第3章 夏休み

第104話 確定事項になっていました

なにはともあれ、建卯けんぼうの月以来5ヶ月くらいぶりの商丘しょうきゅうです。あたしはしんの国の出身ですが商丘でも半年以上働いていたので、林衍りんえんに護衛されながら馬車で進む商丘の街を眺めていると、まるで自分の家のようになつかしいものです。


「着きましたね」

「はい、様」


あたしは街を眺めていて、ふとあることに気づきました。大通りから見える裏道に、人骨がありません。斟鄩しんしんでは人骨だらけだったんですよね。死臭をごまかすために火をつけて燃やしたり、果物の皮をかぶせたりする人もいるくらいでした。それがありません。まあ、道に骨が落ちていないのはこの世界では商の国くらいですよね。前世の日本では常識だったんですけどね。

ほかにも、他国にないものがあります。子履が広めてしまった風呂というものが、銭湯として複数のみせまたは店で営業されています。といってももともと入浴の習慣がなかったので、この商の国でも数えるほどしかないのですが、これから増えていくでしょう。この世界では水道代わりに小川が都市内のあちこちに引かれており、また井戸もあって、水はそこから手に入ります。でも銭湯は大量の水を消費するので、増えすぎたら水道の整備が必要になるかもしれません。斟鄩では歯磨きという習慣を嫌う人がいましたが、入浴という習慣は、この世界ではもともと沐浴もくよく(※おもに王が宗教の儀式のために体を水で清めること)という行為や、たまに川で体を洗い流すという習慣が存在するので、あまり難なく受け入れられるかもしれません。


「入浴が民に受容されれば、臭いに悩むことも減りそうですね」


あたしは思わず、車窓を見ながらぼろっとこぼしてしまいます。そうなんです、斟鄩学園ではとにかく誰もが体を洗わないので、臭いがひどいです。正確には体臭そのものではなく、体臭をごまかすためにみんながたいている香ですけどね。花のきつい臭いがたまに来ることがあって、気分が悪くなりそうなものです。子履しりはもともと体を洗っていることもあり香が控えめなので、気がついたらふらふらと近づいてしまいそうなものです。


「この調子で歯磨き、散髪も根付いたらいいですけどね。歯磨きはともかく、散髪はかなり難しそうです。散髪は私の代では無理でしょう」(※この世界では髪は身体の一部と考えられ、切り落とすことはダブーとされている。『髪を切る』という刑罰が存在するほどである)


子履もそう返してきました。やっぱり子履もあたしと同じく、この世界の公衆衛生を心配しているようです。生の鹿肉や豚肉に拒絶反応があるの、この世界ではあたしと子履くらいなんですよね。前世の記憶がある人同士、気が合いそうです。あ、いやいや、結婚は絶対にしませんからね。


◆ ◆ ◆


あたしはあくまで使用人の身分なので、屋敷に到着する前に馬車から降りたほうがいいですね。ほんとは林衍に最初に会ったタイミングで降りるべきでしたが、あの空気で外を歩けるような気持ちにはなれませんでした。商の都市に入ってしまったのでもう遅いかもしれませんが、極力人目につかない場所で馬車を止めます。そしてあたしは及隶きゅうたいと荷物を持って馬車から降り、ふたたび発車する馬車にあわせて歩きはじめます。それを林衍は不思議な顔をして首を傾げます。乗っていた馬には戻らず、馬を引きながらあたしの横を歩いて尋ねます。


