ししゅきが相当厳しく自分の振る舞いを正していたこともあって、王様は早めに起きてまだ日が出ないうちに宮殿へ行って、昨日運び込まれた上奏文を読んだり、本を読んだりして過ごすことになっています。つまりそこでなら子履と2人きりになれるかも、とほのかな期待を抱いて、ある朝廷の日に朝食の料理を休んで軽食を取ってから宮殿に直行しました。大広間にやっぱり子履がいました。やったと思って近づいてみますが‥‥。


宮殿の大広間では、家臣たちのいるスペーズよりも王様の座る椅子がある場所のほうがちょっと高くて、その間には数段の階段があります。陛下の「きざはし」という字はこの階段をさしています。階段の上にいる人をさすためになぜ下という字が使われているかというと、上にいる王様に何か伝えるために、下にいる近侍にお願いして代わりに伝えてもらうことに由来しています。もっともそれは、陛下という言葉を発明したしんの始皇帝の代に置いてあった十段を軽く超えるような高い階段が前提の習慣であって、この世界ではも諸侯も階段は数段くらいしかなく、近侍もそれほど必要とされません。

子履と直接話すのは、もしかしたら子主癸が死ぬ前以来かもしれません。子履は大広間であたしと2人きりということにまだ気づいていないかのように、ひたすら本に視線を落としています。


「あの‥」


あたしが声をかけるのと同時に、大広間のドアが勢いよく開かれます。


「あー、遅れた遅れた!」


簡尤でした。遅れたといっても、あなた3番目ですよ。子履とあたしに次いで3人目ですよ。他誰もいませんよ。何かをやりきったように満面の笑顔で入ってきた簡尤は、「おっ」とあたしに気づきます。


「いらしていましたか、きさき

「その呼び方はやめてください。まだ結婚もしてないですし」

「失礼しました。昨日、林衍りんえんと話し込んでくせがついてしまったようです。しかし、いつも家臣一番乗りは私と決まっていたのに、今日は初めて私より早い人が現れましたな。もっとも、私が遅刻してしまったのが悪いですが」


うん。ってことは、今日はたまたま運が良かっただけで、あたしと子履が2人きりになれる機会は早朝の朝廷ではないってことですね。よく考えてみれば、さっき子履があたしと2人きりになっただけでは特に反応せず本に集中していたのも、こうなることが分かっていたからですね。あたしは「はぁ」とため息をついて、肩を落としました。


「ああ、伊摯いし様、わかっていると思いますが三年の喪に服している人と世間話はしないでくださいね」


小声であたしに忠告してきます。うわー。それを言うなら簡尤ももうちょっと子履に配慮して静かに入ってくださいよ、と思わずにはいられませんでした。


◆ ◆ ◆


朝廷は小難しい話も多くて退屈です。隣国からまた食糧の依頼が来て、でも商にとっても食糧は必要だから、子主癸はこう考えていただの、子履はどう考えるかだの。あたしも意見を言うことはあります。簡尤も、あたしに遠慮せずにと言って直接発言させてくれますが、よく横槍を入れてきます。


問題は、子履の顔色が日に日に悪くなっているように見えることです。子履の話す言葉にも力が入っていません。三年の喪では粗末な食事ばかりを摂ります。毎日、元気がないように振る舞うことを強制されますので、演技なのか本当なのか判然としません。声のトーンも落ちてきていますし、顔も悲しそうです。


あたしも含めて家臣が話している間、子履はずっとうつむいていることがあります。家臣と目を合わせません。見ているこっちが心配です。でも他の家臣たちはまるで何事もなかったかのように、平然と議論を続けます。そんな人たちが非情に見えましたが‥ただ、あたしにもどうすればいいか分かりません。


「簡尤様」


ある日の朝廷の終わりに、大広間から退出する家臣たちに紛れて、あたしは尋ねてみました。


「陛下が弱っておいてですが、気にならないのですか?」

「三年の喪ですからね」


簡尤は、まるでそれが当たり前のことのように流します。いらついてしまうものでした。


「心配にならないのですか?」

「あれだけ親を慕うのが美学というものですからな。もちろん病気になるようでは困りますがな。今は自分のことを考えたほうがいいですぞ」


簡尤はふところから本を一冊取り出してあたしに手渡します。経済の本でした。


「まだ難しいかもしれませんが、字の練習だと思ってお読みになるのですぞ」


あたしはその本だけを持って、呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。


◆ ◆ ◆


宮殿は急造ですがわりとすぐできそうです。しかしまだ新しい屋敷はできていません。仮の屋敷のこの部屋にあるベッドは、あたし1人分しかありません。新しい屋敷ができる頃には、三年の喪も終わっているでしょう。

あたしは、窓辺にある机に本を置いて、椅子に座ります。部屋にはあたし1人だけです。窓から差し込んでくる光が部屋を照らしていましたが、それは窓の近くだけです。向こうにあるドア周辺は日陰になっていて、うすぐらいです。それを見ていると、あたしは急に感傷にひたらされます。簡尤からもらった本を見る余裕なんてあるはずがありません。


ドアのノックがします。あたしはぴくっと立ち上がりますが‥「入るっすよ」という声がしたのでため息をついて、ゆっくりと座ります。及隶きゅうたいが2人分のお茶を持ってきました。ああ、及隶も役人になったのですから、前よりはお茶を飲みやすくなったのでしたね。


「センパイ、最近元気がないっすよ」

「え、そう?」


及隶は、机のそばに置いてある小さい階段を使って、あたしの机の端にお茶を置きました。そのうちの1つを引き寄せて飲んでみます。なんだか落ち着いたような、甘い味がします。


「毎日のように、こうしてぼうっとしてるっすよ」

「え、そうだったっけ?」

「お嬢様が落ち込んでて悩んでいるっすね」


及隶は、あたしの座っている1人用の椅子に割って入りました。あたしがお茶をもう1つ引き寄せると、及隶はそれをつかんで少し飲みます。

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