「どちらまでお歩きになるのですか?」

「屋敷まで歩きます」

「なぜ婚約者がそのようなことをなさるのですか?」

「えっ‥だってあたし、商の料理人でございますし、身分上は使用人ですので」

「何をおっしゃっておられるのですか。あなたはすでに料理人としては除名されておいでですぞ」

「えっ?」


あたしだけでなく子履も窓から顔を出して目を丸くします。一体何かトラブルがあったのでしょうか。


「とにかく馬車にお戻りください。そのまま屋敷まで歩かれますと、私が叱られます」

「は、はい‥‥」


林衍に言われるがままに馬車の中に戻ると、子履に尋ねます。


「履様、そのような指示をなさったのですか?」

「いいえ、私は何も。むしろの料理を楽しみにしていたのです」

「ええっ‥‥」


子履も困惑しています。あたしも困惑しています。


「‥‥‥‥陛下はこのようなことを履様にお伝えせずにやるようなお方ですか?」

「それは‥‥今までにそのようなことはございませんでしたが、私が長期間遠方の地に赴くのも初めてですので、どうでしょうか‥‥」


と不安げに答えてきます。あたしも何が何だか分からず、及隶をぬいぐるみ代わりに抱きながら、ひたすら馬車の外をじっと眺めていました。


◆ ◆ ◆


商の屋敷に戻りました。中世ヨーロッパ風の屋敷には、玄関の前にこうして馬車を置くための広いスペースがあります。大勢の、例によって中世ヨーロッパのおしゃれなデザインとはアンマッチな漢服を着た使用人たちが並んで、あたしたちを出迎えます。

と、その中に家臣らしき人が何人か混じっています。あたし、あくまでこの屋敷の使用人ですので、家臣の顔はよく知らないです。


馬車から降りると、拝をしていたその2人の家臣のうち1人が話しかけてきます。


「おかえりなさいませ、殿下に、様。ささ、こちらへ」


そうして応接室に通されます。といってもここは、もともとこの屋敷に住んでいる子主癸ししゅきや子履やその妹たちがお客を迎えるための部屋であって、あたしと子履はテーブルの立派に着飾った椅子に座らされます。本来の古代中国とはずいぶん様式が異なるようですが、この世界ではこの椅子が上座として扱われます。2人の家臣が下座となる粗末な、といっても前世の一般家庭の椅子と比べると遥かに豪華な椅子に座ります。


「私は殿下と履様のお世話を仰せつかった徐範じょはんでございます。横にいるのが簡尤かんゆうです」

「よろしくお願い致します。ですが、なぜでしょうか?これまでは母上がおられたのですが」

「それが、陛下は昨今の冷害のために多忙になっておいでです。連日あちこちのむらに視察にお行きになり、必要に応じて陽城ようじょうなどに助けを求めに行く機会も増え、ここにいる時間が減ったのです」

「そんなことが‥‥」

「特に今年の出来は去年よりひどいうえに、連年の冷害のために備蓄も底をついておりまして。ああ、普段の食い扶持は大丈夫でございますぞ。主に農村や、都市部でも貧乏な者が困っている状況ですからな。今はまだ」


もうすぐ収穫の季節ですので、特に忙しくなるのはわかります。それなら仕方はありませんね。あっそれなら、あたしも厨房の中で5人の子供グループのリーダーとしての役目がありますので食材を確保する方法を考えなければいけません。


「厨房も食材問題で大変ですよね。ああそうだ、すでに今夜の食事を作り始めている頃ですが、あたしの復帰は明日の朝食からでよろしいですか?」


すると徐範と簡尤はお互いの顔を確認します。それから徐範が小さく首を振って、返事します。


「いいえ、伊様が料理をなさる必要はございません。本日から婚約者として、通常の貴族同様の生活をしてもらいます」

「うん‥‥ええっ!?」

「何を驚かれておられるのです。逆に婚約者に下人の仕事をさせたなら、私の首がとびますぞ」

「えええっ!?」


あたしだけでなく子履も少し動揺したようで、テーブルに手を置きます。子主癸はあたしが正式に婚約者となっても料理をさせてもらえたのに、変わったんですか!?


「そこをなんとか、料理させてくれないでしょうか」

「ダメです」

「そこをなんとか‥‥」


あたしが困っていると、子履も横から懇願してくれます。やっぱりあたしの料理が食べたいらしいです。


「私からもお願いします。料理は母上より許可されていたはずです」

「陛下から特にご指示はいただいておりません」

「母上に早馬を出してください」

「‥‥わかりました。手配をいたします」


やはり子履の言うことには逆らえないらしく、徐範は頭を下げます。子履が味方してくれたおかげで助かりましたが、これから数日、場合によっては1ヶ月くらいあたし料理できなくなるかもしれません。あたしが使用人のままでいるための唯一のアイデンティティだったんですよね‥‥。ふうっとため息をつきます。

そうだ、及隶を通して厨房の様子を聞きましょう‥‥と思ったのですが、隣に及隶がいません。ああ‥‥そりゃ及隶がこの椅子に座るわけありませんよね。でもなんとなく寂しいものです。

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